8 少年と姫君の涙
「ねぇねぇ、マイリさん」
この城へタウ達がきて三日目、彼は毎日のようにその庭へ足を運んだ。この国の宰相であるマイリは自分の身分を明かしていたが、タウにとって宰相とは庭仕事をする者とでも思っているのか、不思議そうな顔をしていた。じゃあ、なんて呼べばいいの? と純粋に聞く彼に、マイリは笑って自分の名を彼に渡したのだった。
マイリとタウはその庭で1番大きな木に持たれかかって、3日前に種を植えた場所を見つめていた。イクロはタウには付き合っていられないとでも言いたそうにしていたから、今はきっと城の1番上で町の眺めでも楽しんでいるのだろう。
「種は次の命を繋ぐためにできるっていったよね」
「言ったの」
「今までね、1度も種をつけなかった木があるとして」
そこでマイリは白い眉をぴくりと動かした。だがその表情の変化にタウは気づかない。
「それにさ、今ごろ種が出来たとするよ? どういう意味だと思う?」
タウはそう聞いて膝を抱える。
「何か特別な意味があると思う?」
「タウはあると、思っておるんじゃな?」
「……うん」
「それは、あるだろうなぁ」
マイリはそう言うと、自分の懐を探った。そして小さな袋を取り出す。
「何故、命を繋がなくちゃならぬのか、考えてみぃ」
袋から小さな包を取り出すと、マイリはタウに渡した。包みの中には薄紅色の砂糖菓子が入っている。タウが不思議そうにマイリを見ると、彼は目を細めて自分の口に同じ砂糖菓子を放りこんだ。
「わしはこれが好きでなぁ。甘いものを食べると生きてるのぉという気がするんじゃ」
「マイリさん」
「他にも好きなもんはある。息子も息子の息子も可愛い。うむ、息子の息子は息子以上にかわいいもんじゃ」
「……僕は、そういうことじゃなくて」
マイリは、ほほっと笑うと、袋を再び袋へしまった。
「そういう、ことじゃ」
タウは、砂糖菓子をつまんだまま見つめていた。
そして、立ちあがるとあの種を植えたところへ歩み寄る。
「残したかったのかな」
なんのために?
種もつけず、ただ僕たちと一緒に生き続けていたヨバルス。ヨバルスが「次」を作ることを望んであの種をシグに託したのだとしたら。
じゃあ、僕達は何故ここにいるの。
ヨバルスが泣く原因。それを突き止めにきたのに……。
この世界は……地人はみんな戦いあって殺しあって。でも、死を悼み、花を愛する。
命を喜び、時に泣き……。
「僕は、地人が分からないよ」
風は地人の涙を歌い、イクロはそれを響きにする。地人はそれを聞いて泣き、風はますます泣きはじめる。
タウは地面に視線を落とした。土が少し盛り上がっている。タウは目をこらし、その場にしゃがみこんで鼻に土をつけそうなほど近くまで寄った。
薄い緑色の小さな小さな葉っぱ?
「マイリさん! これって!」
その盛り上がっているところへ手をかざす。
触れようとした。
その瞬間、心臓がどくんっと大きくなった。触れようとした手をタウは自分の心臓へ重ねた。どくどくと言うのは、自分の心臓じゃなくて。
胸に掛けた小さな袋。
袋がそこだけ熱くなっていた。
(ヨバルスの一枝?!)
声が聞こえた。耳元で叫んでいる。
イクロの歌に似ている。
あの空でヨバルスの枝に座って、ヨバルスの枝に触れて目を瞑って……。
空の青色と、ヨバルスの緑色へ吸いこまれるイクロの歌。
(違うんだ)
タウはその場にしゃがみこんだ。土の間から出た小さな緑色に恐る恐る触れると、それは大きな声で歓びを歌う。
(ヨバルス!)
