第11章 失地回復

 雲霧山脈の南麓を開墾し、「鳳凰堡ほうおうとりで」という念願の定住地を確保した高凉太守馮宝と冼夫人は、農業生産のさらなる増収を図り、漠陽江流域一帯の開拓に意欲を燃やして東進した。高凉郡の東境まで自衛軍を進駐させ、屯田体制であたった。郡境を接する高州刺史孫冏軍の不時の侵入に備え、防備のかたわら自給田の開墾に努めたのだ。

 同じころ、交州(いまのベトナム北部)の人李賁りふんは、交州刺史・武林侯蕭諮しょうしのあくなき収奪にたえきれず、武器をとって蜂起した。これに、おなじく搾取に苦しむ土着の駱越らくえつ人らが呼応した。県の官吏を殺害し、交州刺史の治所・龍編城ハノイを攻撃したのだ。一起の群衆は数万人に膨れあがった。

 蕭諮は皇帝の甥にあたる。一揆の群衆をみて、気が動転した。城と軍兵を捨てて、供回りのもの数十騎の人馬で、越州欽江(広西南寧ナンニンの南)に逃げ帰り、急ぎ朝廷に上表した。

「交州で李賁謀叛につき、大軍を派遣し、掃討たまわりたい」

 梁朝は広州刺史蕭暎に詔勅を下し、李賁討伐を指示した。嶺南一帯に激震が走った。

 蕭暎は嶺南各州に出陣命令を下した。西江督護・高要太守陳覇先以下、高州刺史孫冏、新州刺史盧子雄らにたいし、自領の兵をひきいてすみやかに出陣するよう促した。

 ことは交州に留まらない。広州刺史蕭暎の管轄領内でまた、新たな暴乱が発生した。新州で盧一族が叛乱したのだ。新州は広州の西南方向にあり、広州と高州の中間付近にある。まさに広州のお膝元といっていい。

 先年、冼挺が私家軍団をひきい失地回復の戦をしかけたさい、新州刺史盧子雄は、これを返り討ちにして粉砕したまではよかったが、事後の報告を怠っていた。盧子雄にしてみれば祖先いらい二百年来の私的な怨恨による争いだ。私事と割り切り、報告を無視した。広州刺史蕭暎には、じぶんを軽視する態度に映り、少なからず根を持った。

 盧子雄にとって不運だったのは、李賁討伐のための派兵に手間取ったことだ。蕭暎は怒りを隠さず、盧子雄を解任した。出陣が遅れことを理由に刺史の任を解いたのだ。盧子雄は憤死した。

 盧氏軍の宿老らは、ともにその弟盧子略を推して新州の軍政を統べさせたが、かえって蕭暎を逆恨みし、手のひらを返した。西南へ向けるべき刃の先を北東へねじ向けた。広州侵攻を企図し、新州で決起したのだ。

 動きを予見していた西江督護・高要太守陳覇先は、すでに手を打っていた。

 高凉の馮宝と冼夫人に、兵を起こしともに新州の乱を平らげようと、檄を飛ばした。

 満を持して機会を待っていた馮宝、冼夫人は兵をひきいて北進し、新州に攻め入った。かつての賊軍がいまや政府軍の名のもとに、攻守ところをかえて討伐にあたるのだ。まるで勢いが違う。文字どおり破竹の勢いで進撃し、あっという間に新州全域を制圧、ついに龍潭、富林、甘泉の三県を取りもどした。

 冼挺の悲願であった「失地回復」が達成されたのだ。高凉俚人は歓喜に沸いた。

 北側から進攻した陳覇先軍が挟撃し、盧子略を陣中で討ちとった。

 茜と葵が郡境にならび立ち、南側、陽春の方角に向かって、勝利の咆哮をくりかえした。雲霧山脈の要所に散らばり、外敵の侵入に備えていた紅い毛並みや青い毛並みの犬の一群が、その咆哮を引き継ぎ、広く高凉一帯に高らかな歓喜の余韻が響きわたった。


 広州刺史蕭暎の出陣要請に呼応し、孫冏もまた高州各郡に出兵の檄を飛ばしたが、各郡守、県令は土着の族長、峒主だったからとりあわなかった。高凉太守馮宝は、ことさら孫冏の檄令を無視した。過去の争乱のいきさつもあり、孫冏も強制できなかった。

