7 少年と姫君と老人

 ラグ国の城下町は、今まで足を止めたどんな町よりも大きく、華やかだった。華やかだと思うのは、笑顔を浮かべる人々が多いからだと気づいたとき、タウは胸をぎゅうっと押さえた。


 人々の笑い声が耳に弾けるたびに、タウはあの光景を思い出さずに入られない。イクロの歌を聴いて泣いてしまった人々。そして、同じはずなのに躊躇なく殺し、また自分も殺されるのだと言いきる人々。


 美しい布が広げられ、負けないぐらい色取り取りの果実が無造作に置かれている。食べ物の芳香はタウとイクロの鼻をくすぐった。


普段、何も食べなくても生きていける二人ではあるが、その香には気をひかれ、その方向に視線をやってしまう。その度に店先にいる店主に威勢のいい声をかけられて、肩を竦めて通りすぎるはめになるのだ。


 そして、大きな通りの先。その琥珀色の瞳をまっすぐに向ければ、この活気を見守るように立つ建物があった。それはタウたちの天空の城と同じ形をしていて、白い壁面がキラリと光る。


 懐かしさと、どうしてそれがこの地上にあるのかという疑問を抱いてファイに目をやると、ファイはその思いのすべてを察したかのように頷いた。


「ラグ国の中心。あそこにシータ姫が住んでいる」


 どんどん近づけば近づくほど、そちらへ向かう人々が多いことに気づいた。そして、人々は皆、手に淡い色の花を持っているのだ。花を手に上気した顔で駆けて行く子供達、穏やかな目をしてゆっくりとした足取りで歩いていく老夫婦。大きなお腹を幸せそうにさすりながら歩く女性と、その身体を労わりながら優しい目をして寄りそう青年。


