第12章 四海同胞

 梁の武帝は、交州李賁征伐軍の主将に高要太守・西江督護の陳覇先を抜擢し、交州に進攻させた。前述したが、交州はいまのベトナム北部から中部にかけての地域だ。高凉太守馮宝は冼夫人を派遣し、前線への軍糧輸送を指揮させ、海路、交州の軍事を後方支援した。馮宝は占領した高州の治安維持のため、軍兵とともに現地に留まった。

 陳覇先は雄兵一万五千を統べ、欽江(広西南寧)へ進軍、交州の叛徒李賁の動静を探った。陳覇先の「探子たんし」(間者かんじゃ)として敵情視察のために潜り込んだのは葛徳だ。もっとも葛徳のばあい、たんなる探子ではない。むしろ隠密の外交特使といったほうがあたる。かれは陳覇先の代理として、李賁に接触した。停戦の可能性を探ったのだ。葛徳の思考範囲は広く、価値判断は柔軟だ。李賁にたいしてもその原則はかわらない。朝廷に歯向かう蛮族の謀反人にたいし、なぜ勝つ戦をしないのかと、戦法の拙劣さをなじり、むしろ激励した。

「なぜ、力攻めしないのですか。郡城をひとつづつ落としていけば、州都は容易に陥落できたでしょうに」

「敵とはいえ、守備兵のほとんどはベトナム人だ。われらはやむにやまれず、梁朝政府に謀反したが、苛政は憎んでも、王朝を転覆する意図はない。ましてや、同じベトナム人同士で殺しあうことは、苛政をしのぐ悪業ではないか」

 苛政は虎よりも猛し、という。むごい政治は虎の害よりも酷い、というたとえだ。

「虎にならなければ、苛政は放逐できません。たとえ同族の身内同士で殺しあったとしても、私利私欲で収奪にのみ血道を上げる皇帝の親族を追い落とさなければ、未来永劫、異民族は救われません」

「そこもとは、いったい――」

「わたしは高凉俚人の一員として、嶺南での異民族復権に賭けています。立場こそ違え、思いは同じだと、思っていただいて結構です」

「あなたにお会いするのが、遅かったようだ。わが身はもはや、八つ裂きにあおうと悔いはない。しかし、部下は生かしてやりたい――」

 憮然として李賁は押し黙った。苦悩の色が濃い。内面の葛藤がもたらしたものだろう。

 歴代の交州刺史のなかでも、蕭諮の貪欲さは群を抜いている。赴任と同時に、数百種類の酷税を新たにもうけた。妻子を納税のかたにとられた民衆が怒り、李賁を担いで義軍をおこし、蜂起したのだ。李賁は情の人だ。民衆の心を知り、民衆とともに憤った。

 しかし敵方にも同族のベトナム人がいる。朝廷に謀反し、政府軍と戦うことは、同族と刃を交わすことを意味する。それを、「情において忍びない」では、戦にならない。戦は理を詰めて相手を攻め立てることで成り立つ。情のつけいる隙間はない。

 ――非情にならなければ、勝つことはできない。勝たなければ、既存の制度は壊せない。

 葛徳の助言は分かるが、もはや道はない。李賁は死ぬつもりでいる。

 やむなく葛徳は、その場を離れ、李賁の弱点を陳覇先に報告した。

 陳覇先は、葛徳の心情を理解している。李賁とその一派の処分について、暗に穏便な措置を、葛徳は望んでいる。しかし陳覇先が情に流されることは、けっしてない。

 交州各郡の官兵は、なおも郡城を守護していた。実力でかち得た結果ではない。もうひと押しすれば、かんたんに崩れていた。李賁が一気に落す強攻策をとらなかっただけだ。たとえ敵方であっても、陳覇先にはこの戦法が許せない。攻めるべきときに、なぜ攻めない。躊躇や温情は、いずれじぶんの首を絞めることになる。

 ベトナム人李賁に、内地侵犯の意志、いいかえれば漢土侵攻の野心は見てとれなかった。はっきりいえば、占領地に清廉な執政官が派遣されてさえいれば、あえて謀反におよぶことはなかった。明らかに非は梁朝の側にある。

