白い山茶花の舞台で

【ファム・ファタール】【変化をもって変化とす】【メビウスの輪】【山茶花】


「ゆり、一緒に――」


 帰ろう、と言いかけて、私はその手を降ろした。やはり今日も、目の前にいる彼女はふいっと教室から出ていく。二つ結びにした長い髪の毛が揺れる。学生鞄についているおそろいのチャームが、見えなくなる直前にきらりと光った。


 最近、ずっとこんな調子だ。話しかけようとすれば教室から逃げ出し、目が合ってもすぐにそらされてしまう。避けられている、と確信するには十分なくらいに。

 一つ、溜息をもらす。一体私が何をしたっていうんだ。


「何にもできないっつーの」


 自分の鞄につけられた、真っ白な山茶花をモチーフにしたチャームを指でつついて揺らす。これを私に渡してきたときの彼女の笑顔は、いつまでたっても頭から離れない。


 寂しげで、泣きたくなるくらい透明で、優しげな笑み。触れたら雪みたいに溶けて消えてしまいそうな、そんな表情だった。


 白い山茶花の花言葉を思い出して、もう一つ、溜息をつく。どうしようもない。どうしようもない。どうしようもない。どうすればよいのか、分からない。そんな単語ばかりが、脳みそを埋め尽くしていく。


 友人が席に座ったままの私を見て首をひねった。鞄を持って駆け寄ってくる。


「んー? ゆうこ、演劇部は?」

「ああ、うん、休み。だからもうやっちゃおうと思って」


 バインダーとルーズリーフの束が入った袋、数学の教科書、ノートを取り出す。今日の宿題はもう学校で片づけてしまおうという算段だ。どうせ、家に帰ったところでやる気なんか起きないだろう。筆箱から出したシャープペンシルを握りしめ、問1、と記した。


「え、今日泊まり? 学校に泊まる気なの?」

「そこまで頭悪いと思われていたとは……ショックだよ」


 ぷくうっと頬を膨らませて見せる。……て、あれ? 

「筆箱、どこやったっけ?」

「どこやったっけって、あんた」

「あ、あったあった」


 鞄から真っ黒なそれを取り出した。てへ、と舌を出す。危ない、自分でどこに入れたか忘れるところだった。机に並べて置く。


 友人はそんな私を見て、一瞬だけ黙り込んだ。それから、ぷっと噴き出す。軽く笑った後、バカだねえ、と言い残して去っていった。

 私は笑顔で、それを見送る。一度、立ち上がった。


 🌸 🌸 🌸 🌸 🌸 🌸


 ノートの3分の2くらいが埋まったところで、x=cos2t(r cos t+2)、と書いた。y=sin2t(r cos t+2)、z=r sin t、と続ける。


 教室にはもう私以外誰もいなかった。夏から秋へと変化していく、少し涼やかな風が頬をくすぐる。もうちょっとしたら、きっと綺麗な山茶花の咲く季節になる。暇を持て余すように、もう一度チャームの山茶花を指でつついた。


 ルーズリーフに並べられた問題たちはどれも途中までしか解けていない。正解を出せないまま、置き去りにされていた。


「……やっぱり私、バカなのかなあ」

 呟きは、ただ窓から吹いてくる風に巻き上げられ、消えていく。


 その時、廊下の奥の方から足音が近づいてくるのに気が付いた。走っているようで、徐々にそのスピードは増していく。音が大きくなる。


 おなかがきゅうっと締め付けられた。心臓が足早に血液を送り出していくのを感じる。


 大きな音とともに、教室の後方の扉が開いた。


 息を飲む音。振り返れば、長い黒髪を二つ結びにした少女の姿がある。


「――ゆう、こ」

 その声に、私は笑って、


「ゆり」

と彼女の名前を呼んだ。


 ゆりの視線が彼女の机の上に向く。そこには、真っ黒なポーチ型の筆箱がぽつんと寂しげに置かれていた。ゆりの顔が赤く染まっていく。


「あんた、あたしの筆箱、」

 近づいてくる彼女の声を、遮った。


「ねえ、この式知ってる? 私、分かんなくって」


 ノートの背表紙に左の手のひらを乗せながら、右手で最後に書いた式を指す。


「知らないよそんなの、それよりさ、あんた一体何がしたいの?」

「別に。これ、メビウスの輪の式なんだってさ、でもさあ、正直わっけわかんないよね。cosとかはならったけどさあ、やっぱ理系って――」


「ゆうこ」


 闇のような色をした髪の毛が、静かに揺れる。それと同じ漆黒の瞳は私を突き刺した。いつかと同じ、寂しげで、透明な瞳孔だ。何かを諦めて、けれど諦めきれなくって、無理やり断ち切ろうとしているような、そんな目。


