6 王と小さな姫君

 ファイは、風が人の死を願っているかもしれないという恐れを抱いていた。その予想がタウを困らせていた。


 ファイは地人に何を求めているのだろう?


 風に嫌われるようなことをしているということを、ファイは自覚している。でも、地人を守ろうとしている。


 ファイの横顔はまっすぐに前を向いていて、迷いなんて一欠けらもないようだった。それは彼が空を出て行ってしまったときと同じ顔、同じ瞳。


 ファイは、地人を愛しているんだろうか?


 ファイとイクロはそれからの旅路で、1度も話をしようとしなかった。タウにぴったりくっついて、少し外に出るにも付いてくる。ファイと二人きりになりたくないんだということが、タウにもファイにもよくわかっていた。


 2日、3日と経って、タウは何度も翼に手をやった。けど、タウの翼もイクロの翼も、耳に変わる事はなさそうだったので、ほっとした。ファイは地上に足をつけた瞬間、翼を失ったんだって言ってたけど……。ヨバルズの一枝を持っているからかもしれない。


 森の小道を馬に乗って、移動していた。小道はすごくごつごつしていて、馬たちのためにもゆっくりと歩ませていた。ファイもタウも降りて、馬の手綱を引きながら歩く。イクロもタウの隣にくっついて、途中で摘んだ花を振りまわしながら歩いていた。


 大きな枝に覆われて影差す小道。風は緩やかで、小鳥の声は空と同じ。色とりどりの花が咲いている。


(ここも、綺麗なところだな)


 何も変わらない。天も地も、美しい。

 そう思った。だけど、それは間違いだった。


 僕はまだ知らなかった。

 僕たちと地人の何が違うのか。


 それがヨバルスの哀しみの原因だと思っていたくせに。


 人が人を殺すということ。

 戦争ってやつのほんの一部分も、僕は……知らなかった。


 




 周りにいつまでも残るような奇妙な声が響いて、タウははっと目の前を凝視した。大きく曲がった向こう側からその声は響いた。ファイの腕がピクリと動く。するとそれが引き金になったように、みるみるうちにファイの眉が釣りあがった。


「ファイ?」

「来るな!」


 そう言い捨てて、ファイは手綱をタウに投げる様にして渡し、走り抜けていく。先のゆるやかな曲がり道を抜けると、ファイの姿は見えなくなった。


「ファイ!」

「……無だわ」


 ぽつりとイクロがこぼした言葉は、まるで別人のような一言だった。その意味と同じく、どんな感情も含まれていない言葉に、タウは眉を寄せる。


「イクロ?」


 イクロの顔とファイの向かった先を何度か見比べてから、タウは決心する様に拳を握り締めた。


「行くよ」


 イクロは当然というようにタウと共に走り出した。タウの心に反応する様に、馬たちは不満なそぶりも見せずについていく。


 タウはその先で何が起こってるのか見なくてはならないと思っていた。


 いつのまにか、風は止み、鳥の声がぴたりと消えた。


「私たち、まだ何も見てないわ」


 イクロの呟きとタウへの衝撃は同時だった。道の先にファイは立ち尽くしていた。ファイが立ち止まったその先に、ファイと同じような鎧を身にまとい、抜き身の剣を手にもった地人が二人いた。どちらも同じような兜を目深にかぶり、その奥の表情はうかがえない。


 そして、地人はあと二人。ファイ達と対称的に粗末で薄汚れた服を身に着けた地人。一人は襟首を掴まれ、一人は地面に倒れこんでいた。


 タウはそう状況を見て、一体これはなんだろうと思った。襟首を掴まれる地人から、何の力も感じられない。だらりと下がった両腕は、服と同じく汚れていた。


 その力の無い目で何を見ているかというと、地面に倒れこんだ地人だ。


(あれ、何?)