 敵情を総括した陳覇先は、本隊に先行し、みずから騎兵をひきつれ交州まで疾駆した。

 ――この戦、勝って収める。

 出陣にさいしては和議で決着する消極案も検討されていたが、分けるのは負けを認めるに等しい。負けてはならぬ。徹底して攻勢に出ることだ。

 確信をもってあたる陳覇先の先発軍は、まるで意気込みが違う。騎兵が突撃し、李賁軍を力で押し戻した。本隊の到着を待ち、征伐軍は総攻撃に移った。。

 手勢数万、数で圧倒する李賁軍が、かえって壊滅した。山峒に逃げ込んだ李賁は、峒主によって殺された。陳覇先は李賁の残党の投降をうけいれた。有能で使える人材であれば、用いるにしくはない。交州刺史に戦勝を報告した。交州平定の大功を立てたのだ。

「ようやってくれた。高凉俚人の働きぶり、しかと見とどけた。こののちも頼みますぞ」

 冼夫人は、陳覇先の口から直接、功をたたえられた。

 交州の戦役では、糧秣輸送という重要だが目立たない任務だったが、下積みの長かった陳覇先の目配りは、軍の隅々にまでいきとどいていた。人の評価は、自己の評価に通じる。

「陳都督についていこう。正しい判断のできる方だ。信頼できる」

 馮宝と冼夫人は、心に決めた。これ以後、時局がどうかわろうが迷うことなく、すべて陳都督の馬首をのみ仰ぎみたのだった。

 しかし、勝報がみやこに届いたものの、朝廷は論功行賞をおこなわなかった。

 仏教に入れ揚げ、たびたび捨身しゃしんをおこなう梁の武帝蕭衍しょうえんに朝臣がほんろうされ、まともな朝議もされなかったのだ。捨身については、のちに詳述するが、政権の末期症状といっていい。陳覇先は武帝に失望し、心中ひそかに梁朝を見限った。


 馮宝と冼夫人は、高州刺史孫冏亡きあとの後任に、陳覇先が高要太守・西江督護との兼務で選ばれルことを期待した。しかし予期に反し選考からはずれ、かえって陳覇先のライバルと目される李遷仕りせんしが起用された。

 人事の妙である。このころはまだ朝廷にも、バランス感覚をもつ人事のベテラン能吏がいたという証明になろう。いいかえれば陳覇先は、身は南彊の地涯にあってもその突出した能力が、やがては梁朝の脅威となることを危惧する人が中央にもいたということになる。ローカルでの長い無名の職務に耐え、ようやく陳覇先は、その存在を歴史の片すみに現わそうとしていた。のちの話だが、陳覇先は中国歴代王朝中、唯一、嶺南から立った皇帝となる。

 かれは嶺南俚人の支持を得て、江南で発生した侯景の乱を制し、梁の啓帝蕭方智の禅譲をうけ陳朝を創建、即位し陳武帝と号することになる。

 祖籍は河南潁川えいせん郡(いまの河南中南部)だが、祖先は西晋永嘉年間に南渡し、江南の呉興(いまの浙江長興県)に居を遷した。南朝梁代の生まれで冼英の九つ上にあたるから、馮宝よりひとつ若い。寒門かんもん(身分の低い家柄)の出身だったが、若くして大志を抱き、長じては智謀をめぐらした。意気天を衝く豪傑の気概があり、一方、史籍を渉猟する学問の素養もあった。ことに兵書を愛読し、武芸に通じた。明達果断、ときに人の敬服してやまないところであったというからには、身を立てる路はひとつしかない。上流への階段を求めて武人の道をひた走りに駆け上り、梁朝呉興太守蕭映配下の猛将となった。その後、蕭映が広州刺史に任命されると、腹心の配下として蕭映に随行した。職位は、参軍(次将)から郡監へと着実に昇進していった。