袋をぎゅっと握り締めて、タウは天を仰ぐ。
帰っておいで。
帰っておいで。
戻ろう。
待ってるんだ。
だから、帰っておいで、ここへ……。
タウは右手で自分の目をこすった。
熱い……。涙が、止まらない。
「タウ!」
イクロが飛ぶようにして駆けて来る。それをタウは涙を流したまま見つめていた。
「タウ! どうしたの? 痛いの? いじめられた? 誰に? 大丈夫? あの爺さんでしょ? どうなの? はっきりしなさいよ!! 殴ってやるから!!」
タウは顔を覗きこんでくるイクロに首を振りつづけた。
「大丈夫」
「タウ?」
タウは涙をぬぐって立ちあがる。そして、マイリに顔を向けた。
「マイリさん。僕たちを、ヨバルスの一枝の元へつれていってくれませんか?」
マイリはゆっくりと立ちあがると、静かな目でタウを見つめた。
「いいじゃろ」
マイリはゆっくりとした足取りで歩き出す。タウとイクロはそれに続いた。
そこは、シータ姫に初めて会った部屋。その帳の向こう側にマイリは躊躇なく足を踏み入れた。人を拒むような白色の布がふわりふわりと揺れ、その後に続く様にしてタウは老人の背中を追う。
その奥にはまた長い廊下が続いていた。老人は1度も振り替えずに、しっかりとした足取りで歩いて行った。城の中なのに誰一人すれ違わないことに、タウは違和感を覚えた。
特別な場所なのかもしれない。
容易く入れた場所だけど、誰も見かけないのはそうからだろうかとタウは考えた。
天空にある城・リューラにもそのような一角がある。長老しか入ることを許されていないが、とくにそれを取り締まる人物も居ない。ただ「許されてないから入らない」だけだった。そして、そこにはその理由がすんなりと人の心を支配する空気がある。それと同じ静けさ。
城の真中あたりになるのだろうか。とタウは自分の辿ってきた道を思い返して見当をつける。
マイリが足を止めたところは、四方を建物と回廊に囲まれた中庭だった。丸く曲線を描いた天井の真中は丸く開いていて、そこからまっすぐに光が指しこむ。落ちる光を視線で追うと、地面に小さな枝が刺さっていた。
それはあまりにも頼り無く、見落としてしまいそうな儚い存在だった。
「一枝だ」
気のせいかマイリの声は小さくかすれて、どこか冷たいものが含まれている。タウがそんな響きが気になってマイリの表情を確認しようと見ると、老人は薄い唇を結んでその一枝を睨みつけていた。
タウはその表情を心に刻み、また一枝に視線を向ける。
タウはヨバルスの声を知らない。その感情は微小な波動として受けることは出来る。タウの受け取ったヨバルスの一枝は、それよりももっと小さな波動を出している。そして、目の前のヨバルスの一枝の波動は、切れ切れで今にも耐えてしまいそうだった。だけど、その繰り返される波動に込められた感情を受けると、タウは胸を抑えたくなる。
逃げたくなるのだ。
しかし、タウはあえて一歩進んだ。その途端、タウの持っているヨバルスの一枝が歓喜とも悲哀ともいえぬような声を挙げた。この城の一枝の波動を受けて大きく響く。
タウは胸を抑えて、足を止めた。だけど、逃げたくなる感覚をねじ伏せて、また一歩足を踏み出す。
一歩近づくごとに、ヨバルスの一枝の声はか細くなっていく。そのかわりそこにある感情が段々はっきりとした形になってタウに届いた。
タウの側に居たイクロが、タウの手をぎゅっと握り締めた。
「タウ」
イクロはタウよりも影響をうけているはずだ。
「悲しい、ね」
タウは頷いた。
ヨバルスの一枝の悲しみは、人が自分の巡って争うことへの悲しみでは無い。
そんなことではない。
「そこで何をしているの?」
タウとイクロは一枝の前にしゃがみこんだ。
小さく、でも高くて透き通った響きが、耳でなく心に届く。
「そうだね」
イクロとタウは手をつなぎ、開いた手を一枝に重ねた。
ごめんなさい。違うの。ごめんなさい。
無力で。
何も出来なくて。
何も与えられなくて。
悲しいぐらい切なく、一枝の響きは繰り返す。
「……誰にも届くことなく……」
マイリがいつのまにかタウとイクロの後ろに立っていた。
「わしも、こいつの言うことを長年汲みとれはしなかったんじゃ」
「マイリさん。あなたは……」
「わしには、ヨバルズシアの名残はないがなぁ。そのかわり大地を聞くことは出来るんじゃ。耳に頼らないぶんのう」