 みな幸せそうな顔をして城へ向かって行く。


 ファイは目を細めた。ファイに気づいて手を振る子供に、ファイは柔かな笑顔を向けて手を振り返す。

 地人とかわす優しい挨拶。

 タウは遠いものを感じた。


「花の城とも言われる。願いを込めた花を城へ持っていくと、シータ姫の住居はその花で彩られる。シータ姫はそれを喜び、花に込められた願いに耳を傾けるのさ。

 ……今は願い事をというよりは、シータ姫を慰めるために民は花を持っていく。

 小さな姫君の憂いをはらい、明るい笑顔を取り戻すためにな」


 三人は城門を潜り抜ける。と、目の前には広い庭が広がっていた。甘い芳香がその庭にある花から立ち上るものだと気づいたとき、タウの心に何かが沸き起こる。


 花が歌っている。喜びの歌を。


 一身にそれをこの城の主に捧げているかのように。


 風がここでは柔らかい。花びらを舞い上げて、ひらひらと落とす。その下に地人の笑顔。その嬉しそうな歓声を受けて、風は再び花びらを舞い上げる。


 相変わらず何も言わないけど、ただ微笑みだけを残しているようにも感じられた。

 そして風達は香りを城内に運ぶ。

 イクロが小さく息をついた。


「優しいのね」


 茶色の瞳に穏やかな光を浮かべて、イクロがそう呟いた。


「ここの風は、優しいのね」


 そういうイクロの声は柔らかく、ずっと張り詰めていた表情は柔らかく。思わずタウはイクロの優しい顔に見とれかけて、それに気づかれないうちに声をかけた。


「泣きそう?」


 タウがそっと聞くと、イクロは首をふる。


「笑っちゃいそうで困ってるの」

「笑ったら?」

「……悔しいのよ」


 イクロが頬を膨らませ、タウはそんなイクロに微笑んだ。


 ファイは近くの兵に馬の手綱を渡して城へ入っていく。だれもタウとイクロを止めようとしなかった。ファイと一緒にいるからだろうか。


 階段の近くに控えている身なりの良い老人にファイは遠慮なく近づき耳打ちをする。すると彼は真面目に頷いて階段を昇って行った。


 ファイは戸惑っているような二人を振りかえった。


「シータ姫にはすぐに会える。フィーネで竜が騒いだことは既に伝わっていて、俺が帰ってくるのを待っていらしたようだ」


 しばらくして老人は降りてきて、三人はその階段を先導されるがままに昇って行った。


 階段を上るとそこは広間になっていた。蒼い絨毯がしきつめられ、天上からは白い薄布が下げられ、壁を覆うようにしてその空間をぐるりと囲んでいた。


 その1番奥に少しだけ段が高くなったところがあった。そこは天上から薄布が幾重にも落ち、青と緑の石で繊細に装飾された椅子が一つだけ置いてあった。


 あそこにシータ姫が来るのだろうなとタウは思った。空なら、ルズカルが座るべき位置だ。


 ファイはその場に膝をついて、シータ姫が来るのを待つようだ。二人はその後ろに立ったままだった。イクロは腕を組み、興味が無さそうにそっぽを見ている。タウには無理に興味がなさそうに振舞っているようにしか見えなかったが。


 イクロの事だ。あの周りの薄布を全部引っ張り落としたらどうなるだろうとか考えているんだ。


「シータ姫ってそんな特別な力をもってるの?」


 待っている時間の沈黙がいやで、タウは疑問に思っていたことをファイにぶつけて見た。


 願いを叶えるなんて、そんなすごい力があるのなら、こんな戦いしなくてもいいんだ。

 ファイは首を振った。


「シータ姫はそんな力を持っていない。だけど、ある意味すごい力を持っている」

「どんな?」


 そう聞くタウにファイは微笑んだ。

 微笑み……そんなにやわらかな表情をするファイをはじめて見たような気がした。


 そう空でもそんな表情は見なかった。

 それがタウにもイクロにも、寂しい思いをもたらす。


 ファイが地で幸せそうなのが、タウには少し悔しく、そう思う自分に気づいてしまったとき、情けない思いでいっぱいになる。


「笑顔」


 ファイの言葉の一つ一つに込められた思い。

 気づくなというほうが、難しい。

 そして気づいてしまえば、ファイにとって空は遠いものになってしまったのだと気づかされる。


 ファイは、ここを……「大地」を愛している。


「その笑顔を見れば人々は幸せになれるんだ」


 ファイは壇上の椅子をまぶしそうに見つめた。


「どんなに辛いときも、その笑顔で人を幸せにする。シータ姫がいるから、人々は頑張れる」


「だから……他の国の人を殺せるってわけね」


 イクロが呟いた言葉には刺々しさがあった。それは的確にファイの心を刺す。ファイの頬がぴくりと動くのにタウは気づいた。怒っているわけではなくて、きっと嫌なところを突かれたから。そう思った根拠は、ファイの目に一欠けらの弱々しさを感じたからだ。


 ファイはイクロの前に立ちあがった。


「シータ姫はそれを憂いているんだ。戦いを放棄するのは簡単だ。だけど、それはラグ国の人々の命を見捨てることになる。ラグ国がゾイ国の支配化に入ってしまえば、ラグ国の人々は」


「それでも生きていけるじゃない」


 イクロはそう言うと、ファイを見上げる。


「放棄しても、殺されない限りは生きていけるじゃない!」


「……それは、イクロ、君に歌わずに生きていけって言うものじゃないのか」


 ファイはそう反論する。


「ただ生きるだけじゃ駄目なんだ。自分で選んだ生きかたってやつがあるだろう?」


 タウは思わずファイの腕を取る。イクロをまっすぐに見つめていたファイはびっくりしたように視線をタウにむけた。


 タウは琥珀色の瞳をいっぱいに開いて、ファイを見つめる。


「ヨバルスを守るためなら僕は地人を殺せる。そういうこと?」


 ファイはタウの瞳を覗き込んでいた。


「だけどね、ファイ。僕は地人を殺せないよ。それはヨバルスが泣くから」


 タウは眼を伏せた。


「お姫様が泣くのに、ファイは他人を殺せるんだ。それが本当の強さ? ファイは、それが欲しかったんだね」

「何」


 ファイが眉を寄せる。タウの言った言葉を精一杯考えてくれている。それが伝わってきた。


「自分で選んだ生き方」


「……タウ」


 タウは弾かれるように視線を上げた。天を見る。


 声?

 ヨバルスの声?