「あんたさ、何がやりたいの? わざわざ私の筆箱盗んどいて、学校にとんぼ返りさせて、何のうらみがあんの? ――ああ、私が最近あんたの事避けてるからだね、分かってる、分かった。だからその仕返しなわけだ。バカだねえ、ほんっとに」


 そこで彼女は一度、言葉を切った。本当にバカ。そんな、小学生みたいなこと。そんなセリフが、漏れ出る。


「まだ分かんないのかなあ、私さ、本気であんたのことがキライ――」

「メビウスの輪ってさ!」


 私は叫んだ。ばんっと机をたたく。その勢いで、机の上のノートが滑り落ちた。いけない、拾わなきゃ。でも、手を伸ばすことはできない。指が震えている。


 うん、まったくだよ。私はバカだ。もう分からない。もう、ここから先は戻れない。自分が何をしたいのか、何がしたかったのか、それさえも置いてけぼりにして、ただ台詞を投げつける。


「ねじれてる輪っかの事なんだよね! でもさ、それを中心から切り取ったらさ、ふたつの綺麗な輪っかになるの! だからさ、二人なら、二人なら、さ!」


 頭が真っ白に染まっていく。無理やり続けられた言葉に、ゆりが呆然としているのがわかる。二人なら、二人なら。あれ、なんて言おうとしていたんだっけ。いけない、いけない。必死にない記憶を引っ張り出そうとする。二人なら、二人なら。二人なら、何ができる?


 二人なら。


「二人なら――あたしたち、綺麗にまとまると思うんだっ!」


 出てきた言葉は、自分でも意味の分からない、想定していたものとは違うものだった。ちらり、と床に落ちたノートを見る。必死で書いた台本の背表紙は、何も答えてくれなかった。ああ、こんなセリフでさえ覚えられない私は、やっぱりばかだ。


 ない頭を使って、必死に考えた。かっこよく決めようと思って、かっこつけて、調べて、飾り立てた言葉たちは、ノートの中に広がっていることだろう。でも、もう見ることはできない。呆然としたままのゆりに向かって言葉を叩きつける。


「私達さ、きっとねじれてるんだよ。ぐりぐりって。きっと一緒に居すぎて、一本の輪っかみたいにさ、なっちゃってさ、そのままねじれちゃったんだ、でも、私たちは二人で、その気持ちはねじれてなんかなくって、ちゃんと整えたらまっすぐでっ」


 意味の分からない、つながらない言葉たちが口から吐き出される。


「私知ってるよ、ちゃんと知ってる、ゆりが優しい人だってことも、私には分かんない、いろんなことを考えてるってことも。世間体? とか、周りのみんなの事とか、でも、私には分かんないから、私、ばかだから!」


 柔らかな風が、私たちの間を通り抜けていく。背中を押されているようで、なんだかこそばゆい。頬が熱くなっていくのを感じる。


 ゆりが、私と同じ気持ちだってことは分かる。ばかな私でもわかる。でもそれを、ゆりは押さえつけてしまった。真っ白な山茶花と一緒に、私に押し付けた。

 いろんなものを私に押し付けて、一人だけ変わってしまった。


 白い山茶花の花言葉は、「あなたは私の愛を退ける」。


 きっと、ゆりの考えていることは正解だ。ひょっとしたら、何もないまま、こうやってゆりの言う通り少しずつ距離を置いた方がよいのかもしれない。これ以上近づきすぎたら、危ないのかもしれない。皆が私達から離れていっちゃうのかもしれない。


 でも!


「私は、ゆりと、一緒に居たいから」


 隣に居たい。ずっと、ずっと。障害物なんて知らない。分からない。私は、分からないなりに、彼女の隣でその笑顔を見ていたい。


 ゆりが、その場にすとんと座り込んだ。触れれば泣き出してしまいそうな、壊れてしまいそうな、そんな表情だ。


 ごめん。小さくつぶやいて、しゃがみ込む。大好きな彼女と、視線を合わせた。うるんだ瞳が、私を見ている。


 ああ、やっぱり、私は。


 ――飾り立てた言葉も、用意してあった台詞も全部全部吹き飛ばして言う。

「ゆり、好きだよ。大好きだよ」


 そして、彼女へと手を伸ばした。


 ゆりが、口を開いた。


「――――――――」


 透明な秋風は、私たちを優しく包んでいく。


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