ゾンビの町、ヘッセの部屋

【エコスフィア】【10円ハゲ】【いずれ死にゆく定めの命】【パニックホラー】

 

 僕は、この世界の中心に座り込んでいる。


 膝を折り曲げ、それを腕で何人たりとも入れないように硬く囲い込んで。もうどれだけこうしているかはわからない。尻はもはや感覚を失ってしまっている。足の指まですっかり床と同化してしまっているみたいだ。


「……」


 いつも通り、カーテンが昼間なのに閉じられていること以外は、何の変哲もない自分の部屋。ほんのりと薄暗く、欝々と時間を過ごすにはこれ以上ないくらい適している。ベッドとテーブルの隙間に入り込むようにして、僕は体育座りで俯いていた。


「……」


 このまま僕が死んだって、きっと誰も気づきやしないだろう。そのうち石像みたいに固くなって、それからまたじっくりと時間をかけてこの細い筋肉どもが緊張を緩めていくんだ。このじめじめした梅雨の時期特有の暑さの中だ、きっと腐っていくのも早いだろう。まず下腹部から変色を始める。すでに目はどろりと濁ってきている。この今は膝を抱え込んでいる腕もとうに床へと放り投げだされ、そして――



「……ねえ! ちょっと! 聞いてんの?」



「うっさいな、ちょっと静かにしてろよ。せっかくうまくいきそうだったのに」


 僕は顔だけ横に向けた。同じようにして座り込み、ヨーグルトをほおばっている幼馴染に文句を言う。あー、雰囲気が台無しだ。


「今日は自殺曜日、だよ。げーつ、かー、すーい、もーく、きーん、じさーつ、にーち」

「あんたの中だけでしょうが、この厨二野郎」


しかもただの「ごっこ」でしょ? そろそろ卒業しなよ、と言われ、僕は諦めたような表情で軽く首をふる。壁にかかった時計が視界の端を横切った。……ふむ、二時間三十七分か。新記録だ。同時に、ばきぼきと嫌な音が鳴る。


 あっついー、あたしアイス食べたいー、と言いながら彼女はヨーグルトのラスト一口を食べ終えた。足をだらりと前に伸ばし、大きく伸びをする。中学校の方では「大人しさん」と呼ばれている幼馴染。同級生が今の姿を見たらどう思うだろう、と想像して自然と笑いがこみ上げてくる。


「あんまり振りすぎんなよー? 急に運動したら結構大変な目に遭うって聞いたことがある」

「なに、ゾンビ化するとか?」

「その発想はなかったわ」


 乾いた笑い声が、部屋の中に充満する。

男勝りな口調なのは、素に戻っている証拠だ。


 週に一回、彼女は自分を取り戻し、僕はこうして「緩やかな自殺ごっこ」を繰り返している。普段はもちろんそんなこと考えもしない。

 幼馴染は「二つ隣の大人しそうな知人」だし、僕は「ムードメーカーになり損ねてクラスの中で空回ってるキャラ」だ。

 お互い、顔を合わせることもめったにない。


 ただ、この「自殺曜日」になると息をするように彼女はこの部屋にやってきて僕の隣に座るし、僕はただうずくまりだす。幼馴染がやっていることは様々だ。勝手にゲーム機を探し出してきたり、真似をして一緒に自殺ごっこをしてみたり、今日のようにひたすらしゃべり続けたり。僕はただ何もせず座り込んでいるだけだが。


 最初に始めたのは、たぶん僕だ。もうあまり覚えていない。ただ、十五分くらいでギブアップしてあんたねえ、と頭を殴られたことだけ記憶している。実際、後頭部にはまだ十円禿がかすかに残っている。


 僕はでまかせにしゃべりだす。さっきまでは無視していたのに、今では何かでこの空間を生めないと、という感じがしていた。


「そうだよ、皆動き過ぎなんだ。動きすぎるから、この部屋の外にいる者たちは皆ゾンビ化してるんだ。動いて、動いて、焦って走るように時間を消費していく。だから、この外へは出ちゃダメなんだ。『人は亀のように自己自身の中に完全に潜り込まなければならない』ってね」

「めちゃくちゃね。……なにそれ?」

「ヘッセ」

「ふうん」


 彼女は興味なさげに呟いた後、ヨーグルトの入っていた器をぼんやりと見た。この間呼んでたじゃん、と本棚を指さしたものの、彼女は無言だった。


 静寂が僕らを襲う。慌てて口を開く。

 今日がまた終わってしまう。そうしたら、僕は。


「だからさ、僕らはこの部屋を出ちゃいけないんだよ。外はゾンビでうじゃうじゃしてんだ。僕も君もゾンビになっちゃう」

「あんたの部屋が唯一の逃げ場ってこと? この安全地帯で、『私』達は自殺ごっこをしてるんだ。面白いこと言うね」


 じゃあきっと壁の向こう側は大騒ぎだね。彼女の口調がふっと女子らしくなった。いけない、これじゃあいけない。僕はそっと頭を横に振って否定する。


「違うよ。皆ゾンビになっちゃったことに慣れきって、もう誰もそれを異常だと思っていないんだ。変だって思うのは、僕らだけ。ほら、よくあるじゃない、ゾンビ映画とかで、主人公たちが敵に立ち向かっていくようなやつ。でもさ、あれ僕らが『おかしい』としか思ってないからおかしいんだよね。向こうにとってはこっちが変だっていうのに」