 タウは探るように天井を見上げた。そこには白い天井が広がっているだけだ。そのときチリンっと鈴の音が響いた。タウはびくっと肩を震わせて、その音の方を見る。イクロも遅れてそちらを見た。


 幾重にも下ろされた薄布の間から、通りぬけるように1人の少女が現れた。


 ファイが再びその場に膝を突き、いっそう頭を垂れたのを見て、この少女が姫と呼ばれる方なのだと気づく。だが、タウはその姿を口を開いたまま見つめていた。


 現れた小さな少女は、淡い金色の光を纏っていた。


 いや、そのようにタウには見えた。ゆるやかに波を描いた金色の髪が反射する光が、彼女を覆っているように見えたのだ。細く繊細な金色の線が、柔かな曲線を描く白い頬をそっと包みこむ。青と緑の狭間の色をした大きな瞳、小さな唇は薄紅色で少し微笑んでるようにも見えた。


 白い布を幾重にも重ね、たっぷりと後ろを引きずった衣装に身を包み、その手には金色の豪華な杓を持っていた。


 一歩歩くと、鈴の高い音が鳴る。


 その音が彼女の歩む先を清めるかのように。


 力が、抜けた。


 青と緑の狭間の色をした瞳に、わずかな憂いをこめてイクロを見つめる。


「ヨバルズシア、の方々ですね? 私の前ではその厚い外套は不要です。おとりになってください」


 タウはイクロの歌声が好きだ。風が渡るようにすがすがしく、響き渡る声は心の奥まで染みとおる。だがその声はまた違う響きを持っていた。


 思わず目を瞑りたくなる。柔かな日差しを浴びて、目をつぶることでその感触を楽しみたくなるような……微笑を浮かべずにはいられないような。


 タウとイクロが顔を見合わせ、ファイを伺うように見る。ファイは言葉にせず視線だけで頷いた。


「大丈夫です。人払いはしてありますから」


 少女は促すように透き通るように白い手を少しだけ挙げた。タウとイクロは自分の頭を覆いこんでいた外套をゆっくりと脱ぐ。無愛想な色をしたそれを完全に脱ぎ捨ててしまうと、タウもイクロも大きく息をついた。


 羽根があるか確かめていると、少女は二人に膝を少しだけ折って挨拶する。


「ラグ王国のシータと申します。天樹の愛し子たち」


 やはりと思う反面、タウは驚いていた。小さな姫君だとは聞いていた。だが、こんなに小さいとは……。


 イクロよりも少し年下だろうか? だが、その言葉と物腰は落ち着いたものがある。そして目を奪われたのは……。


「ヨバルズシアの名残?」


 タウは自分の羽を指しながらシータ姫にそう言った。シータ姫は微笑む。


「ヨバルズシアの末裔と……呼ばれるのですわ。いえ、私の家系は代々このように名残をもって生まれるのです。

 ヨバルスの一枝を守る家として」


 シータ姫の金髪の間から、尖った耳が見えていた。ファイと同じ形の耳だ。


「ヨバルスの一枝……」


 タウがそう繰り返すと、シータ姫は頷いた。


「人々に実りを与えてくださるヨバルスの恵です」


「ヨバルスの一枝ね。実際あるわけ?」


 イクロが腕を組んだままそう言った。彼女にはこのシータ姫の持つ高貴な空気も通じないようだ。斜に構えたままいつもの態度を崩さずにそう聞く。それを少しも気にしない様子のシータ姫はイクロを見ると頷く。


「あります。ですから争いが起こっているのです。

 ゾイ国に請われるままに、この一枝を渡せば争いはなくなるかもしれません。しかし……」


「そうなれば、ラグ国の民は飢えてしまう」


 ファイがそう続けるのに、イクロがシータ姫をきつい目つきで見つめながら反論した。


「ゾイ国とラグ国と交互に持てばいいんじゃないの? ゾイ国はきっかけだけ欲しいんでしょ? ファイはそう言ってたじゃない」


 イクロがなんでもないとでもいいたそうな顔をして吐き捨てる。


「そうですね。そう……いいました。けれど、シロン様はそれでは納得しないと」


 青緑の瞳を伏せる。長い睫毛が影を落とし、いっそう憂いの表情を深く見せた。


 あ……。


 タウは口を開く。キラキラと輝くそれは、音も立てずに金色に彩られた柔かな曲線を描いた。


「ヨバルスの一枝の与える恩恵には限りがあるのです。なのに人々は増えて行くのです。笑い声が満ちることは大地も喜ぶことでしょう。だけど皆が笑えるわけではないのです。その裏で、飢えていき、失い、嘆き哀しむ人もいるのです。