マイリは二人と同じようにその場にしゃがみこみ、地面に手をつけた。
「こうすれば、大地には大地の力があることがわかるんじゃ。実りは誰かが与えてくれるもんでもない。ましてや一枝の力など……」
「マイリさんは知ってるんだね?」
「わしは、知ってる。だけども、誰にも伝えられんかった。シータ姫はただ悲しみに沈み、シロン王は戦いの意味を置き違えた」
マイリはふと微笑んだ。
「お前さんらは、伝えてくれるかの?」
タウはイクロと眼を合わせる。と、そこに高く響く声が環って入った。
「何をしているのです?」
タウとイクロは振り帰り、マイリはそれに遅れて振りかえる。ファイと同じ格好をした人々が並んでいた。その中心に居るのは、顔を蒼白にしたシータ姫と隣にファイ。
人々は、手に弓を持ち矢の先をこちらに定めていた。
「シータ姫」
マイリがそう言うと、シータ姫は悲しそうにマイリをみる。
「マイリ様。ここにその二人を連れてきてはならぬと私がお願いしたのをお忘れですか?」
「かわいそうな娘じゃ。悲しむことしか出来ず、代々守られてきたものを守るしか出来ず……。その意味を知ろうともせず、ただただ泣くだけしかできぬかわいそうな娘よ」
マイリはそう言って、タウとイクロの前に立ちふさがった。
「マイリさん!」
「おじいちゃん?」
「お前に、その立場は重た過ぎたの……」
「ここから即刻立ち去ってください。マイリ様。タウ様、イクロ様」
「イクロ、タウ!」
ファイの声がして、イクロとタウはマイリの腕をそっと避けて、マイリの前へたった。
睨みつけるファイの顔を真っ直ぐに見て、タウは呟いた。
「ヨバルスの一枝の声なんて、お姫様にも聞こえないんだね。誰にも伝わらなかったんだね?」
シータ姫はタウを怪訝そうに見つめていた。その瞳に宿る色はタウには恐れが混じっているようにも見えた。
「ヨバルスの一枝が、この地の人々を愛していることも。
シータ姫を愛していることも、
だから、ずっと泣きながら謝りつづけてることも、誰にも聞こえないんだ!」
カチリと音がして、兵士達は一斉に弓を構えた。
マイリを押しのけて、タウはばっと腕を広げた。大きく目を開いて、シータ姫とファイを見つめる。マイリの制止を振り切って、イクロも同じようにマイリの前で腕を広げた。
シータ姫の細く小さな手が小刻みに震えていた。
「聞いて、シータ姫! 戦う必要なんてないんだよ!」
「即刻立ち去ってください」
大きく息を吸いこんでから、シータ姫は凛とした声でそう宣告した。
「もう、二度は言いませんよ」
「本当に、ヨバルスの一枝は豊かさを与えてくれるのかな」
ぽつりと呟いて、タウはシータ姫を見つめる。探り合う視線の先で、シータ姫はぎゅっと唇を噛んだ。
「地人は食べるものを自分達で作るんだよね?」
「ええ。畑を作ってそこで作物を作るのです。他には樹を植えて果実をとったり、動物を育てたり……」
「そこにはさ。地人の力もあるんだよね? 何もしなくても食べる物ができるわけじゃないよね」
タウは思い出した。あの賑やかな市場の様子を。
「地人が、作ってるんじゃないの? ヨバルスの一枝が与えるなんて、幻想じゃないの?
ヨバルスの一枝が。ううん、ヨバルスが与えたかったのはそんなもんじゃないんだよ。きっと」
タウはその場にしゃがみこんで、ヨバルスの一枝に手を伸ばした。
「やめて!!」
シータ姫の叫び声に反応する様に、兵士達は一斉にその矢を放つ。
「お願い!」
イクロが祈る様にして叫んだ。その響きは近くに居た風を動かす。マイリを含めたその周りを風が一瞬だけ渦を巻き、矢の進行を妨げる。放たれた矢は、風に巻き込まれタウ達の足元の地面に突き刺さった。
風が止み、その中心にいたタウの手にはヨバルスの頼りない一枝が納まっていた。兵士達は次の命令を待つように矢を構えてはいるが、うろたえ、手が震えているものもいた。
「返して!」
シータ姫が大きな声を挙げ前に踏み出す、それに反応するかのようにファイが近くの兵士から弓を奪い取り、タウへ向けた。
「戻せ。……戻すんだ、タウ!」
「いやよ」
答えたのはイクロだった。
「貴方はこの地にあるものを求めたらいいじゃない。
貴方達はヨバルスから離れて行った。
なのに、ヨバルスに頼りっぱなし。挙句の果てにこの争いよ。
どうして見ないの?
