初化粧

〈雨〉【初めての化粧】【ジビエ】【日常】


 6月独特のよどんだ空気が、部屋を満たしていた。外からは小さな水滴が地面にあたって弾ける音が聞こえてくる。これだからこの季節は嫌なのよ、と姉貴は呟いた。


 窓の外はすでに暗い。布団一式と折りたたみ式の机、妹の好きな漫画が大量に詰め込まれた棚。シロクマのぬいぐるみと、それが入っていた誕生日プレゼントの箱。どれも湿気を帯びていて、どこかべたべたする。


 そのくせ壁紙やカーテン、棚そのものは真っ白で、俗っぽい雰囲気は感じられない。赤いリボンだけが、室内で幻想的に映えている。妹の部屋にいると背筋がピンと伸びていくような、そんな感覚に襲われる。いつもの事なんだけれども。


「てゆーか姉貴、こーゆーのってやっぱり専門的な人に任せた方がいいんじゃねーの? 初めてだし」

「何言ってんの、私の化粧術なめるんじゃない」


 俺の反論は、あっさりと切り捨てられる。あーはいはい、と言ってから妹の隣に腰を下ろす。壁にもたれかかるようにして座った由衣の周りには、開けられたばかりの化粧道具たちが並んでいる。この部屋にふさわしく、どこか緊張した面持ちで立っていた。


 姉貴は軽く掌でフェイスクリームらしきものを延ばすと、妹の顔につけ始める。マッサージをするように、強めの力で頬をもみほぐしていく。


「なぁ由衣、気持ち悪いとか痛いとかあったら言えよ」

「何言ってんの」

「いや、だって初めてだし」


 私は初めてじゃないから、いや確かに人にやるのは初めてだけどさ、まあ大丈夫だから、と姉貴は妹の顔全体にクリームを伸ばし始める。元々部屋から出ないせいで白い由衣の顔は、さらに白くなっていく。


 由衣は何も言わず、外で車が水溜まりを越えていったらしい音を聞いていた。相変わらず、天気は優れないようだ。由衣自身は安心しきった表情で目を閉じていた。どこか微笑んでいるようにも見える。さらりと肩まで伸びた黒髪が静かに揺れた。


「……ったく、いい顔しちゃって。次からはちゃんと自分でやるんだよ、由衣。化粧道具はあんた用に全部買ってやったからさぁ」


 全体にクリームが馴染んだところで、姉貴はもう一つチューブを持った。


「なにそれ?」

「BBクリーム」

「……ふうん」


 よくわからないので、適当に頷いておく。


 チューブからほんのり肌色をしたクリームを取り出すと、軽く手で温めるように伸ばす。そこで、姉貴の唇が小さく蠢いているのに気が付いた。――して、内側から外側に少し引っ張るようにして塗るの。うん、そうそう。どうやら、使い方を教えているつもりらしい。由衣がちゃんと聞いているのかは分からない。


 作られていく由衣の横顔は、本当にきれいだ。今は目を閉じているけれど、開いたらきっとその真っ黒な瞳で俺を見てくれるのだろう。楽しみだ。


 姉貴がパフを持つ。手のひらサイズの丸い小箱が、多分パウダーってやつだ。ドラマなんかでよく見るやつ。


「化粧って、これだけだと思ってたわ。意外とめんどくさいのな」


 呟く俺に、そーよ、女なめんじゃないわよ、と姉貴は笑った。外の灰色をした雲へ、カラカラとした笑い声が溶けていく。


 パウダーをはたいて頬に色を入れると、白かった頬が柔らかく染まっていった。途中覗き込みすぎて、邪魔、と言われてしまったので、部屋の隅っこで完成を待つ。耳をすませば、窓に水滴が当たって弾ける音がかすかに聞こえてくる。


「あ、マスカラはいれないで」

「なんで? ――まあ、いいか」


 そのままでもきれいだしね、と姉貴は両手を軽くはたいた。了承してもらえて何より。目は、下手にいじくらないほうが好きだ。


 うん、完成。

 姉貴は満足そうにうなずいた。


 俺は由衣に近づくと、壊れモノに触れるようにそうっと頬をなぞった。淡いピンク色の唇はふっくらとしていて、見る者の目を一瞬にして奪うだろう。ガラス細工のように脆く儚い瞼の奥には、ひっそりとした瞳が佇んでいる。


「――何日、もつと思う?」

「この時期だしね。あんまりは、もたないかも」


 あんまり詳しくないけどね、と笑う姉貴に、そりゃ詳しかったらびっくりするよ、と俺も口端を上げる。



「綺麗だよ、由衣」

 死に化粧を施した彼女に向かって呟く。



 ああ、本当に綺麗だ。白いワンピースに身を包んだ彼女は、真っ白な部屋の中に溶け込むようにして存在していた。落ちていた赤いリボンで、石炭みたいに黒い髪を結んでやる。


 うん、上出来。一人満足して頷く。首に紫色の跡がついてしまったのは残念だけれども、それは本人がやったことなので致し方ない。ひょっとしたら、由衣なりのネックレスのつもりだったのかも。


「もうちょい鎖の短い手錠の方がよかったのかねえ。リボンがこんな使い方されるとも思っていなかったんだけれど。シロクマはお気に召さなかったのかな?」


 姉貴はそういうと、バランスが崩れないよう気を付けながら由衣の手の甲にそっとキスをした。アパートの小さな白い部屋の中、眠るように目を閉じた彼女は本当に幻想的だ。


じゃらり、と鉄と鉄がぶつかり合う音が響く。とは言えさすがに引いたので、うわー気持ち悪い、とだけ呟いておく。殴られた。


「自分から逝かなくったって、ちゃあんと最後は――まあ、仕方ないか」


 これ、あんたのだからね、由衣。白いポーチに一度使ったきりの道具たちを入れていく。ポーチは誕生日プレゼントの箱の隣に置かれた。


「しっかし、最初はあんなにひどい顔だったのに――やっぱ化粧ってすげえな。生きてるみたいだ」


 頬は桃色に染まり、口元もマッサージによって軽く上がった由衣は、幸せそうに見えた。


「綺麗だよ、由衣」


 もう一度呟いてから、俺はそうっと彼女の頬をなぞる。


 やんわりとした風が部屋の中に入り込んでは、俺らの間を通り過ぎていった。

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