 人が、増えつづける限り」


 ファイは苦い顔をしている。

 タウはそこまで聞いてようやく分かった。

 ファイの言っていた「残酷な結果」。

 シロン王のしようとしていること。


「そんなこと……」


 タウはぽつりと声を落とした。

 死を悼むことのない人々。地人を殺す地人。

 花を持ちシータ姫の笑顔を待つ人々。


「そんなこと!!」


 豊かさを求めるシロン王。

 人々の嘆きを嘆くシータ姫。


 タウは目を見開いたまま、シータ姫の憂い顔を見ていた。


 シータ姫は長い睫毛を伏せる。


「ヨバルスはそんなこと望んで、ヨバルスの一枝を渡したんじゃない!!」


 タウの中で何かが渦巻いていた。

 言葉にしなくてはいけないような気がした。


 だけどそれ以上は何も浮ばない。胸につっかえた思いが重く固まっていく。


「私にはもはや、祈ることしか……」


美しい涙。

悲しい嘆き。でも、タウにはその彼女の涙は遠い。

殺す人。

殺される人。


虚ろに支配された命のない暗い双眸。

大地にしみ込む、赤黒い流れ。


あの情景は彼女の印象には遠い。


怖いと思った。そして、同時にタウは力を抜いた。


「僕達、ヨバルスの悲しみの原因を探りに来ました」


 タウはそう言って、彼女を見つめる。


「しばらくこちらにいてもいいですか?」


 シータ姫は微笑む。


「勿論です。ヨバルズシア達」

「僕はタウ。彼女はイクロ」


 タウはまっすぐに彼女を見つめた。

 もっと知りたい。ヨバルス、貴方が何を哀しむかをきちんと知りたいんだ。







 城の廊下を無言で歩くタウに、イクロはうろうろとしながらついて廻った。


「どーゆーつもりよ! タウ。もうわかってるじゃない! ヨバルスは地人が争ってるのがいやなのよ。見たでしょ? 地人が地人を殺すのを」


「違うと思う」


 タウはイクロを見もせずに言った。


「何が違うのよ」

「父さんは違うと言ったよ」

「違うなんて言って無いでしょ? 見定めろって言ったんでしょ?!」


 イクロはタウの前を遮った。


「見定めたじゃない!」


「父さんは、ヨバルスの声を聞いてるはずなんだよ」


「そうね、長老だから」


「原因を知ってて、どうして僕を地上に下ろしたのかなって、思ったんだ」


「それはタウに地上に降りて欲しかったからでしょ?」


「じゃあ、それはなんで?」


 タウは顎をつまんで首を傾げた。


「ヨバルスがしゃべらなくなったのは、ヨバルスが僕達にその原因を言うことができなかったからじゃないのかな」


「何よそれ」

「……うん」


 タウはふと視線をずらした。視界の端っこにうずくまってごそごそと動く人影が入ったからだ。


 その人は庭の一角にいた。後ろからは汚れてよれよれになった服が目に入る。この美しい城にはそぐわぬ雰囲気を持っていたからなのか、タウは好奇心に導かれるようにしてその人影へ近づいて行った。


