2人

【パラダイス・ロスト】【二度目のキセキは】【NGシーン】【紋切型】


「ハル兄貴」

そう言って奴は、チェシャネコみたいに目を細めてにかっと笑う。白く細い腕が、少し大きいシャツの袖から飛び出している。数字研究同好会、というへんてこな名称の会に属しているせいで、外に出る機会がほとんどないからだ。

 もう6月だから、日はそれなりに長い。赤く染まった夕日が、のんびりと夜を迎え入れようとしている。右手に持った買い物袋を軽く前後に揺らすと、反射してきらきらと輝いた。 

うん、明日もいい天気になりそうだ。

「俺はね、2って言う数字が好きなんだよ。他の字と違ってさ、地面にしっかり足がついているだろう? どっしりした感じを思わせるんだ。それに、最初じゃないって言うのもいい。私はここでよいのです、ただ1の陰にそっと潜んでいればよいのです、みたいな。分かるかなあ、この感覚」

「うーん、なんとなくは」

 何度も聞いた奴なりの持論を、僕はぼんやりと聞いていた。3は不安定だ、7とか絶対前のめりに倒れるだろう、なんて話も。

 正直、数字にそこまでの興味があるわけではない。3はただの3であり、7はただの7だ。そこにあるものとしてしか、扱うことができない。しかし弟がこんなにも楽しそうに話すことはこれくらいであるから、いつも目を合わせ、興味津々な風をよそっている。

「ハル兄貴は? 好きな数字とかあるの?」

 曇りのない、窓からの光がきれいに入った瞳が、僕を刺す。母さんから頼まれたお使いの帰り道。僕も天文部に入っているから兄弟二人だけでの時間、と言うのは久しぶりだ。

 こういう話題になると、弟の瞳はさらに輝きを増す。男にしては少し厚めの唇がほのかに色づき潤っていく。……とここで思考をとめた。これ以上は、駄目な奴だ。いろいろと。

僕は目をそらすようにして、あーと、と考えるそぶりを見せた。坂道を下っていく。

「お前と同じだよ。2。だって次男の2だもんなー!」

「何それ気持ち悪い」

「ぐっ……」

 冗談で言ったはずなのにダメージが来た。笑顔で固定した表情が崩れそうになる。まあ、弟は嬉しそうだったのでよしとしよう。

 ……本当は2なんて、だいっきらいだ、なんて言えずに。

 坂道を下りきると、踏切がある。田舎町だからそこまで電車のとおりも少ないはずなのだが、今日は珍しくかんかんかんかん、と音を響かせ始めた。

 黄色と黒の、注意を無理やりにでも促す色。赤いランプ。下りてゆく遮断機。そして。そしてそしてそして。

 体が硬直する。腹が痛みと熱を帯びていくのが分かった。大丈夫、と自分に言い聞かせる。何もおこらない。何も起こらない。何も望んではいない。僕は。僕は。

「あ……」

 弟が僕の様子に気がついた。

「兄貴、大丈夫? ……珍しいね、電車が来るなんて。違う道、通ろうか?」

 ああ、お願いだから。

 お願いだから、そんな顔で僕を見ないでくれ。

熱が徐々に体の上へ上へと上っていく。熱い。熱い。熱い。痛い。痛い。腹がペンチでつねられたようにぎゅううっと叫びを発する。いつもならここで終わるはずなのに、今日は何だか違っていた。たぶん――今日だからだ。そうか、もう一年たつのか。

 耐え切れなくなった僕は、思わずうずくまった。買い物袋がぐしゃりと音を立てる。中に入ったりんごがどこかへ転がっていく。

「兄貴? 兄貴!」

ぼんやりと弟の声が聞こえる。変声期はまだだから、女みたいな高い声。揺れる短髪。

 今日、6月2日は。

 僕らの、命日だ。

 よくある話。どこにでもあるような、ちょっと本を開けば見つかるような、すでに設定しつくされたような、そんな話。

 去年の今日、僕らはここで死んだのだ。

 元々僕らは、兄弟なんかじゃなかった。方向が同じ、というだけで一緒に下校していた、いわば腐れ縁で結ばれたような、そんな関係。

彼女は、単なる幼馴染だった。

幼馴染、のはずだったのだ。

その関係はひどく穏やかで、春の日差しみたいに暖かくて。数字が好きな彼女の話をぼんやりと聞きながら家路を行く、そんな毎日だった。綺麗な黒の短髪が、真っ白な肌によく映えていた。

でも、僕はそれ以上を求めてしまった。彼女の手に、触れてみたかったのだ。そのマシュマロみたいにふっくらした頬や、柔らかそうな唇、そして曇り一つない水晶玉のような、純粋無垢なその心――僕はその全てを、欲しがった。

ひどく雨が降っていた日だった。

僕の突然の「それ」に驚いた彼女は、坂道を走ってくだりだした。僕は追いかけるしかなかった。罪悪感と、達成感と、悲しさと、苦しさと、全ての感情をごちゃ混ぜにして放り込んだような、そんな顔をしていたんだと思う。