 ただし、苦しい下積みの時代も長かった。三十歳近くになっても油倉庫番の小役人でしかなかったのだ。それがたまたま、油倉庫の管理が行き届いており、備える帳面に一点の過誤もなかった会計処理の確かさを上司に買われ、蕭映の側近に取り立てられた。その後の立身は、これがきっかけだというから、ひとの運命は分からない。

 やがて陳覇先は、軍閥の孫冏・廬子雄を追いやり、高要太守・西江督護の職に就く。高要は嶺南の軍事の要だ。その高要が、陳覇先にとっては、天下取りの道に邁進する得がたい橋頭堡となったのだ。

 すでに述べたが、その後、高凉を和平停戦に導き、冼家と俚人のために仇敵から主導権を取上げ、戦を終らせた。さらに、盧子略が新州で謀反を起こし、広州に向かって進撃したさい、高要から出陣した陳覇先は、三千の精兵をひきいてこれを迎え撃ち、壊滅した。

 威名は天下に轟き、梁の武帝の知るところとなった。興を覚えた武帝は画師を派遣し、陳覇先を描かせた。その人物画像の威容にうたれた武帝は、ただちに加封加増し、陳覇先に酬いたものだった。ベトナム平定時の大功無視にくらべ、天と地ほどの違いがある。


 一方、新任の高州刺史李遷仕は、いまの江西の土豪上がりで、やることが荒っぽい。一代で地方に勢力を張り、当路の要人に賄賂をばら撒いては、実入りのよい役職を手に入れてきた。任地には、競争の激しい都近辺ははずし、あえて地方にこだわっている。高州に目をつけたのは、そこが海人俚族の故地だからだ。塩の交易で暴利をもくろんでいる。

 赴任にさいしては力を誇示するため、こけおどしの大行列をしたて、何日もかけて行進した。もっとも郡境での急ごしらえで、近在の遊び人や荒くれを寄せ集めた行列だったから、行儀の良かろうはずはない。道々、旧家やひなの美人に目星をつけておき、夜ともなれば押しかけて、無心をするやら、いいよるやらの勝手放題な振る舞いだったから、評判はすこぶる悪い。じつは、これが新任刺史の手口だった。あいさつ代わりに脅しておいて領民を萎縮させ、はなから抵抗をあきらめさせたうえで、いずれ根こそぎ財物を奪い取ろうとの魂胆だ。抵抗しようものなら、遠慮なく暴力で潰される。

 李遷仕の仕事はじめは、治所の移転だった。高州の旧県城が老廃し、農民も逃散しているのを見て、断行した。工事費は領民の負担だ。役務に動員されても手当ては出ない。

 漠陽江下流の東岸に退き、河べりの砦に柵を張り巡らして新たな高州城とし、濠を掘って城の守りを固めた。これがいまの陽江市の旧城街だ。狭い通りが複雑に入り組んでいるのは、敵の侵攻にたいする防御に重点をおいているためだ。住民の生活の便は、もとより念頭にない。


 陽江の北部に位置する高凉太守馮宝の管轄する陽春は、もともと高州の従属下にある。孫冏を追い落とし、一時的に主客ところをかえていたが、あくまで仮の姿でしかない。李遷仕の赴任にともない、たちまちその支配下に組み込まれてしまい、占拠していた祖先の旧地からの撤退を余儀なくされた。

 高凉の俚人らは心中ひそかに「光復こうふく」を誓い、涙を呑んで兵を引いた。「光復」とは、栄光の復活をいう。「失地を取り戻し、旧業を回復する」ことを誓ったのである。旧業は、いわずと知れた海運業だ。

 県部を含めた陽江の中心部は江城といわれるが、その東西を占めるのが陽東と陽西だ。さらに江城と陽西の境に海陵湾があり、湾を出たさき、江城の南方海上に、南海に浮かぶ孤島、海陵島がある。「海陵」とは、「海の陵墓」を意味する。犬島の異名がある。野生の犬が多数棲息し、板切れや流木に乗って、高州の浜辺に漂着することで知られていた。

