レモネイド・プール

【狐の嫁入り】【ハッピーハロウィン】【ビート板】


 静まり返ったプールサイドで、ブラシをこする音が響いていく。生徒たちが帰ってにぎやかさのなくなったスイミングスクールには、僕と東さん、それからおそらく事務室にいるのであろうコーチ一人しかいなかった。バイトとはいえ、少々怪談チックにも思えてくる雰囲気だ。


 水の流れる音、きゅ、きゅ、というビート板を洗う音とともに、背後から鼻歌が聞こえてくる。今年の夏に流行った、恋愛ソングだ。海は僕らに恋をさせる云々、甘ったるいレモネイドみたいな歌。


 僕等は、中学の時までこの教室に通っていた。それ以外に共通点などない、ただのスクールメイトだった。高校に入って二人とも同じように教室を辞めたのは、偶然なのだと思う。


 だから一度水泳をあきらめた癖にこうしてまたプールサイドで掃除をしている僕らは、他から見ればひどく滑稽に映るのだろう。実際、僕等の間に会話が生まれたことはほとんどなかった。ただ、彼女の鼻歌が水音とともに聞こえてくるだけだった。


 一つ、溜息をつく。端までかけ終えたブラシを、用具入れに戻しに行く。かぼちゃや魔女のイラストが貼られているガラス窓に、無表情な顔が映った。このプールで泳いでいたころは決してしなかったような顔だ。いつの間に、こんなになってしまったんだろう。もう一つ、息を吐き出す。


 窓の外はすでに真っ暗で、星々が輝いていた。用具入れの中に、ブラシを戻す。


「――って、ありゃ」


 街灯に照らされた中に、雨の筋が見える。天気雨のようだ。狐の嫁入り? とも言った気がする。


「そもそも、夜に狐の嫁入りって言えるっけ……?」


 ぼそり、と呟く。普段なら、独り言で終わるだけの台詞だ。

 だが、


「ど――どうなんでしょうね。晴れているとき、つまり日がさしているから天気雨なわけで――夜の場合は、そもそも天気雨とか狐の嫁入りとか、そういうものじゃないのかも」


 反応が、あった。


 慌てて後ろを振り向く。だぶだぶのTシャツに半ズボンというラフな格好をした東さんの姿が映る。面倒くさそうに濡れた手で髪の毛をかき上げれば、肩程まである黒髪がさらりと揺れた。


 東さんがこちらを見る。目がせわしなく左右に動く。


「いや、私傘忘れちゃって。帰る前に止んでくれればいいんです、けれど、も」


 言葉が尻すぼみになって消えていく。


 僕は慌てて、そうですね、僕も傘持ってません、と言った。天気予報、夜に雨が降るなんて言ってませんでしたし。会話が止まってしまえばひどく微妙な空気になってしまうことは明らかだった。東さんも、あー困ったなあ、だなんて生産性のない言葉を吐き出す。


「……とりあえず、戸締りしちゃいます?」


 僕はそう言って、用具入れの扉を閉める。元スクールメイトは、洗っていた最後のビート板を軽く振って水気を切った。


****


 じゃあ、二人ともお疲れ様。車の窓から手を振るコーチに向かって頭を下げる。10月の空気は夏をとっくに押し流し、11月を迎え入れようとしていた。秋特有の研ぎ澄ましたような風が、入り口に残された僕らの間をすり抜けていく。


 星空の間から降り注いでいた雨は止んでいた。どうやらにわか雨だったらしい。


「よかった、止んでる」


 隣で東さんが嬉しそうに口端を上げた。右肩に小さな鞄を下げ、左手はポケットの中に入れられている。そういえば、久しぶりに彼女の笑みを見たような気がする。金平糖を口に含んだ時のような、ほんの少しの幸福をじっくり味わうような、そんなほほえみだ。いつもは無表情なのだけれど。


 僕はその表情を見て黙り込んだ。本当に久しぶりに見た笑みだ。中学の時は毎日のように隣で見ていたのに――

時間はこうも、人を変えてしまうものなのだろうか。


 会話が止まってしまう。二人の間に、何とも言えない空気が流れ始める。


「……」

「……」

「……えっと」


 何か言おうとして、結局思いつかずに口をつぐむ。何を話せっていうんだ。最近どっか行きました?……いや何の話だ。明日晴れるといいですね。いかん、それはほんとに会話が停止する。こうして一度立ち止まってしまった以上、何か言わなければそのまま立ち去るのも難しい。


 東さんがこちらを見ている。言葉を待っているようだ。

しまった、どうしよう、どうしよう。頭の中がごちゃごちゃと渦を巻く。ああ、もう何を考えているのかわからなくなってきた。しかし何か言わなければ、何か、何か――


 その時。



 目の前が、オレンジ色に染まった。



「――え」


 思考が、停止する。


 一歩後退してみれば、そこには小さなオレンジ色の包み紙に入った飴玉があった。かわいらしいジャック・オウ・ランタンをデフォルメした絵がのっている。どうやら、ポケットの中に入っていたものを取り出したらしかった。


「え、えっと」


 隣には、ほんの少し顔を赤らめたバイト仲間の姿。


「……はっぴぃ、はろうぃん、です」


 消えてしまいそうなほど小さな声。 そういえば、今日はハロウィンだ。窓ガラスに貼られている、カボチャや魔女の箒の絵柄を横目で見た。……ひょっとして、これを渡すために会話の糸口を作った、のか?


 さぁっという音がして、また雨が降りだした。月明かりの下、細かなシャワーのような雨粒たちが降りてくる。彼女のだぼだぼの白いTシャツが湿り気を帯びていく。黒髪から一滴、水滴が滑り落ちていった。その艶めかしさに思わず心臓がはねる。


「……せっかくまた出会えたのに、今まで何もできなかった、から」


 東さんがふいっと顔をそむける。髪の合間から見えた耳は赤かった。

 頬の温度が上がっていくのがわかる。


 それって。


 水泳を一度やめた僕らに、共通点などなかったはずだった。それが、今こうして隣に並んで降りゆく雨を眺めている。



 それは、不思議なことで。


「――狐に、化かされてんのかな」


 いや、今日の場合は魔女の魔法に掛けられたってとこか?


 馬鹿な妄想が浮かんでくる。

 東さんが軽く首を傾げた。その姿が可笑しくて、笑ってしまう。


 なんですか、そんなに可笑しいですか。頬を膨らませた彼女は、中学の時の面影を確かに残していた。


 なんだよ、やっぱり変わらないじゃないか。


 頬が自然と緩んでいくのがわかる。久しぶりに笑った、そんな気がした。


 東さんが鼻歌を浮かべていく。今年の夏に流行った恋愛ソングだ。海は僕らに恋をさせる云々、レモネイドみたいに甘ったるい歌。なら、このプールは一体僕らに何をもたらしてくれたのだろう。


 何も知らない顔をした月は、ただ僕らを明るく照らしている。

 雨は、降り続いていく。

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