中学生の頃、テレビで「中国から来た漢字が元になっているから的を得るが正しい」みたいなことを聞きました。その数日後に国語の授業で、「的を射るが正しくて的を得るは間違い」と習って、どっちなんだと思った記憶があります。
「的」という語を、いくつかの同心円が描かれた円盤状のものと捉えるか、実際の攻撃の対象(敵兵、狩りの獲物など)と捉えるかという違いも違和感を抱く原因なのかと思います。前者の場合では「射る」としても「得る」としても矢が突き刺さっているさまを思い浮かべることに特に違和感はありませんが(但し、「射る」ではなかなか的に当たらない人というニュアンスが感じられる場合がありますが)、後者の場合では「得る」だと少しおかしいかなと感じます。この場合、「的を得る」だと単に「標的を発見した」といったようなニュアンスに感じられます(私見ですが)。私にとっての「的」はどうしても後者のイメージが強いので、私は「的を射る」を用いています。長々と失礼しました。
興味深く拝読しましたが、「的を得る」は誤用、だと思いました。
「正鵠を得る」が良くてなぜ「的を得る」ではいけないかと言うと、「正鵠」は単に的の中心という名詞であるだけでなく、発展して「正鵠を射た」という結果、状態をも意味するからです。「正鵠を射た」ことを、「正鵠だった」と換言することができます。
しかし、「的」を「的を射た」という結果、状態という意味で「的だった」などとは使いません。
したがって、「正鵠を得た」は「正鵠を射たという結果を得た」の省略表現であり、成立しますが、「的を得た」は「的を射たという結果を得た」という意味を成しません。
「的を得た」は、「的を入手した」以外の意味はありません。
的を得る?的を射る?で気になって
Google検索したらたどり着きました。
言葉は時代と共に変化するものだし、各自が好きな方を使えばいいと思います。
編集済
弓を射る。
そして的を外さずに的のど真ん中を弓で射抜いた。
すなわち、それを的を得る(ゲットする)と考えています。
弓は射れる(発射出来る)けど、的は射れない(発射できない)ですよね。
的は弓で射抜くものです。
(もしくは弓で射抜かれるもの)
弓で的を射ても、当たっているかは分かりません。
なので的を射るを正解にすることには違和感を感じます。
「的を射る」よりも当たったことが明確な「的を得る」を使いたいものです。
「(弓で)的を射る」より、
「弓を射て、的を得る」です。
編集済
私も自分で使う際は的は射たいですね。
正鵠は既に日常の一般的な言葉ではなく、非物質的概念としての変換がなされた後の言葉のような感じがします。個人的には変換後の『物事の急所・要点』としか対応関係が無いように感じます。
一方、的については、人それぞれかもしれませんが、やはりまだ「的」という物質的な概念そのものを容易に想起することができるのではないでしょうか。
射るという動詞との組み合わせを考える際は、この違いが大きいのかなと感じました。
「射る」は「得る」と比較すると、格段に具体的動作のイメージを喚起させるように感じます。そのため具体的なものを充てがいたいと感じるのが自然なのかなと思います。かつて正鵠が的の中心という意味で通じる時期があったのであれば、正鵠を射るという用法にも違和感が生じにくいと思ういます。しかし、正鵠がほとんど非物質的概念を指す事のみに使われるようになった現代では、射るという言葉を使いにくいと感じるだろうという理由で、正鵠を得るという表現が残ったという風に考えると個人的には納得できます。
的を得るについても先と同様の論法で話を進められるように感じます。
つまり、的の指す内容が物質的概念よりも非物質的概念の方が強いようであれば、的は得るといっても違和感が無いという風に感じられるんじゃないだろうかということです。
私個人的には、「的」は物質的概念が優位で、それありきで非物質的概念に思い至るという状態のような気がします。
ですので「的」は射るのが自然に感じ、得るとちょっと違和感を感じるのだと思います。
たくさん見かけるようになったので意味は分かりますが。
作者からの返信
非常にご丁寧かつ興味深いコメントありがとうございます。
物質的概念と非物質的概念という考え方は中々に興味深いところです。
「的」「正鵠」「射る」「得る」をそれぞれどのような概念として捉えているかで、違和感を覚えるか否かが左右されるのでしょうね。
例えば、「射る」には行動の開始のニュアンスを強く感じ「結果」が伴っていない、つまり「的に当たった」という意味まで含んでいるように感じられないので「得る」の方がしっくりくる、という方もいらっしゃるようで、この辺りは人によって解釈様々であるようです。
また、「的を射た」だけではどの部分を射た(射抜いた)のか分からない、というご意見も目にしたことが。
その場合、「得た」という「上手く捉えた」という意味の言葉を使って「的を上手く捉えた≒的の中心に当たった」と表現する方がより原義に近いのではないか、という主張ですね。
こちらはNamasukaさんの仰る非物質的概念と近い考え方かもしれません。
>正鵠は既に日常の一般的な言葉ではなく、非物質的概念としての変換がなされた後の言葉のような感じがします。
こちらについてですが、正鵠は今でも「的の中心部分」を指す言葉として普通に使われているので、非物質的概念と言ってしまうと、少しかわいそうに感じてしまいます。
この辺りも個々人の語彙に依存する部分かもしれませんね。
起源や経緯はどうあれ、今この時代にそれぞれの言葉がどのようなニュアンスで使われ、多くの人々にとって納得を得られるのか、専門家の見解はどうなのか。そこまで考えてこその言葉の意味や用法なのでしょうね。
考えているとキリがないですが、私的にはそこが楽しく感じられます。
私も誤用しておりました。しかしこれ活用になってくると「的を射た作戦」「的を射た指摘」は分かるのですが「的を得た感想」とか、対象がふわっとしたものになるにつれ、射た、という言葉になんとなく違和感を覚えてしまいます。それほど、的を得た、というフレーズがありふれていて耳馴染みしてしまっているのかな、と感じました。
これは自分も思っていました。誤用と言い切るのは無理があるんじゃないかと。
よくある解説では、「正鵠を得る」の例を出しながらも、「的を」に対しては「得る」ものではないから間違い、と断定するだけの場合が多いのですが、個人的には「正鵠」を「的」に置き換えて言うことに何の不合理も感じなかったものですから。
話は逸れますが、最近この「何の~~もない」と言う表現を「何の~~のない」と表記するような表現上の間違いもよく見かける気がしますが、この連載用のネタとしてどうでしょうか。
作者からの返信
「的を得る」を含めて、言葉の意味合いとしては間違っていないので、「新しい表現」ではあるけれども「誤用」ではなく、「伝統的ではない」だけ……という言葉は結構ある気がします。
まあ、この問題については「的を得るは誤用」原理主義の方もいらっしゃるので、お茶を濁しておきたいというのが本音なのですが(苦笑)。
編集済
英語に直してみれば何故
得る/得ずが使われたのかわかると思うのですが
正鵠は中心だから得るけど的なら違うとか
得るを認めない人の屁理屈凄いですね
的を射るより的を得ずの出典の方が古かったはずですけどねw
まあ得るは間違いと言い始めた
言い出しっぺの三省堂が過ちを認めてるのでそれが全てでしょう
私は高校時代がバブル期で
急に似非マナー講師がクイズバラエティとかで
『ご苦労様は目上に失礼/お疲れ様を使いましょう』とか
知ったかマウント取り始めたの見て
「ファ!?お前の日本語知識はどっから来たん?読書量0かよ!?」
と頭クラクラした覚えがありますが
日本人ってホントに流行りに弱いし、知ったかマウント取りたがりますよね