 馮宝は、この海陵島を高凉俚人が祖霊を祀る地として高凉郡の飛び地にくわえるよう、陳覇先を通じて朝廷に願い出ている。もと油倉庫番の陳覇先は、武人としては珍しく、算盤勘定のできる人だ。高凉俚人の海人としての技量はすでに知れわたっている。かれらに交易船をもたせ、詔勅によって遠洋航海に従事させれば、密輸取締りや海賊征伐といった余分な公務がなくなるだけでなく、ぎゃくに貿易の利によって、大きな富をもたらす福の神に変化するのだと、蕭映を説いたのだ。広州刺史は眼を輝かせて、話に乗った。朝廷の要路に話をつなぎ、隠密裏に「飛び地」を実現してしまった。

 李遷仕は赴任後にこの密約を知ったが、意に介さなかった。いずれはわがものにしてみせる、との驕りがあったからだ。

 馮宝は冼夫人と図り、高州撤退に先立ち、海人出身の兵士を割いてこの島の守護にあたらせると同時に、ワスケとお玲を残した。港を整備し、外航船の基地とし、さらには大型外洋帆船を建造させたのだ。古代から手つかずの森林資源は、島内に満ちている。船大工などの専門技術者は、葛徳が手配した。作業者には島人を養成してあてた。海の男の伝統を持つ海人の末裔たちだ。「時こそ至れ」、かれらは勇躍して新たな任務に没頭した。若者は古老に学び、外来の技術者に師事した。

 ワスケが叱咤するまでもない。伝統は容易に蘇えった。大型の帆船から小船に至るまで、舟船の数は三桁に近づき、自薦他薦の乗組員や作業者が殺到し、かえって人材の割りふりに頭を悩ませる始末だった。

 新たな高州刺史が任命され赴任するころには、海陵島はすでに海上の一大要塞と化し、新任の刺史の容喙ようかいを許さなかった。つねに島の周囲に巡視船を巡回させ、島への上陸を拒んだのだ。高州の軍船が上陸を企て近づくと、発見した巡視船が波を蹴立てて追い越し、弩弓で大石を投擲して威嚇した。高州側は転覆を恐れ、舳先を返した。

「わしらの水軍は、きのう今日できたものではない。七百年来の伝統に支えられている」

 ワスケが豪語するだけの力を備えた高凉船は、悠然と白い航跡を印して海陵島を守った。


 海陵島は面積百十平方キロあまりの孤島にすぎない。香港島より大きく、伊豆大島をもうひと回りほど膨らませた規模である。香港島とちがい、岩山だらけの島ではない。地味に富み、草木に恵まれた豊饒の島だ。天然水も島のいたるところで湧きだしている。

 もともと千人ほどの島人が地を耕し、自生する木の実や茸を取り、川魚を育てて暮らしていた。舟を操り、海に出て漁をし、南海を自在に移動する伝統は、かれらによって引き継がれていた。そこへワスケやお玲など新たな千人が加わった。新来の人びとが、島に受入れられ溶け込むのに、時間はかからなかった。五穀とともに、島にない珍しい花や果物、絹で織った美しい衣装を持ち込み、分け与えたのだ。鳥や家畜も導入した。綺麗どころを帯同し、太鼓を叩き、笛を鳴らして、舞って見せた。島人は眼を丸くして驚愕した。ワッと大声を出して、踊りの輪に飛び込み、一緒に踊りはじめた。長い間、孤立した閉鎖社会にとつぜんもたらされた新たな文化は、島人の心を一気にひきよせたのだ。

 同時に移ったシロと黄金丸が島中を駆けまわり、短時日のうちに土着の犬たちを手なずけ、したがえた。餌を求めて彷徨するだけの日々をあらため、人間と行動をともにし、安定した生活を守るために、義務を尽くすことを教えたのだ。

 島の端端にそびえる小高い丘に立ち、物見の監視をするのが、かれらの主要な任務だ。侵入者を発見すれば注進におよぶ。警備隊の到着が遅れれば、侵入者にたいし独自に攻撃を開始する。野生とはいえ狼の獰猛さはない。いやしくも神犬盤瓠の末裔だ。人とのつながりは深い。餌を与えてくれる人の保障のもとで、人犬一心同体の本来の性に戻すのに、面倒な手間隙てまひまは要らなかった。