 うつ伏せになったその地人の体の下に赤い水溜りが広がっている。それをその地人は見ているのだ。


 暗い瞳で。


(怖い)


 空っぽのものが固まってしまって、その中は今にも嫌な感じのするもので満たされてしまいそうだ。


 イクロは咄嗟に近くの茂みにタウを押しこむ。ファイと二人の地人の間には張り詰めた空気があって、とても怖いと思ったからだ。


「あの人、死んでるのかな」


 タウは囁いた。イクロは答えない。


「無抵抗の捕虜を殺すのが、兵士の仕事か」


 タウたちのところまで届くファイの声はひどく低かった。


「逃げたからさ」


 当たり前だという響きをこめて、二人のうちのどちらかがそう言った。ファイの声とは対称的に聞こえた。


「フィーネに入られては面倒だろ。どいてくれねぇか? あと3人ほど捕まえなきゃな」


「3人でもいなけりゃ、俺達の責任だ」


「殺す必要はないだろう」


「姫君にお気に入りの騎士様はお気楽でよろしいですな。

 ……俺らの隣にくれば、そんなこと言えなくなるだろうさ」


 吐き捨てる様にそう言って、一人の兵士はもう一人の兵士が捕らえている人間に、剣をつき付けた。剣を目の前にして、空っぽだった表情は、恐怖というもので満たされる。恐怖と懇願と……。


 タウは唾を飲み込んだ。同じ地人でも、彼らの持つ表情はまったく違うものだ。


「もう、逃げねぇから……」


 掠れた声に、兵士達は口を歪めた。ファイが手を伸ばす。


「俺はこれから王都に向かう! この人は俺が収容所へ……」


「騎士様にそんなことはさせられませんよ」


 剣を持っていた兵士はそう言うと、その手に力をこめた。とっさにタウはイクロの頭を抱き寄せてその視線を懸命にそらした。だけど、自分の目を背ける事はできなかった。


 人間の身体に、冷たそうな剣が埋もれるのをタウはじっと見ていた。自分の服を掴むイクロの手が、微かに震えている。その場を目にすることは防げても、おぞましい音を彼女の耳に入れることを防ぐのは無理だった。


 開いた口、恐怖で満たされた表情。それが固まってしまう。タウは音がしないように、けれど大きく息を繰り返した。イクロの体温が今はありがたい。守る様に抱き寄せながら、すがりつく様に抱きしめた。


 地人の身体は剣が引きぬかれたのと同時に、前に倒れこむ。


 重なる地人の体。そこから、急激に存在感が無くなっていくのをタウは見つめていた。


(殺した)


「それに、死体を運ぶ必要はありませんよ。騎士様」

「貴様……」

「これが、明日は我が身ってやつだな」


 塊になった人間に足を乗せて、兵士の一人はそう言った。


「貴方には、心配ない。姫様もこうなる心配はありません。その前に俺達がこうなるんだから」


 ファイは剣の柄に思わず手をやりながら、兵士を睨みつけた。兵士たちは嘲笑うような表情を残すと、おどけて一礼する。


「それでは、俺達はあと3人、見つけなくちゃならないんで。そうしなきゃ、俺達がこうなりますからね」


 ファイの肩を押しのけて、兵士達は道を逸れて森の中に入って行った。


 ファイはいつまでも動かない二人の人間を見下ろしていた。その時間は永遠に続くような気がして、タウはイクロを抱きしめたまま様子を見守っていた。イクロは少し震えながらも、文句も言わずにじぃっとしていた。


 タウはずっと二つの死体を見つめている。


 美しいと思った世界の色と、地面にこぼれた赤い色。それがゆっくりと交じり合っていってタウには分からなくなってきた。


 これがヨバルスの泣く理由だろうか?

 哀しむ理由だろうか?


 地人達が昔は自分達と一緒だったなんて考えられない。


 地面に降りてしまったら、何を失うんだろう?


 ファイが目を瞑り、胸に手を当てる。


 自分達が死を悼むときにする仕草と同じだった。


 地面に降り立ったファイは、まだ死を悼むことを覚えている。それはファイが地面に降り立ちながらも、天のことを覚えているからかもしれない。だから、死を悼むことも覚えているのだろうか?


 地人は、死を悼むことを忘れてしまったのだろうか?