彼女に追いつく手前、丁度踏み切りのところで、急に警報灯が鳴り出した。

かんかんかんかん、と。

そこからはスローモーションで進んでいった。忘れない。忘れることができない、記憶。フラッシュバックする。

大きな音に驚いて、パニックになった彼女が転んだ。雨で滑りやすくなっていたのもあるのだろう。ゆっくりと、彼女のスカートが濡れ、黒く染まっていった。

僕は彼女を助けようとして、踏み切りに突っ込む。そしてはっと顔を上げて、強烈な光が目を刺して、耳障りな黒板をつめで引っかいたような音がして、そして、そして、そして――

僕らは、いつの間にか「こう」なっていた。弟が「彼女」であることには、すぐに気がついた。数字が好き、黒の短髪、きらめくような笑顔。十分すぎるくらい、彼は彼女だった。でも、同時に彼は十分すぎるくらい弟だった。

なぜこんなことになったのかは分からない。奇跡、といってしまえばそれまでなのだろう。でも、それなら、なんで。

……たぶん、これは罰なのだ。

楽園以上のものを欲しがった僕に対する、どうしようもない制裁。

兄弟だから、それなりに触れ合うこともできるようになった。冗談ぶってでこピンすることも、頭をわしわし撫でてやることも、前以上に距離が近くなることもできた。

ある意味、僕の願いはかなえられたということだ。

だからって、ねえ。

これは、あんまりじゃないか。

 卵の中に閉じこもるようにしてうずくまった僕に、弟の声が叩きつけられる。

「兄貴! ……ったく、しょうがないなあ。小さいころに轢かれそうになったくらいでそこまでトラウマ発生しなくたっていいじゃないか。ほら、もうすぐ電車来るから。そしたらまた渡れるようになるから。……いつもここ通っているのに、なあ……」

 よっぽどこわかったんだね、と。

 彼女とそっくりな声のままで、子供のころについた嘘を信じている弟は言う。

 そこで僕は。

 水面から浮き上がるようにして、思いつく。

 ――6月2日。弟と、「彼女」と一緒にいる。帰り道。

雨は降っていないけれど、条件は十分にそろっている。

 足に力が入る。腹の痛みは、不思議と無視できた。

 ふら、と歩き出す。

 さながら夢遊病者のように、一歩ずつ、線路に近づいていく。

 なあ、1回奇跡が起きたのなら。

 2回目もあったって、いいじゃないのか。

 遮断機のバーが体に当たる。力をこめると、案外すんなりと持ち上がって僕を通した。遠くから、徐々にがたん、がたん、という音が近づいてくる。

 これで、これでいいんじゃないのか。

「――優、ばかっ!」

 首元をつかまれた。ものすごい力で引きずり戻される。バーが後頭部にあたる。背中からおかしな体制のまま着地する。腹に加えて、背中に引っかかれたような痛みが走る。熱を帯びていく。痛い。痛い。

 声も出すことができず痛みに耐える僕に向かって、言葉と握りこぶしが胸に降って来た。叩かれる。叩かれる。不思議と、背中や腹よりも痛かった。

「ばか、何やってんの? 死にたいの? 覚えてないかもしれないけどねえ、俺本当に怖かったんだから。何でよ、何でまた死のうとしてんの? これ以上俺に地獄体験させたいのかあぁん?」

 声が、言葉が、叫びが、あふれ出る。せりふは泣き声に変わっていき、弱々しいパンチもただの駄々っ子のようになった。

 と、そこで。思考が、とまった。

 ――え?

 おそるおそる、口にする。

「今――僕のこと、優って呼んだ?」

 弟の顔が、さっと赤くなった。下を向く。と、友達の名前だよ、思わず口走っちゃったんだ。そんな言い訳が飛び出した。

「そ、そう友達! 小学校のころの友達でさ、変な奴だったんだよ! 1回線路に飛び出そうとしたから、あわてて止めたんだ。そのときのことを思い出しちまったんだよ」

 わたわたと身振り手振りで説明する弟を見ながら――僕は思わず吹き出した。可笑しかった。本当に、どうしようもなかった。

 あの幸せな時間を追い出された僕には、今ある大切な時間を守ることくらいしか、できないのだ。

 どうにかしたところで、僕らは兄弟なのだ。何か特別なことができるということも、ない。

 ……たぶん。

「――そうだったのか」

 僕は立ち上がった。続いて買い物袋を拾い上げる。卵は割れてしまったかもしれなかった。

弟みたいには笑えないけれど、目を細め、口の端を上げ、精一杯の笑顔を作る。弟ははっとした表情で、僕を見た。少しさびしそうにも、見えた。その顔も崩れて、すぐに暖かな微笑に変わる。

「……うん。だから、帰ろう?」

 少し迷ってから、僕は弟の手を握った。砂がついていてちょっとざらざらしていたけれど、やわらかくて丁度いい温度を保っていた。

 何だよハル兄貴気持ち悪いー、と言われたが、それでも二人の手は離れなかった。反対の手で落ちていた林檎を拾い上げる。衝撃で一部がへこんでいて、まるで誰かがひとかじりしたかのようだった。

 後で剥いてやろう。半分に、2つに割って、2人で食べよう。

そう思いながら、僕は線路を渡った。

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