第9章 夫婦裁き
一方、馮宝の側にも、冼氏一族に頼らなければならない、せっぱつまった事情があった。
馮宝は馮宝で、悩みもすれば、迷いもしていた。己が一族の行く末に心を労し、また己が進むべき道を模索していた。
しかし現実は楽観を許さなかった。元来、馮氏一族は、部曲の結束は固くとも力量感に欠ける。羅州刺史とはいえ、領土とは名ばかりで、父の代までは虚名にすぎず、あいかわらず仮寓の生活を強いられていた。このままでは、先行きが案じられ、祖先にあわす顔がない。このときにあたり、幸いにも高凉太守を拝命した。これを転機に再起をはかりたい。そのためには、まず俚人部族の力を借り、地元で大きく勢力を伸張させることだ。その協力相手として冼氏一族なら願ってもない。先方が大都老を失い官軍に攻められ、進退に窮しているいまなら、互角とはいえぬまでも四分六で手を結べるのではないか。
さらにじぶんは三十五になるこんにちまで、父が健在であったためずっと部屋住みで、無役のまま過ごしてきた。妻帯する資格がなかったのだが、これを
表向き涼しい顔をみせてはいたが、腹のなかではさまざまな想念が忙しく葛藤していた。
馮宝はあらためて冼英を見据えた。
美人という表現はあたらないが、南方系の顔立ちで、目も鼻も顔もまるく、円満そのものだ。ひと目みて、愛らしさがあり、親しみが湧く。なにより包容力が感じられ、組織者、統率者としての基本条件にかなっている。人のうえに立つ太守夫人としては、申し分ない。漢人社会においても容易に受入れられるタイプだ。
馮宝は、みずから納得して黙礼した。あわてて冼英も礼を返した。
部屋の入り口にたたずんで、ふたりのやり取りを不思議そうに見ていた茜と葵も主人にならい、たがいの肩を下げて礼をする仕草をみせた。
冼挺は両家の聯婚に合意した。そして、じぶんは南梁州刺史のつとめに専念することを理由に、高凉俚人の大都老職を冼英にゆずったのだ。冼英は固辞した。しかし族人は承知しない。さきの抵抗戦で実力は知れわたっている。ぜひとも冼英に領導していただきたいと懇請した。部族の長老が説得を買ってでた。
さいごに冼英は大都老職をひきうけた。いわば女酋長の誕生だ。二重の果報に、嶺南高凉の俚人部族は沸きかえった。
冼英と馮宝の聯婚は、嶺南高凉の漢俚を挙げての大式典となった。
ふたりの結びつきは、北方から南遷した漢人と土着の俚人とが、日ましに親しくなってゆく時勢に順応したものだった。馮氏が遵奉する儒家文化と冼氏の伝統的な俚人文化の融合が基礎となっていた。「漢俚融合」である。ふたりは、当時の最新流行にのって両民族から祝福された。
しかし、いちばん喜んでもらいたい両親は、すでに亡くなっている。
大都老を継ぎ、高凉俚人の生死の責任を一身に託された冼英は、あらためてその責任の重大さを思い知らされ、いまさらながら父の遺訓を胸に切り刻んだ。
「なんとしても、われらが俚人を救うのだ!」
馮家との聯婚は、その手段にすぎない。しかもまだはじまったばかりだ。俚人たちの祝福する笑顔の下に、明日の不安が隠されている。
――命を賭けて、わたしが高凉俚人を救う!
冼英は祝福を受ける笑顔のうちに秘めた決意を、亡父に誓った。
お玲とワスケがふたりに花束を渡した。
お玲もワスケも異国人だ。「漢俚融合」を超える善隣外交の象徴として、花束を渡す役にふさわしい。
「こんどはおれたちの番だ」
ワスケがお玲の耳元でささやいた。お玲は、はにかんだ顔をほのかに
シロと黄金丸が冼英の花嫁衣裳の裾をくわえて、新郎新婦にしたがっていた。
赤い絹布で覆われた冼英の顔は、外からは見えない。
「おまえも、幸せになるんだよ」
――わたしだって、幸せになりたい。助けて、おかあさん!