 タウにはよく分からない。

 それでもやはり、地にある風景は空と同じく美しいから。

 それがタウを混乱させるのだ。







 パチパチと爆ぜる音を聞きながら、タウは焚き火を間に挟んで真向かいに座っているファイの表情を覗きこんだ。イクロはいつのまにかタウの膝を枕にして眠ってしまった。


 タウは自分の羽に手をやった。自分の意志で羽ばたくことを確認して、自分の首から下げている袋を握り締めた。


「ヨバルスの枝が入っているのか?」


 タウはびくっと肩を震わせた。自分の心に警戒心が広がって行くのを悲しく感じた。ファイを疑っている。その思いが伝わったのだろう。ファイはふと目を細めて自嘲的に笑った。


「盗らないよ」

「地人はこれが欲しいんだよね」


「欲しいだろうね」

「ファイも?」

「……それがもう一つあれば、争いは終わるだろうとは思うけどな」


 ファイは目の前の焚き火に、拾ってきた枝の一本を投げ入れた。


「タウから奪う気はないよ」


「どうして、争いが始まったの」


 ファイはしばらく揺れる炎を見つめていた。


「もともとは一つの国だったんだ。それがゾイとラグに分かれた。ここらへんの経緯は……俺も詳しくは知らないけどな。


 ヨバルスの一枝は恵みをもたらす。人々に豊かな恵みを与えつづける。食料も余るほどあった。けど、人々はどんどん増えて行って、やがて恵みは足りなくなってきた。


 ヨバルスの一枝に近いところには農業が発達し、そこから離れたところには物を作る技が産まれた。多分、そういう風にして国が分かれていったんだと思う。


 それでも二つの国はなんとか友好に保たれていた。けど、ゾイ国王にラグ国の現王女シータ姫の叔父にあたるシロンがなるとその均整が崩れてきた。


 前ラグ国王の弟であるシロンは、その権利を要求してきた。つまりは、ヨバルスの一枝の……分割だな。


 シータ姫は断った。シロン国王は武力に物を言わせることにした。簡単に言えばそういうことだ」


 ファイはそう語ると、息をつく様に言葉をとめた。そして、また口を開く。


「ゾイ国はラグ国から恵みを得るために、布とか宝石とかを作り出していた。だけど、宝石には限界がある。それをシロンはよく知っていた……。


 シロンはゾイ国にも農業を取り入れようとしたのさ。でも、それにはきっかけがいる。それでヨバルスの一枝の恵みを少しでも欲しかったんだと思う」


 ファイは苦しそうに先を続けた。


「シロンは頭がいい王だから、他のことも見越したのかもしれないな……」

「他のこと?」


 タウの疑問に、ファイは首を振った。


「……残酷な……結果だ」


 タウには思いもつかなかった。イクロに目をやると、イクロは表情を固めたままでいる。彼女は何かが分かったのかもしれない。


「ファイはさ。人を殺せるの」


 ファイは剣に目をやり、首を振った。


「出来る、と思ってる。シータ姫を救うことなら、なんでも出来る」


 イクロが少しだけ身じろぎする。その心境を推し量って、タウは目を細めた。


「ファイ、どうして地人になりたかったの?」


 それだけはきちんと聞きたかった。

 死を悼むことを忘れてしまった地人。同じ地人を殺せる地人。

 死を悼むファイ。だけど、シータ姫を救うなら殺せるというファイ。


 空にはなかった苦しみが、この地にはあるのに、どうしてファイがそれを求めるのか、タウには分からない。


「タウ、お前は空に居た時に、風の声を聞いてたよな」

「うん」

「この地上に降りた時、風の声が聞こえなくなったよな」

「……うん」


「どう思った?」

「どうって……」


 タウは思い出す。


「不安だったよ。なんだか、とても静かで。でも、地上はそういうものなのかって思ったりもして」


「空でもそうだったら?」


 ファイがそう言いながら、また枝を焚火に投げ入れた。はじけるような音がして、火の粉が舞う。


「空でも?」


「地上に降りてきて、風が無口だって思ったお前なら、想像できるだろ? 空でも風があんなだったら? それもお前だけに」


「僕だけに?」


 想像してみる。その想像を追いかけて、急に寒くなった。怖かった。あんなにいつも僕のことを気にかけてくれる風達の声が聞こえなくなったら。


「考えられない……」


 答えながら、タウは胸の中をゆっくりと冷たい物が広がって行く感覚を覚えた。


 ファイがそんなことを聞くのには理由があるはずだ。


