かみさまはなび
【デネブ・アルタイル・ベガ】【一か月無料お試しキャンペーン】【キリエ エレイソン】【密室空間】
窓の外には、暗闇が広がっている。
カタン、カタン、とかすかな振動が伝わってくる車内には、僕等とくたびれたサラリーマン数人しかいなかった。
駅と駅との間は約三十分。少し湿った冷房の音、それから列車が枕木を越える音だけが響いている。この重たい空気の漂う空間から抜け出すことのできる者はいなかった。トンネルの中をずっと列車は走っている。田舎なのだ、仕方がない。
「あ、あのさ、ほら、だれだってまちがえることくらいあるよ、ね?」
隣で必死に話す妹の声は優しくむなしい。いつもはうっせえよばかあにき! だなんて言ってくる奴なのに。どこで覚えたんだよそんな雑言お兄ちゃんはそんな妹に育てた覚えはないよ。ああでも良いよもう罵れよむしろ。
僕は一つ大きなため息をつくと、行儀悪くシートの上で膝を抱え込んだ。頑張って一人で着た浴衣の裾が、はらりと揺れる。時折、ふくらはぎの蚊刺されの跡を掻く。覗いた膝小僧が、こちらを見て笑っている気がした。
「いや……もう馬鹿でいいわ僕……ほんとごめん」
小学生だけで夜外に出てはいけません、なんて言う両親に頼み込んで、何とか許可をもらったのに。かーさん達が帰ってくる頃には終わっちゃってるよ! だなんて、散々ごねたのに。お小遣いだって今日のために必死でためたのに。
「まさか、花火大会の日を間違えるなんて……」
チー坊達の噂話だけではしゃいでしまったのが悪かったのだ。大会は先週とっくに終わっていて、会場であるはずの風見川には誰もいなかった。何もなかった。その時の、妹の顔をきっと僕はずっと忘れられないだろう。呆然として、僕の浴衣の裾をキュッとつかんだときのあの表情。
う、と妹が顔を曇らせる。だいじょうぶだよあにき、という声は、ただ静寂が支配した空間へと溶けて消えていく。鮮やかな金魚の模様をした浴衣が、悲しそうに揺れた。それでも彼女の口元は、不思議と上がっていた。笑っていた。
額を膝小僧にぶつける。何も見えない、真っ暗な空間が僕を包んだ。何も見えない。何も見たくない。お小遣いもなくなっちゃったし、もう妹には謝るしかできなかった。ごめんね。ほんとごめん。
「う……あにきがうつうつしてるー……あんこくのないとめあへといざなわれてる……」
「だからどこで覚えたんだよそんな言葉」
「友達に教えてもらった」
今すぐそいつをここへ連れてきなさい。
でも茶化すような妹の言葉に、不思議と口元が緩んだ。そうっと顔を上げれば、窓の外をぼんやりと眺める彼女の横顔が見えた。
どこか、大人びたようなそんな表情。ずっと楽しみにしていた花火が見れなくて本当は悲しいはずなのに、泣き虫だったはずの彼女の目元には寂しそうな微笑しか浮かんでいなかった。妹は、少女になっていた。
心臓がきゅうっと締め付けられる。ちがう、違う、僕が見たかったのはそんな顔じゃない。喉から熱いものが上ってきて、思わず本音が零れ落ちる。
「僕さ、ちゃんとお兄ちゃんしたかったんだ。あにき、なんて可愛くないよ。いつの間にそんなに女の子になっちゃったんだよ。……僕、お兄ちゃん、なんだよ」
ああ、かっこ悪。
かわいらしく浴衣姿ではしゃぐ妹の姿が見たかっただけだったんだ。ちゃんとかーさんに一昨日教えてもらったんだ、ほら、着付けしてやっただろ? うまく出来ただろ?
