タイムマシンは夏を待ちわびる

【タイムパラドックス】【共同体≒世界<私の大切なもの】

【死を記憶せよ】【制服の第二ボタン】


「ねえ、私ちょっと十五年位前にタイムスリップしたいんだけど」

「は?」


真顔でそんなことを言い出した紗耶香に、あたしは思いっきり顔をしかめた。またか、と大きくため息つくと、タワシを持った手を一旦止める。


「楽しそうでしょ? タイムパラドックスとかさぁ」


 何を言っているんだこいつは、という視線を精一杯送る。夢見がちな乙女の瞳には残念ながら届くことなく、そのまま地面にポトンと落ちた。紗耶香は廊下掃除用の箒をぎゅっと胸に抱いて、上を見上げる。ほわほわとした雲のようなものが彼女の頭に浮かんでいるようにすら見える。また妄想が始まったのだろう。


 どこかへ飛んで行ってしまった彼女の意識がなかなか戻ってこないことは、ここ数か月でよく心得た。しかたなく、手洗い場の掃除に戻る。クレンザーを適当に振りまいてタワシでこすると、白い泡が数本の髪の毛とともに浮かび上がる。気持ち悪、と思いつつも手は止めない。

「きっちり」綺麗になることは、いいことなのだ。


 左腕で頬を伝う汗を軽くぬぐう。夏がこんにちは、といろんなところに挨拶して回っているのがよく分かった。


 隣を覗えば、やはりまだ妄想の世界にダイブしたままだった。明るい茶色に金色を少しだけ混ぜたような虹彩を上に向け、蛍光灯の光を丸ごと受け止めているようにも見える。まぶしくないんだろうか。


「そーいえば始まりは卒業式って言ってたなあ……制服の第二ボタンもらったってのろけてたし……にゅぅ、やっぱ二十年くらいはさかのぼらないとダメかぁ……」


 謎の独り言が、学校独特の喧騒の中に巻き込まれていく。黒板を爪でひっかく不快な音。教師の生徒を叱る声。くすくすという女子の忍び笑い。


 あたしは、だんだん灰色に染まっていく泡の生ぬるさを感じながら考える。今度は何の影響なのだろう。漫画? さっき図書館で借りてきたライトノベル?


 中学二年になって、初めてクラスが同じになった子は、いわゆる厨二病にかかっていらっしゃった。


 休み時間駆け寄ってきては今雲から何か銃口的なものが見えたから屋上行ってくるだの、自分のシャープペンシルに実はいつの間にか毒が仕込まれていたのだ! だの、妄想を繰り広げている。

 逆によくそんなことを思いつくものだと感心するくらいだ。

「我の死をしかと記憶せよ!」だなんて言われた日には、どこの医者に連れていけばよいのかと頭を悩ませたものだった。


 もちろん、それは明らかにきっちり証明できないことばかりだ。雲の上に人が乗っかれるわけがないし(そもそも屋上は立ち入り禁止だ)、毒入りシャープペンなんぞあってもどこで使うんだそれ、という話だ。てゆーか死ぬな。


 でも、とあたしは握ったタワシに力を籠める。皮膚を茶色いとげが刺さり、自分を責め立てているようだった。でも、あたしはそんな紗耶香を止められない。

 止めたくない。


 何度もそんな彼女につき合わされてきている。屋上に侵入して怒られたり、買ったばかりのものがあるのにまた新しくシャーペンを買いに行ったり。


 彼女の妄想に、あたしは「何故そうなるのか」という疑問を突きつけることはなかった。そんな夢を壊すようなこと、できない。


 さっきから全く動いていない箒を握りしめる、細い指。健康的な桃色をした爪は綺麗に切りそろえられている。制服が圧迫しない程度の凹凸の少ない肢体。枝毛などない腰まである髪は、二つに分けられ結ばれている。色は暗めの茶。顔は少し丸みを帯びており、うっとりと細められた目によく合っている。