被り物の内側で、お英は亡き母に本音ですがった。
そのころ葛徳は、聯婚の宴席にはほど遠い、高要の西江軍陣営にいた。
対座する相手の陳覇先は、新任の高要太守・西江督撫だ。
「今宵は馮・冼両家聯婚の夜宴であろうに、おぬし席をはずしたのか」
「世捨て人の方士には、そぐわぬ場とて、勝手させていただきました」
膝の上に乗せたクロの頭を撫でながら、葛徳は無造作にいい放った。クロは眼を細めて、されるにまかせている。ときおり耳だけを、ピクピク動かせているのをみれば、けっして警戒は怠っていない。
「その若さで、いったいどこが世捨て人なものか。おぬしの
「おからかいを」
葛徳は自嘲の笑みを浮かべ、ぎゃくに陳覇先に問うた。
「あなたこそいずれは中原に出て梁王朝の名門貴顕の堕落腐敗を根絶し、殿上に侍る無能の寵臣にかわるべき有能大才のお方。さればこそ大業成就の暁には、嶺南を中原に従属させるいまの方策をあらため、独自に発展できる自由の地としてこの嶺南を、解き放っていただきたいものです」
「独立割拠が望みか、かつての南越国のように」
「いえ、自由闊達な統治が許されるなら、形式にはこだわりません」
「名のみの
陳覇先、こののち南朝さいごの王朝陳国を建てる陳武帝だ。もっとも卑賤の出自で、いまはまだ国都をはるかに離れた僻地の一武官にすぎないから、将来のことなぞ思いもよらない。ましてや現実主義の陳覇先には、夢を喰う趣味はない。ただこの葛徳が嶺南の俚族を一体化し、いずれ自分が中原に逆流するさいの後方支援部隊として大きく寄与してくれることを期待して、協力は約束している。
馮宝・冼英の隠れた庇護者といっていい。
冼家の仇敵孫冏が、高州刺史として新設の高州の一郭(いまの陽江市域)に治所を置いて駐在している。高凉を包括する高州は、高凉太守馮宝の任地陽江郡域の陽春と南北に境を接している。
冼英と馮宝は、孫冏の執拗さを警戒し、戦の再発に備えていた。
成婚後、高凉俚人の人びとは、ふたりを天の配剤した一対の「
両村の奥地には、二十八ヶ所の石洞岩窟があり、いざというときの退避壕となる。熱帯雨林の樹木が、洞窟を隠してくれる。馮、冼夫婦はここに兵を駐屯させ調練し、糧秣を貯えた。敵が潜入してもここまでは踏み込ませない。複雑な地形を利用し、さまざまな防御の仕掛けを巧みに施したのだ。
冼英は俚人部族を代表し、南朝梁の支配下に属し、朝廷の命令に服することを宣言した。
「高凉俚人のわたしたち部族は、これより梁王朝の名のもとに、高凉太守の指示にしたがうことを誓います」
その明確な誓いを受けて、高凉太守馮宝は地方行政の執務に着手した。政令を公告、周知させ、賦税の徴収を実行した。政令の違反者や不服者にたいしては審判をおこない、裁きを下すのだ。
漢人の地方官が「号令を下しても」、黙ってしたがう土地柄ではない。
冼英はみずから馮宝と並んで、審判の座にすわった。大都老―女酋長が、法を犯した俚人を、南朝梁の法によって裁くのだ。俚人は喜んで判決にしたがった。
文字どおりの「
冼英は高凉太守夫人、あるいは冼夫人と呼ばれた。
かの女は、馮宝を助けて協同で高凉をおさめたが、俚人の大都老としては、俚人の考えや要求に基づいて俚人側の利益を優先せざるを得ず、俚人に不利益なことの実行はためらわれた。しかし太守夫人としては俚人側の利益にばかりこだわっているわけにはゆかない。やはり朝廷の側にも立って政策や法令を通達し、漢民族の側との関係にも配慮しなければならなかった。徐々にではあるが、冼夫人の視線は、自民族の狭い範囲だけに捉われるのではなく、局面全体に向けられるようになり、政府の政令を完全に実施できるように変化していった。
馮宝は高凉で教育事業に力をいれ、儒家の仁・義・礼・智・信の倫理道徳観にもとづき俚人を教化した。漢族の礼儀・習俗の浸透につとめ、善行をすすめ、信義を説き、国家への忠誠を求めた。俚漢の通婚を奨励し、民族間の隔たりを打破し、平等の意識を植付けた。
冼夫人自身が模範的なモデルになった。冼夫人は率先してみずからの思想や行動のなかにこれらの教義を取り入れた。俚人はそれをみてまねるだけでよかった。漢化教育の成果は、俚人の日常生活に反映した。