電車にもちゃんと間違えずに乗れたし、風見川までもちゃんと行けた。
そこまでは、良かったはずなのに。
また顔が沈んでいく。声はもう出なかった。喉元に飴玉を突っ込まれたみたいだ。苦しい。苦しい。モスグリーンの自分の浴衣に、ぽた、と雫が落ちた。
その時だった。
「あにき」
言葉が降ってきた。
「顔、あげて。まど見て。――きれいだよ」
ふっと顔が上がる。熱を持った頬が、冷房の風で冷たくなる。
振り向いて――僕は息を飲んだ。
そこには、満天の星空が広がっていた。
数えきれないくらいの金平糖みたいな光が、キラキラ輝いている。
いつの間にかトンネルを抜けていたらしい。星空くらい、田舎に住んでいる僕らにとっては見慣れているもののはずだった。見上げれば、いつだってそいつらは僕らを見降ろして笑っているんだから。 だから僕は、まぶしいくらいの光が見たかったし、妹にも見せてやりたかった。一瞬で散ってしまう花火を、一緒に見たかったんだ。
今日の星たちは、どこか優しく見えた。
蛍光灯が照らす列車の中で、僕等は窓に額をつけて暗闇を見上げる。ガラスがひんやりとして気持ちがいい。
喉につっかえていた飴玉が、すっと溶けた気がした。声が出る。
「……あれが、デネブ。アルタイル、ベガ。……分かる?」
「いっぱいあってわかんないよ」
ん、と口をとがらせてから、指を窓ガラスに押し付けて説明する。時折、妹の方を見れば、彼女は窓の外を必死になって睨み付けている。その表情が可笑しくて、少し笑えた。
ああ、と声が漏れる。窓に息がかかって、一瞬白くなった。
ちゃんと、こいつは妹なんだ。いろんな友達ができてちょっと言動が怪しいけれど、ちょっと大人になっちゃったけれど、彼女は彼女のままだった。
妹はじっと、窓の外を眺めている。何かを考えている様子だ。
「Κύριε ἐλέησον, Χριστὲ ἐλέησον, Κύριε ἐλέησον.」
その唇から漏れ出たのは、謎の言語。さすがにぎょっとして隣を見る。彼女は少しだけ戸惑った表情を浮かべた後、柔らかな笑みを浮かべた。幼さを残しながらも、少女としての自覚を持ち始めた、そんな瞳。その目は、窓の向こうに広がる星空に向けられたままだった。
一瞬ためらった後、口を開く。
「ほら、花火のときってたーまやー、っていうじゃない?」
あれって、花火屋さんの名前なんだよ。最初は恐る恐る、しかし次第に流れるように、自慢げに話した彼女に、それぐらい知ってるよ、とだけ返す。そうなの?
前を見たまま、頬を膨らませる妹。しかし、それもすぐに元の笑顔に戻る。
「で、このほしぞらを作ったのはだれかなって考えたら、やっぱ神さまかなって」
さっきのはね、主よ憐れめよって意味のギリシャ語。憐みの賛歌。
そういうのに詳しいクラスメイトに教えてもらったのだという。最初は興味半分だったんだけどねー、痛々しいし、と彼女は笑う。
「んと、だからきっとね、これは、神さまがくれたあわれみって奴なんだよ。花火見れなかったねーって、んー、ざんねん賞?」
きょとん、と首をかしげる。
「でもね、ざんねん賞が見れたのは、ここまでつれてきてくれたのは、あにきだから」
いや、憐れめよってたぶん残念賞って意味じゃないから。本当の意味は――僕も、知らないけれど。そんな言葉は飲み込んでしまう。精一杯慰めようとしてくれているのが、情けなくて、嬉しかった。
こんな風に、彼女は変わっていくのだ。その根本の、温かな部分は残したまま、きっと彼女は女の子から少女へ、そして女性へ変わっていく。
でも、それなら――不思議と、怖くない。
僕も強がって、茶化してしまう。
「なんか、今日優しいね」
「うにゅ。……おためしむりょうキャンペーン、だよ。一か月、へんぴんふか! かわいいいもうとをつけて、まさかのこのかかく!」
「金取ってんじゃん」
笑い声がはじけた。疲れ顔のサラリーマンが、何事かとこちらを見る。お嬢ちゃんたち、二人だけかい? ダイジョブです、家近くですし。きちんと答えられた。
「あにきがあにきしてる」
「うっせえ」
二人でくすくすと笑う。目元がまだ熱いのが少し恥ずかしいけれど、気にはならなかった。サラリーマンの人は困った顔をして、それからやっぱり笑った。
列車はまたトンネルへと、暗闇へと吸い込まれていく。見えなくなっちゃったね。残念そうに言う妹に、花火だって一瞬だよ、と言ってやる。カタン、カタン、という一定のリズムが、僕等を包んでいく。
「だから、今度は、ちゃんと見に行こう。――二人で、な」
「うん」
座りなおした僕らを乗せて、列車は明日に向かって走っていく。
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