どうして、こんな綺麗な地を見ようとしないの?
どうして、求めたものを忘れてしまったの?
ファイ、貴方がこの地に求めたのはなに?」
タウが言葉をつなげる。
「『地人はそれを決めることができる。何のために生きるのか、どうやって生きるのか。
地人は自分で決めるんだ』
ファイの言葉だよ。
僕は、それを聞いたときに思った。それが、きっと、人にヨバルスが贈りたかった物だって」
タウは自分の手の中にある一枝に囁いた。
「行こうか」
タウが小さな声でイクロを呼ぶと、イクロはその手をタウに差し伸べた。その手を取ってタウは小さく頷き、唇に一枝を寄せる。
「君の最後の力を借りれる?」
タウの言葉を受けて、ヨバルスの一枝は手の中で煌煌と輝いた。タウとイクロの体がふわりと浮かんだ。マイリが一歩後退り、タウとイクロの体を支えるようにして、風がそこへ集まった。自分たちを囲む様にして巡る風の筋道を探る様に、タウは目を瞑っていたが、ふとその視線をシータ姫へ向けた。不安と怯えに満ちた青緑色の瞳と、毅然とした琥珀色の瞳が重なった。
琥珀色の瞳は微笑んだ。
「ねぇ、シータ姫。貴方はこの城から出たことがある?」
シータ姫は何を言われたか分からないという顔をした。
「貴方の為に花を持ってくる人たちの顔を見たことがある?」
「その花が咲いているところを見たことがある?」
シータ姫は小さく首を振る。
「気づかないと駄目だよ」
「悔しいぐらい、綺麗なのにね」
二人は顔を見合わせ、頷く。風が二人の背中を押した。あっという間にタウがシータ姫の右手を取り、空に引き上げたところをイクロが腰を支え、兵士やマイリやファイの手の届かない位置まで浮かびあがった。
「下ろして!」
シータ姫が恐怖の声を上げると、足元が騒がしくなった。
ただ、マイリだけが瞳に笑みを浮かべている。矢を向けるわけにもいかず、兵士たちはひたすらおろおろとしている。ファイがタウに怒鳴りつける。
「タウ!!」
おびえるシータ姫は声も出ない。タウはファイとマイリに順番に視線を向けた。
「僕はこの大地は美しいと思ったよ」
「心配しなくても、すぐに戻すわよ」
イクロとタウが同時に息を吸いこみ、そして次に放った言葉は美しく重なった。
「風よ!」
心地良いとは言えなかったが、風は無言で三人をさらいあげた。シータ姫も一緒だからか、少しだけ柔らかな感じもした。
上から差し込む一筋の光を辿るように、彼らの身体は天の青い空へ吸いこまれていく。あっという間に城の上空に上がり、眼下に城と町とその先に美しい緑色が広がっていた。
「見て、シータ姫」
堅く目を瞑るシータ姫に、タウは優しく声をかける。
「大丈夫、ちゃんと支えてるわ」
イクロが声をかけて、ようやくシータ姫は恐る恐る目を開けた。そして、一瞬悲鳴を上げ、しかし、その眼下に広がる風景にその表情は和らいでいった。
上空だと言うのに風は柔らかく、シータ姫の金色の髪を興味深そうに撫でて行く。四方を見渡して、ようやく青緑色の瞳は瞬いた。
「広い……」
ほっと零れ出た言葉の響きに、タウは笑みを深めた。
タウの手に伝わるヨバルスの一枝の嘆きが、タウの頭をがんがんと打っていた。
いとし子を裏切る悲しさ。
だけど、ヨバルスの一枝は……ヨバルスは、ずっと裏切り続けていた。
ヨバルスの哀しみはヨバルスの一枝の哀しみ。
それは愛しい子たちを裏切りつづけていることへの哀しみ。
決して、この地で争う人々への恨みや悲しみではない。
「僕ね、この地の緑を見てびっくりした。ヨバルスはすごい力だって。一枝だけで、この美しい風景を守ってるんだって。
でもね、違うんだよ。ヨバルスはきっかけしか与えて無い。
あとは……君達の力なんだ」
タウはヨバルスの一枝の声を一生懸命に伝える。
「ヨバルスの一枝が豊かさを支えてるなんて、誰が言ったの?