 港として最適の機能をもつのは、島の西南端、いまのザァポ(閘坡こうは)港だ。ちなみに閘は水門、坡は傾斜地の意味がある。港は、入り江がきりたった断崖のうしろに隠れ、表の外海からは見えにくい。入り江の岸壁の水深が深く、外洋船の横付けに便利だったから、台風や津波の避難場所になっていた。守るに易く、攻めるに難い、天然の要害だ。

 往時は海賊船の絶好の寄港地だったが、官兵が駐在した時代には、南洋航路の中継港としてひそかに知られていた。


 陽春への撤退をまえに、馮宝と冼夫人が帆船を仕立てて閘坡の港に立ち寄った。陣中見舞いだ。ワスケとお玲が出迎えた。そのうしろには、にこやかな笑みを浮かべた葛徳が立っていた。人の再会に先立ち、五匹の犬が同志を見出し、荒っぽいあいさつを交わしはじめている。茜と葵が船の接岸を待たず、空を飛んでシロと黄金丸、そしてクロのもとへ駆け寄ったのだ。鼻先で嗅ぎあい、転がってじゃれ、上になり下になりして、久闊を叙している。

「思えば、良き友を得たものよ。かれらも、われらも」

 馮宝が述壊した。

「しかもかれらはそれぞれが、その背後に数百、数千の心をいつにした仲間を擁しています」

 葛徳が応じた。

「われらにも、心を一にした高凉俚人五十万人がおります。しかもその五十万人の生き死にのすべてが、われらの双肩にかかっています。みずからの出処進退、あだおろそかにできません」

 冼夫人が唇を噛みしめて、決意を口にした。

「お英ねえさん、あまり思いつめないでください。高凉俚人五十万人は、もはやしたがうだけの無知の民ではありません。みずからの意志を持つ、自立した人間です」

 高凉の奴隷解放に身をなげうって尽くしたお玲には、かれらの意識の変化が手に取るように理解できる。

「そうさ、天災や戦乱で棄民どうぜんに故里の土地を追われるまえに、みずからの意志で行き場を求め、新たな天地を開拓するだけの勇気と智慧を、かれらはもっている」

 ワスケがお玲を後押しする。

「いまや天下は大乱の兆しに満ちています。遠からず戦火は嶺南にもおよびましょう。かつての南越国は秦の滅亡後、五嶺山脈を盾にし、道をふさぎ、外敵の侵入を食い止めました。嶺南で独立割拠したのです。いま五嶺は四通八達の要衝となり、これを封鎖することは、もはやかないません。高凉俚人五十万人を守る地は、高凉以外には難しい。南は大海に臨むこの海陵島。攻めるも守るも、主導権はわが方にあります。北から西は、雲霧山脈が自然の要害を築いているので、かつて知った要所を抑えれば、敵の侵入を容易に阻むことができます。つまり、高凉俚人を戦火の害から守るには、残る東に備えを集中すればいいのです。策をもってすれば一世代、三十年は持ちこたえることができます」

 葛徳は南朝の崩壊を前提にして、高凉俚人族の自決戦略を立てている。一世代に限定したのは、次世代の判断は、次世代に託したからだ。恐るべき自信に満ちている。

「われらはいま、高州を追われ陽春に戻されるが、陽春には鳳凰堡が健在であり、雲霧山中にはいたるところに仙境がある。いざとなればこれらを桃源郷に見立て、分散して隠れ住み、民族の血統を未来につなぐことが可能だ」