 蒸し暑い空気が僕らの喉を、肺を、言葉を満たしていく。痛々しくって見ていられない、ハチャメチャな理論が僕と彼女を縛り付ける。

 でも、それは、きっといいことだ。


 僕らは、こうして『僕』と『彼女』でいられるのだから。


「この部屋ならさ、何でもできると思わない? 何でも、じゃないか。僕らは『自殺ごっことその付き添い』しかやっていないからね。でも、それ以外しなくていい。それだけで、この世界は、この時間は回っていくんだ。大体、いつか僕らは死んじゃうんだぜ? なら、僕は、君は――」



「『鳥は卵の中から抜け出ようと戦う。卵は世界だ。生まれようと欲するものは、一つの世界を破壊しなければならない』」



 透き通った湖のような声で、彼女が言った。ヘッセの『デミアン』。僕がさっき引用した小説の中の一文だった。


 言い訳のように続けられていた言葉たちが、床に落ちて消えていく。きっちり読んでるじゃねえかよ。小さなつぶやきに、彼女はふふ、と笑った。


 知っているさ、そんなセリフがあることくらい。


 言ってほしかったんでしょ? と言いたげな表情に、僕は黙ってうつむく。違う。いや、そうだ、いや、違う。


 このままじゃいけないことは分かっている。こんなバカげたことは、こんなバカげた妄想は、さっさと捨ててしまわなければならないことくらい、分かっている。大人になったら、こんなごちゃごちゃした気持ちなんて忘れてしまうんだってことも。


 でも、それじゃあ、僕はゾンビになってしまう。『僕』でなくなってしまう。敵に立ち向かうことなんか、できなくなってしまう。


 それに、何より。



 『幼馴染』との関係が、『ただの痛々しい奴とそれに付き合ってあげている幼馴染』という関係が、切れてしまう。


 この部屋の外は『いつも』の『普通』な世界なんだ。


 幼馴染が黙ってヨーグルトの器を手に取った。彼女持参の、ガラスの器だ。

 濁った白いヨーグルトはすっかり彼女の腹の中に納まっていて、器は綺麗な透明だった。


 立ち上がる。ふわりと白く膝を覆うくらいのスカートが揺れる。むき出しの細い足には、かすかにカーペットのあとが残っていた。上は桃色のTシャツ。首には銀色のネックレスがかかっている。ずっとうつむいていたから、気が付かなかった。幼馴染の私服スカート姿なんて、初めてじゃないか?


 彼女は、女の子だったんだ。いや、そんなのとっくに知ってた。知ってたから――知ってたから。


 幼馴染が、数歩歩いて部屋の扉に指をかけた。背中はまっすぐ伸びていて、何の間違いもないんです、と言っているかのようだ。


 いけない、このままではいけない。思わず縋りつくような、かすれた声が出る。


「……外に、出る、のか?」


 ゾンビがいるぞ、なんて言葉は、もうかけられなかった。彼女の手がぴたりと止まる。はああ、と大きくため息をつく音がした。


 そして、くるりとこちらのほうを向いた。


「え?」


 僕の前を通り抜け、窓の方へと向かう。ジャ、と大きな音がした。

――不意に、部屋の中を光が満たす。


 まぶしさに目を細めた僕に、彼女の言葉が降ってきた。


「……どこ」

「……何が?」

「キッチン」


 なぜ急にそんなことを言い出すのかわからない、と言ったふうに首をかしげる僕に向かって、幼馴染が声を荒げる。


「次も使うからに決まってるじゃんこの馬鹿! 持ってくるの面倒だからあんたの家に置かせてもらうの!」


 逃げ場所なんでしょここは、と、彼女は笑った。いつも居たら、「逃げ」たことにならないじゃない。ここに逃げてくるからこそ、避難所なんでしょ?


 そんなことを捲し立てる幼馴染に、僕はぽかんとするしかなかった。目が光に慣れてくる。外の光に浮かび上がった彼女の顔は、ほんのり赤かった。女の子らしい――ただ一緒にのんびりするくらいだったらしないような、可愛らしいスカートが震えている。


「あんたの妄想癖、結構楽しいんだ」

 彼女は言う。


「『あたし』だって、怖いよ。でも立ち向かうでしょ、外にゾンビなんていたら」

 彼女は言う。


「ねえ、ここは逃げ場所ってことでさ」

 彼女は言う。


「今日は二人で――外に、出てみない?」


 彼女はそんなふうに言って、僕に手を差し出した。


 反対側で器を持つ手が震えている。顔は真っ赤だ。つまり、そういうことで、えと、えっと? ……これは、今日は最初からそうする気で、その、うん?


 混乱する頭を、どうにかこうにか押さえつける。熱が顔まで登ってくるのがわかる。震える声で、できるだけ余裕ぶったふりをして、返事をする。


「き、きぃみ、君も、十分厨二じゃんそれ」


 彼女の顔が、さらに赤みを増した。僕の腕をつかむ。そのまま上に引っ張り上げ、無理やり立たせた。テーブルの上にガラスの器を乱暴に置くと、歩き出す。僕は引きずられるようにして、扉の前に立った。


 吹っ切れたような表情で、堂々と幼馴染は笑う。


「いっちょ、行きますよ――ゾンビを倒しに。世界の卵を、壊しに」

「お、おう」


 僕らは、扉を開けた。

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