誰が確かめたの?」
タウはイクロに一生懸命しがみついているシータ姫の瞳を見つめた。
「……ヨバルスはそんなもの与えたかったんじゃないんだよ……」
「ね、私、地人のことはそんなに好きじゃない。でもこの風景は」
イクロはシータ姫に笑った。
「綺麗だと思うわ!!」
シータ姫は視線を遠くまで馳せ、そして、ゆっくりと足元へ。そして、また遠くを見つめた。
「……きれい……」
呟いた言葉が何にも飾られていなくて、イクロとタウは視線を合わせた。
ずっと遠くの方を指さして、イクロとタウはシータ姫に言う。
「この綺麗の向こうで起こっていることも……」
シータ姫はその指の先に繋がる風景を凝視した。何も変わらない緑の大地のように見えた。けれどもイクロとタウが、笑みを引っ込めて真剣な目で見るので、シータ姫はただ小さく頷くことしかできなかった。
その表情に二人はこっそり笑いあって、そして、今度は緩やかに地上へ降りて行く。風はとても協力的だった。
シータ姫は気付けば城門の前にいた。城を外から眺めることもほとんどないことだった。城を見上げていると、鼻を花の香りがくすぐる。その香りの先を見ると、城門に次々に届けられる色とりどりの花だった。それを嬉しそうに届ける人々の顔をゆっくりと見渡して行く。
『姫様が』
『喜んでくれるかな』
『あの人が無事に帰ってくるように……』
『願いを聞き入れてくれるかな』
シータ姫は顔を覆い、うつむいた。
願いと、自分への思慕と、
期待と、人々の思いと、
そんなもので、ここはあふれかえっている。
それがとても苦しかった。
城へ向かえばいいのに、足は一つも動かなかった。やがて、周りの人々はシータ姫の存在に気付き、遠巻きに眺めだす。
自分の存在が何なのかわかったのだろうかと思う。
自分が民の顔がはっきりと見えるようなところに出たことはない。ということは民からもはっきりと見えるはずがない。
何故だろうと思いながら、自分のように真っ白で、衣を幾重にも重ね、裾を引きずるような衣装を着ている者などないことにも気付く。
「姫様?」
ふわりと何かが衣に触れる感触がして、そっと顔から両手を外すと、まだ幼い少女がこちらを見上げていた。
「まっしろくて、ふわふわ。
きらきらのおぐし。
姫様なの?」
返事は出来なかった。けど、少女は確信したような表情を見せ、そして、笑った。
「姫様。今日、おかあさんとお花を持っていったの。
姫様がお元気でいてくださいますようにって。
お花、見てくれた?」
城の中のあちらこちらに飾られた花々。それを城下の住人が「持ってきてくれている」という意味が分からなかった。それを、今、本当の意味で理解した。
様々な思いが込められた「花」たち。
シータ姫は、涙を拭う。そして、裾が汚れることも厭わず、少女の前にしゃがみ込んだ。
周りの人たちが息をひそめてこちらを伺っていた。少女の母だと思われる女性も、一歩踏み出しながらもうろたえていて、どうしたらよいかわからぬような様子をしていた。
シータ姫は少女と視線の高さを合わせる。
「ありがとう」
そっと口にした言葉に、心の中にずっとあった冷たい塊がふっと和らいだ気がした。
城門の内側が騒がしくなってきた。
城へ戻らなければならない。
少女は屈託なく笑う。それに、シータ姫は微笑み返した。
「ありがとう……」
もう一度言って、シータ姫は立ち上がった。周りからこちらを伺う住人達を見渡して、そして、微笑んだ。
その瞬間、城からの迎えに遣わされた侍従に囲まれ、速やかに城に誘導される。城門内へ入ったあと、人々の歓声が背後から聞こえてきた。
あの声さえも。
私はずっと聞こうとしていなかった……。
シータ姫は、ヨバルスの一枝が無くなった場所に視線を落としていた。随分長い間そうしてたような気がする。そのうち、背後に二つの気配が立っていることに気づいて、振り返った。