 大都老冼英は、明確に出兵を拒否した。

「駱越はもと同族です。同族をもって、同族を討つ、これは禽獣の所業です。人のとるべき道に外れています」

 俚人も駱越人も、もとはといえば百越族の同根ではないか。駱越人の武装蜂起は、官側の過酷な収奪に原因がある。過去にいくども同じ収奪に泣いてきた俚人大都老は明確に言い切った。

「もはや俚人は奴隷ではない。官のいいなりにはならない」

 ふだんから同族間でのいさかいの絶えない現状を棚に上げて、人としての正論を振りかざしたのだ。これに統治者側の太守が同調した。まさに夫婦の出来レースだ。

「戦闘部隊は派遣しない。ただし糧食の輸送など後方の輜重しちょう支援は惜しまない。軍兵は戦乱の影響が所領内に波及しないよう、郡境に張りつけ、所領の防御に徹する」

 戦闘部隊は派遣せず、領地の専守防衛に努める。よしみを通じた陳覇先の周旋で、蕭暎が認めた。高凉軍は輜重部隊をのみ出動させ、船で漠陽江を下った。

 南海に出て、海路、欽江に向かう。政府軍の名のもとに堂々と軍船を連ね、孫冏の管轄する高州領内を縦断することになる。

 高州刺史孫冏にしてみれば、自領内を土足で蹂躙されるにひとしい。孫冏は自尊心を逆撫でされ、憤怒で顔を紅潮させた。

「高凉俚人の不届きな奴ばらめ、眼にもの見せてくれるわ」

 孫冏は漠陽江の両岸に陣を敷き、高凉軍の帆船を襲撃しようと待ち構えていた。いわば政府軍同士の内戦を敢行しようというのだ。理は高凉側にある。


「どのように迎え撃つのですか」

 帆船を進めるお玲が、ワスケに訊ねた。

「さあて、お犬さまに聞いてもらおうか」

 ワスケがとぼけて答えた。

 四艘の帆船は帆をふくらませて、漠陽江を下っている。シロと黄金丸を筆頭に総勢二百匹、白犬と黄毛犬の軍団が、ところせましと船上にひしめいている。

 黄金丸は舳先に立って、眼を細めて悠然と行く手を眺めている。歴戦の軍師が作戦を練っている風情だ。ちょっかいをかける隙も見いだせず、シロはともに下がり、寂しげにうずくまった。戦を前にして、シロは思春期の想いをもてあましている。

「わたしに影響されているのかしら。だったらごめんねシロ」

 恋に仕事に、いまお玲は充実している。可愛い舌をちょっぴり出して、シロに謝った。


 帆船の川下りにさきがけ、クロをひきつれた葛徳が、単身敵陣領内へ侵入している。侵入の徒次、領内の黒犬を糾合し、孫冏の本陣を目指していた。奇襲部隊だ。

 奴隷解放の噂は、すでに高州にも伝えられている。高州領内の農奴らが鋤や鍬を手に、われもわれもと黒犬軍団のあとにつづいた。


 漠陽江の両岸に高州の軍兵が集結し、高凉の輜重輸送船団の到来を待ちかねていた。両岸から筏を連ねて綱でつなぎ、板をわたして橋をかけた。航行を妨げ、橋上から襲撃する作戦だ。輸送船団が近づいてくる。高波が仮橋を揺らす。バランスを失った高州軍の兵士は、仮橋にしがみついて難を逃れようとする。いきおい、武器から手が離れる。船上の猛犬軍団はその隙に乗じて仮橋に飛び移りざま、兵士に体当たりを食らわし、かれらもろとも水中に転落する。水中では武具をまとった兵士はが悪い。船団を壊滅させるはずが、かえって翻弄される結果となった。筏をつないだ綱はむなしく切り落とされ、兵士を乗せたまま下流へ押し流された。猛犬軍団は、犬掻きで水しぶきを撒き散らして筏に揚がる。さらに、揚がるなりぶるっと身震いをして体中の毛についた水を振るい落とす。その仕草をみて、高州兵は生きた心地もなく、筏の端にかたまって震えるばかりだ。