「あのー」


 後ろから声をかけると、その人の背中が大きく揺れた。おそるおそるというように振り返り、その目を大きくする。


「ヨバルズシア!」


 年とともに皺を重ねただろう顔が驚きに支配される。

 タウは「あ」と言って、自分の羽に手をやった。だけどもう遅い。


 老人はそんなタウをしばらく見つめていたが、急にふと表情を緩やかにした。


「死ぬ前に会えるとはなぁ。伝説はほんものっつーことだな」

「伝説ですか」

「ふむ。伝説の存在は伝説にされてることは知らんかの? 知ってても実感がわかんか? ま、そうだろな」


 老人はにかっと笑うと、よいしょと言ってタウ達に身体を向けるように座りなおした。タウもしゃがみこんで、イクロが呆れたようにたったままこちらを見下ろしている。


 老人は近くに置いていた茶器を手に取ると、お茶を入れ始めた。タウに勧めるが、タウはそれを笑いながら断った。


「嬢ちゃんはいらんかね? 甘い方がええかな」

「……貰う。甘くなくてもいいわ」


 イクロは仕方ないわね、とでもいいたそうにそれを受け取るとタウの隣に腰を下ろした。要は座る機会を図っていたのかと気づくと、タウはにやっと笑ってしまう。


「なによ」

「別に」

「こりゃよいよい。ええ夫婦だわ」

「何言ってるのよこのもうろくジ……!」


 言いかけて、イクロはしゅんっと項垂れた。


「じぃ……」

「はははは」


 豪快に笑い飛ばす老人を上目遣いに見て、イクロは唸った。


「良い子だね、嬢ちゃん。ま、もうろくいわれても仕方ないの。今は庭を育てることだけが楽しみのただのじじぃじゃ」


「何、してたんですか?」


 ああ、と老人は笑う。皺皺になった顔が、亡くなったおじいちゃんに似ているとタウは思った。


「種をな、蒔いてたんだよ。やるかい?」

「種」

「これじゃ」


 老人は掌をひろげて見せた。硬くなっているだろう掌の上にちょこんと乗った3つの点。あのヨバルスの種を思い出した。


「いい樹に育つからの」

「これが、あんな風に育つんだね?」


 タウは庭にはえている一本の木をさした。


「そうだ。何年も何十年も何百年もかけての」

「あんな風に育つまでに死んじゃうじゃない」

「はっはっは。そうじゃの。だけど、自分の植えた命が、自分が死んだ後も生きているというのは面白いと思わんかの?」

「そう、かな? 寂しくない?」

「だがのう。生命を繋ぐためにできた種をな、最高の場所を見つけて植える。いい仕事だろう」


「生命を繋ぐ?」


「……むずかしいかの。ヨバルズシアはわしらとは命が違うと聞くからのう」

「種を作るのは、生命を繋ぐため?」

「人も一緒じゃ。次の世代に命を繋ぐために、子供を産んで育てる。自分の研究したことを捧げる者もおる。子供はそれに新しい知識を重ねて、次に繋ぐ。そう思うがの」


 ふと老人は悲しい顔をした。


「戦争は駄目じゃな……。全てを断っちまう……」


 しんみりとした雰囲気を噛み締めながらタウは微笑み、手を出す。


「種、僕にもくれる?」

「おお、おお、ええぞ。ここに植えるがいい」

「どうしてここなの?」

「ここが1番いい土だからの」

「土が、いい?」


 にんまりと笑って老人は土を手にもつ。


「こうしておればわかる」


 タウは老人の掌の土を触った。


「1日やそこらじゃわからん。だけどわかる日が来る」


 タウは老人の指し示すところに種を入れた。そうしてその上に水を注ぐと老人はゆっくりと立ち上がり、腰をとんとんと叩いて息をついた。


「そんじゃあ、わしは、ちょっと別のところに行かねばならんからな、そろそろ」

「また、来ても良いですか」


 タウが目を輝かせながらそう言うと、老人はふむふむと頷いた。


「よいぞ。わしはここにおるだろうからな」

「はいっ」


 イクロの手を取ってタウは駆けていく。イクロが引っ張られながら会釈するのを、老人は笑いながら見送った。


「ヨバルズシアか」


 老人は満足そうに笑う。


「やっと、話せるのう……ヨバルスの一枝よぉ」


「宰相!」


 硬い声で呼ばれて、彼はそちらに顔を向けた。その顔には先ほどまでの好好爺の趣はない。タウが駆けていった方向とは逆の方から足音が近づいてきた。


「またこのようなことを」


 散らばった園芸用の道具類を見て、仕立てのよい服を着た若者は眉をひそめる。その耳は尖っていて、王家の血をついでいることを示していた。それを老人は鼻で笑った。


「このようなと言っているから、いつまでたってもシロンと話が通じぬのだ」


「マイリ様」


「……土に耳を傾けぬ。それが、この戦の始まりだと誰も気づかぬ……」


 そのような耳を持っているからだという呟きは空気に溶けこむ。それは風がさらって遠くへ運んでしまった。

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