ファイとマイリだった。
ファイはシータ姫の元へ近づき、その場に膝をつく。
「あの二人を城内に引き入れたのは私です。処分はいかようにも」
シータ姫はファイの項垂れた頭をじっと見つめていたが、ふいっと視線を再びヨバルスのあった場所へ戻す。
「……いいのです。……何も知らなかった私が……悪いのです」
シータ姫の声は思ったよりも重くなくて、ファイは彼女の顔を見た。遠くから民に向ける笑顔と、遠くから命を惜しむ泣き顔としか刻まなかった彼女の顔に、どこか安堵の色を見つけたのは気のせいだろうか。
ファイがシータ姫にどう声をかけていいか戸惑っている間に、老人の溜息が落ちた。
マイリはヨバルスの一枝がなくなった場所に視線を落としていた。ファイがマイリの方を見ると顔を上げて柔かな声で言う。
「……どうして、あなたは、タウとイクロをヨバルスの一枝の場所へ案内したのですか?」
その質問に、マイリは眼を細めた。答えを聞いて責める気はまったくなかったが、ファイは敢えて聞いてみたかった。この不思議な老人の答えを。
「お前さんは分かってるはずじゃ。
お前がどうして大地に来たのか。
それこそ、我らの……そう、我らの生きる意味であったのになぁ」
ファイとシータに眼を向けて、マイリはほっほと笑った。シータ姫がようやくマイリに顔を上げる。
「マイリ……」
「姫。空だから見える風景があったじゃろ?
城の外だからこそ聞こえる声があったじゃろう……。
ファイ、お前には聞こえない声があったのと同じく、お前にしか聞こえない声があったろう?
そして、この老いぼれだからこそ聞こえる声があるんじゃよ。
人々はヨバルスの一枝の恵みだと感謝し、天ばかり見つめてきた。その中でも、大地に触れて声を聞こうとした者もおったということじゃ」
マイリは懐から袋を取り出し、皺皺の掌に淡い色の砂糖菓子を転がした。
「お食べなさい、姫」
シータ姫はマイリの掌から、薄紅色の小さな欠片を摘み上げた。
「……好きだったような気もします」
「いろんなものを、忘れ過ぎておるのじゃ。シータ」
マイリの声は優しく、シータ姫の瞳には涙が溜まる。
「ここに種を植えましょう。姫。貴方の好きな大きな木の種をのう。好きな木はなんという名前じゃった?」
シータ姫は口の中に砂糖菓子の欠片を放りこみ、しばらくその甘さを口の中で転がす。とけこむ甘さに自然微笑みをこぼし、マイリをまっすぐに見つめた。
「マイリ。マイリよ……。私の大好きなマイリ……」
「ありがとう、シータ」
老人は微笑んだ。ファイに彼は目を向ける。
「お前も手伝いなされ。きっと、分からなかったものも見えてこよう……。天樹を……天を愛すことのできなかった天樹の守り人よ」
老人はファイの目の前に自分の手を突き出した。その手に転がった砂糖菓子をファイはしばらく見つめ、そして、ゆっくりとその一つを取る。
口の中へそっと入れる。広がる甘さは、どこか、あのヨバルスの実の甘さにも似ていた。赤茶色の瞳は天井の小さな青空を見上げた。
シータ姫を地上に降ろした後、再び空へあがっていたタウとイクロは、城とその城下町を眺めていた。
「綺麗な、町だね」
「一枝がなくなれば、争いは終わるかしら……」
「……わかんないな」
タウはふと先を見つめた。緑色の大地と空の境目。その美しい線を見つめて、呟く。
「ヨバルスはさ……」
イクロはタウを見つめる。
「自分から解放したかったんだ……。自分から解放してそして見つけろって言いたかったんだね」
「タウ!」
イクロが突然大声をあげる。
「風が!」
耳に響いた声。それに重なったのは自分たちの悲鳴だったのかもしれない。
そして風を切る音が耳を打ち、同時に2人の意識は暗闇に吸いこまれて行った。
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