 黙ってさえいればモテるんだろうな、と思う。でも、あたしはそんな彼女の妄想話が好きだった。さほど強くない力で腕を引っ張られ、面倒ごとにつき合わされるのも、嫌いではなかった。何より、キラキラした紗耶香の目が、つやのある髪が、あたしをいっとうドキドキさせた。


 バカみたいだ、と泡のついていない左手でカラスみたいに真っ黒な自分の髪の毛をいじる。


 この気持ちがおかしいことだっていうのは、よく知っている。きっちりしていないし、なによりこれが本当にあたしが考えていることなのかすら、はっきりとはわからない。それこそ、どこかで読んだ本に影響されているのかもしれなかった。


 それに、と自分に言い聞かせる。胸の高鳴りはこの思春期の間だけだろう。どこにでもあるような、恋に恋しちゃって変なところに行ってしまうようなもの。もうすぐ消えてなくなってしまうに決まっている。


 ふうっと溜まった息を吐き捨てると、目の前のタワシに集中する。それでも視界の端にどうしても突っ立った彼女の姿が映る。


 紗耶香はしばらく指を立てたり折りたたんだりして何かを数えるそぶりを見せていたが、急によしっ、と呟いてこちらを見た。純粋そうな、汚れなど一つも見当たらない瞳孔があたしを貫く。心臓がとくん、とはねた。


 こちらの動きなどまるで考えないままに、

「と、いうことで、なっつん。目的地は二十一年前の三月なんだよ。あー、どーやって行こうかなぁ」

と言う。


「何故そんなに具体的」

 思わずツッコんでしまった。二十一年前って、私達生まれてないじゃん。親があたしたちくらいの年齢じゃん、それ。


「え」


 紗耶香の動きが、止まった。何故か頬が赤く染まった。そう言えば「何故」なんて言ったことないんだった、とぼんやり思う。と、とにかく! 彼女が箒を放り捨てた。カランカラン、という比較的大きな音が廊下にこだまする。


「これはまた屋上様に頼るしかないよね! たぶんタイムマシン的なあれが落ちているかもしれないし! 行ってみよ、なっつん」


 きらめくような笑顔を浮かべ、紗耶香があたしの左手を取った。もちろん、右手にはまだ泡立ったままのタワシが握られている。


「ちょ、紗耶香……」


 いつも以上の強引っぷりに、思わず声が漏れる。彼女に引っ張られるようにして、走り出す。周囲の視線が痛い。ああ、また怒られるんだろうな。そう思いつつも、頬が緩んでいくのを止められない自分がいた。


 前を走る紗耶香が、顔を赤らめたままボソッと呟く。



「私達さあ、ほんといいコンビだと思うんだけど。……だからさ、タイムパラドックス、起こすの。私が――男として、生まれてこれるように」



 大きく目を見開く。それって。それって。思考がスピードに追い付いていない。きっちり、やはっきり、が後ろへ飛ぶように遠ざかっていく。


「私の親、中学生んときに出会ったらしいからさあ、そっから見張ってりゃ何とかなるんじゃない? ふふ、二人のらぶろまんすを変えてやるのさぁ……」


 いつもの痛々しい紗耶香の発言。

 ラブロマンス、がカタカナにすらなっていない。


 階段を二段飛ばしで駆け上がる。頬をかすめていく風が気持ちいい。後方から、担任の怒鳴り声が聞こえてくるけれど知ったこっちゃなかった。


 確かに、あたしが今胸の中にため込んでいるこの熱は一時的なものなのかもしれない。

 でも、とあたしは思いっきり叫んだ。



「付き合うよ、紗耶香! とことんっ」



「……! ふはっ、そうしてくれるとありがたいねえ」


 たぶん、屋上への階段を上ってもその扉は鍵がかかっている。ああ、でもその時はまた職員室まで忍び込もう。書類の山というジャングルを潜り抜け、怪盗みたいにかぎをぬすみだす。きっと、タイムマシンは屋上であたしたちを待ちわびてる。


 そっから、ドキドキするような冒険譚が始まるんだ。


 階段の終わりが見えてくる。

「行こう、なっつん」

「うん」

 紗耶香が、夏に向かう扉に手を伸ばした。

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