 帆船上から黄金丸が戦勝の遠吠えを投げかけた。筏上の猛犬軍団が呼応した。

 シロも負けていない。鬱憤のはけ口を敵に求めた。筏が近づくや、率先して水に飛び込み、あとに続いた仲間の一軍とともに筏に駆け上がり、敵兵を威嚇し、吠え立てた。


 高凉太守馮宝と冼夫人のひきいる梁朝の正規軍が、陽春の郡境を越えようとしていた。もはやかつてのゲリラ軍ではない。いまや政府軍として、堂々の出陣なのだ。

 かれらは郡境の嶺に立ち、いまや遅しとばかりに、出撃の下知を待っていた。

 海路、欣州に向かった高凉軍の輜重輸送船が、高州の漠陽江を航行中、高州の官兵によって襲撃された。一報を受けた西江督護・高要太守陳覇先は、ただちに高凉太守馮宝に高州討伐を命じ、輸送船の救助に向かわせたのだ。

 郡境では、多くの屯田兵が農具を武器に持ち替え、出撃に備えていた。新設の高州は、高凉俚人にとって、先祖の魂が眠る霊地だ。もともとじぶんたちの故地なのだ。

 太古のむかしから、高凉俚人は漠陽江の両岸に広がる沿海平原で狩猟し、耕作してきた。家を建て、子を生み育ててきた。沿海平原は地味豊かな、恵みの大地だった。

 漠陽江を下ると南海に出る。南海は大自然の宝庫だ。魚や貝を取り、海水を掬って塩を作る。丸木船の時代から、高凉の海人は海に出た。やがて丸木舟は帆船にかわり、海人は地平線の果てまで航行した。持ち帰った異国の宝物は、無限の財をもたらした。

 高凉俚人が海を奪われ、恵みの大地を追われてから、どのくらいになるだろう。陽春を仮の本拠地に定めてから、まだ日は浅い。息を潜めて雲霧山中に棲んだ日々が、昨日のことのように思い起こされる。

 冼英は深い感慨を込めて、「狗頭人身」の旗印を見やった。

 陳覇先からの出撃の下知をしらせる烽火が、雲霧山脈の峰を伝って馮宝に届いた。

 馮宝の軍配がひるがえった。

「いざ、出撃!」

 高凉軍は、「狗頭人身」の旗印を先頭に立てて、高州領内に踏み入った。

 茜と葵の犬軍団が先導した。そのあとを高凉正規軍が整然と行進した。

 高州軍の本隊は、すでに崩壊していた。

 かつて高凉の宿賊と恐れられ、また蔑まれた同じ高凉軍が、いまは朝廷の正規軍となって故地へ凱旋したのだった。

 冼英の眼に涙が滲んだ。瞼の裏に父のいかつい顔が、母の丸い笑顔が浮かんだ。涙の内側に兄の顔がぼやけて映った。若き日の兄、優しかった兄、憧れだった兄――

 涙が頬を伝った。馮宝が手を差し伸べ、涙を拭ってくれた。


「帰ってきた! 戻って来たのだ! 万歳ワンソイ万歳ワンソイ万々歳ワンワンソイ

 冼英は万歳、万歳と、なんども叫んでいた。

 高凉軍兵がこれに呼応した。

 やがて万歳の掛け声は風に乗って前方からも流れてきた。行く先々で、高州領内の人びとが手を叩き、声をらして、同胞を迎え入れてくれたのだ。

 占領された地に残された高凉俚人も多い。かれらはいま、心をひとつにしている。

 戦場のあちこちで、高州兵が武器を捨てて投降している。投降兵のなかに身内を見出した高凉兵が、大声で駆け寄った。俚人は一体となって合流した。

 葛徳の奇襲攻撃で惨敗した高州刺史孫冏をはじめとする外地兵は、算を乱して逃走した。黒犬軍団がこれを追い立て、高州東の郡境から追い出した。

 高州は高凉俚人の手に戻った。

 北と南で、失地を奪回した高凉俚人は、みずからの領域に部族の旗「狗頭人身」を掲げ、高凉の界域を明確にした。

 内戦を企て敗れた孫冏は広州に送られ、死罪に処された。








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