 あのとき、僕がまだ風と上手く付き合えなかったとき、その方法を教えてくれたのはファイだった。


 僕が初めてちゃんと風と向き合えた時、自分のことのように喜んでくれたのはファイだった。


 あのときの笑顔を、僕はずっと覚えていて、ファイがしてくれたようにシグにもしてやろうって、ずっと……ずっと……。


「俺はずっとそうだった」


 ぱちりと薪が爆ぜる。タウは赤い光に照らされるファイの顔を見詰めた。ファイは火を瞬きもせずに見つめている。


「俺に風の声は聞こえなかった。風の軌跡は見えたから、それこそお前たちが今やってるみたいに、風を無理やり捕まえてた。それだけは上手くなったな。

 お前たちが……いや、あそこにいる人たちが、感じ、聞き、共有する全てを、俺は何一つ受け取れなかった。

 ふりをしてた。

 お前やイクロの仕草を懸命に読みとって、振る舞ってた」


「そんな」


「俺が、ヨバルスのことあんまり好きになれない理由、わかっただろう?」


「……もしかして、ヨバルスの気持ちも……?」


 はっきりとした声は聞こえなくても、ヨバルスの暖かな波動のようなものをヨバルズシアは感じることができた。それはとても自然なことだと思っていたけど。


 ファイは頷いた。


「そんな……」


 言葉の端が崩れて、タウは自分が涙を流していることに気づく。泣いているなんて、ファイに悪い。ファイはきっと怒る。同情とかそんなのいらないって怒る。僕の受け取ってたものを、ファイは受けとってなかった。それに対して悲しいと泣くのはおかしい。


 一生懸命、堪えても堪えても、涙が流れて行く。ファイと目が合った。不快に思われても仕方ないと思ったのに、ファイは唇をほころばせるように笑った。


「お前なぁ……」


 ファイはゆっくりと立ち上がると、タウの隣に移動して座り直す。そして横から乱暴に頭を引き寄せて抱える。


「お前が泣くことじゃないだろ」

「だって……僕、知らなかった。気付かなかった……」

「俺の演技が上手かったってことだな」


 笑う響きがタウの頭に伝わる。


「ヨバルズシアは、生き方が決まってるだろう。ヨバルスを守るために生きて死ぬ」


 はっとしてタウはファイの表情を伺おうとするが、見えない。


「俺には、無理だった」


 タウは思い出した。ファイがいなくなった後、イクロとの婚約が決まりかけていたのにと、イクロの母・ニーサがルズカルにこぼしていた。


ファイはイクロのためにも、あの日、空から出て行ったんだ。


そう言えば、そのとき、父はその話を静かな目で受け止めていた。父は気付いていたのかもしれない。ファイが風の声もヨバルスのわずかながら伝わる気持ちも、何も受け取っていなかったことを。


 七人頭たちが将来自分たちに変わり、皆をまとめて行くだろう期待していた青年が出奔したことに対して、何らかの思いを口にする中、ルズカルとネスコは沈黙していた。


 タウは涙をぬぐい、体を起こす。ファイの表情を隣から伺うと、ファイは炎を見つめていた。何かに憧れるような光を湛えて。


「地人はそれを決めることができる。何のために生きるのか、どうやって生きるのか。

 地人は自分で決めるんだ」


 タウは目を見開いた。ファイは同時にすごく遠い目をしている。何のために生きるのか、ファイは自分で決めることができた。

 シータ姫のために。


 ファイは遠い目をしながら、争いをおろかなことだと知りながら、死を悼みながら、それでも地人であることを求める。


 空の美しさを覚えていながらも、血の色を知っていながらも、ファイはシータ姫のために生きることを決めてしまっている。


 タウはそれを少しうらやましいと思っていることに気付いた。


 だけど、タウには出来ない。

タウはヨバルスを愛しているから。


 それがヨバルズシアとして決められたことで、そこに自分の意志が一切無くても、それでも構わないと思う。


 こんなときはシグを思い出す。


 金色の髪を揺らして、まだ不安定に飛びながら、空の色を写した目で僕を見つめ、小さな手を背一杯伸ばしてやってくる。

 にーちゃ、にーちゃと呼びながら。


 シグは、僕が居なくても元気に遊んでいるだろうか。


 ルズカルやネスコ、ニーサ。ヨバルズシアたちの顔を抱きしめる様に思い出しながら、タウはイクロの髪をそっと撫でた。

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