 馮宝の消極論に、ワスケが異を唱える。

「隠れ潜んで孤立するだけの民族に明日はない。ただ生きながらえるのではなく、夢を育み、将来につなげることが大事だ。大海はそれを可能にしてくれる」

 国という枠を超えて、民族を四海に放つのである。四海は東海・西海・南海・北海をいう。すべての世界を意味する。ワスケの思いは四海兄弟、四海同胞のことばに集約される。

「天が下、四海のいたるところに人がいる。兄弟姉妹・はらからのように、分けへだてなく親しむことができれば、狭い山林のなかで逃げ隠れしながら生きることはない」

 冼夫人は大きく首を振って、うなずいた。

「そう、狗郎の民ならできます。神犬盤瓠は人語を解したではありませんか。われらには犬の気持ちが汲みとれます。四海広しといえど、人の気持ちの分からぬ道理はない。心の通じない人なぞ、この世にいない。誠意をもってあたれば、かならず分かりあえます」

「それがなぜこの国のなかでは通用しないのでしょう」

 お玲にはそれが悔しくてならない。

「人の驕りとでも申せましょうか。欲に目のくらんだ人が、この国にはあまりに多い。物欲、金欲、権力欲。はては仏法までも道具にしようとする人の驕りが、道を誤らせている」

 葛徳は道教の方士だが、排他的ではない。儒教・仏教にたいする一定の理解をもっている。どのような宗教であろうが、強制された信仰でさえなければ、認めるにしくはない。

 唾棄すべきは強制であり、それを道具に我欲を満たそうとする亡者どもだ。

「高凉俚人を救うことは、我欲の亡者どもにいたぶられ、虐げられている無力の民を救うことに通じます。桃源郷は夢や幻の象徴であってはなりません。矛盾との戦いのなかで、ひとつずつ築き上げてゆく、未完の根拠地にすべきです」

 葛徳は、断固としていい放った。

「高凉俚人五十万の大半は、やはり高凉を根拠地にして、生きてゆくことになる。おれとお玲さんはこの海陵島を守り、四海へ雄飛する前線基地にする。帆船で南洋から西方を巡航して異国の物産を交易し、高凉に富をもたらす。港々に海の桃源郷を築き、音に聞く、かつての海のシルクロードを再現してみせる。お玲さん、一緒にやってくれるね」

 ワスケの意気込みに、ためらいのそぶりも見せず、お玲がうなずく。

 それを見て、シロが黄金丸に鼻を寄せ、同意を迫る。じりじりとあとずさりした黄金丸は、ワスケの背後に隠れようとするが、たちまちお玲につかまえられる。

「だめよ、黄金丸。ヤマト男児、はっきりしなさい!」

 一喝され、お玲に抱き上げられた黄金丸は、これ幸いと、お玲の顔といわず手といわず、あたりかまわずなめまくる。

「こいつ、お玲さんに横恋慕は許さんぞ」

 手を振り上げておどけるワスケの剣幕に、お玲の腕から飛び降りた黄金丸は逃げ場を失い、とつぜん土間の上で大の字になって寝転ぶふりをする。そのうえにシロが覆いかぶさり、助けようとする。

「わかったわかった」

 ひょうきんさでは人後に落ちないワスケだったが、黄金丸にはかなわない。

「この場は、シロに免じて許してやるが、シロを粗末にしたら、そのときは許さんぞ」

 黄金丸に託したこのひとことは、ワスケからお玲への愛の告白にほかならない。

 妹分のお玲の幸せは、冼夫人の願いでもある。深々とワスケに頭を下げた。

「ワスケさん。母にかわって感謝いたします。どうかお玲を幸せにしてやってください」

「わかっています。ふたりで幸せをつかみます。おれも黄金丸も、もとはといえばクロに助けられた命です。クロの恩は、こののちどこの国にゆこうと、終世忘れません。そして、お英さん、馮宝さん、葛徳さん、あなたたちのこともけっして忘れはいたしません」

 ワスケはいきなり土間に正座し両手をついて、皆に向かって辞儀をした。お玲も横にならんで、ワスケにならった。ヤマトの国の作法だ。


 やがて一同は、夜宴を催した。海のものと山のもの、海陵島の珍味が、ほどよい味つけで山盛りにならべられた。酒もある。俚人部族のありようを語りつくしたあとの静かな宴だ。このうえは実行あるのみ、人も犬も充足感でみちたりていた。

 この夜宴が、五人と五匹が一堂に会するさいごの集まりになった。

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