その過程で、俚人部族のなかにおける馮宝の威望が深まった。族人は馮宝を「都老」と呼んで敬った。冼英とともに出廷すると、
「馮都老のおなりじゃ」
聴衆は、歓呼して迎えた。
このころのものと思われる裁判説話がある。
働き手の貴重な耕牛が死んださいの、損害賠償の責任についての判決だ。
高凉の山間部の麓に
ある日、兄弟両家の雄牛がとつぜん山上で喧嘩をはじめ、兄側の雄牛が弟側の雄牛に崖下へ突き落とされ、打ちどころが悪くて、死んでしまった。これを知った兄は、一家総出で駆けつけ、死んだ牛をかき抱いて大声で泣いた。それはいまにも憤死するのではないかというほどの嘆きようだった。それも無理はない。この牛は耕作に欠かせない、一家の命をつなぐたいせつな牛だったのだ。ひとしきり大声をあげて泣いたあと、こんどは怒りまくって家のものをつれ、弟の家へ怒鳴り込んだ。弟を呼んで決着をつけなければならない。
「牛一頭、弁償しろ」
しかし弟もまけていない。兄に向かっていい返した。
「牛同士がぶつかり合ったことで、人間は関係ない。あんたの牛が自分でかってに崖から落ちて死んだんじゃないか。おれにいったいなんの関係がある」
「そうか、おまえに関係がないというなら、牛に聞いてやろうじゃないか」
そういうと弟の牛を引っぱっていこうとした。弟が黙って指をくわえてみているものか。これを実力で阻止しようとしてもみあった。両家の人びとは、牛の獲りあいになり、たちまち野次馬が大勢とりまき、現場は騒然とした。
野次馬の意見もまちまちだった。
「弟が兄に牛を弁償すべきだ」
というものもいれば、
「牛になにが分かる。畜生同士が争って死んだのは天命だ。あにきは不運とあきらめるよりしかたないだろう」
というものもいる。
兄弟双方は、一家ぐるみで狂ったように争い、たがいに頑として譲ろうとしなかった。ほどなく騒ぎは大首領の冼挺家へ持ち込まれた。ところが冼挺は、よく考えもしないで
祝家の兄にいった。
「訴えはよく分かった。おまえら、もうこれ以上騒ぐな。死んだものは生き返らない。皮をはいでいくらになるか、肉を売って金にした分だけであきらめろ」
肉を売っても、牛を買い換える金にはほど遠い。これであきらめろとは、死ねというに
ひとしい。祝家の兄はあせった。しかしあせってみてもどうしようもない。なにせ相手は大首領だ。しかたなく、一家揃って冼邸の門前で、大声あげて泣き叫んだ。
冼挺の和解案では承服できない。納得できる解決策を求めて、祝家の兄は、高凉太守馮宝に訴えでた。
しかし提訴のまえに冼挺がすでに和解案をだしてしまっている。冼挺の
お裁きは県治の廟堂でおこなわれる。裁きの庭に兄弟ふたりが出廷した。冼挺が後見役でうしろに控えた。族人聴衆がおおぜい集まり、いまや遅しと判決の宣告をまった。
高凉太守馮宝は判決をいいわたした。
「本件は、南梁州刺史冼挺どののお取りなしがあり、祝家兄弟両名納得のうえ、お取り下げにあいなった。よってこれにて閉廷する」
これでは、聴衆は納得しない。場所をかえて冼夫人が説明した。
「耕牛は農家の命です。牛がいなければ田は耕せません。耕せなければ生活が成り立ちません。牛に両家の人びとの命がかかっているのです。祝家の兄弟は、それぞれの家でたいせつに耕牛を養い育てる義務があります。大事な牛に喧嘩などさせない管理責任があるのです。こんかい二頭の牛が喧嘩して、不幸にも一頭が死にました。この責任は、兄弟双方にあります。したがって損失も両家で分け合っていただきます。生き残った牛は両家で養い、両家で交互に耕作に使いなさい。死んだ牛の肉は両家で等分に分け合いなさい。喧嘩両成敗、これが和解案です。どう思いますか」
祝家兄弟は冼夫人の和解案に同意した。周囲の人たちも納得した。両家の人びとは心から敬服し、全員が承服した。
「和解案どおりにおこないます」
周囲の人たちは拍手して称賛した。
「冼夫人の案は公平で理にかなったものだ」
冼夫人は祝家の人たちに、
「親戚同士仲良く協力し合って、家が成り立つように働いてください」
と励ました。兄弟は心のそこから冼夫人の教えをうけいれた。
こののち、祝家の兄弟はともに助け合い、協同で田畑を耕し、喜んで働いた。数年のうちにたちまち牛は頭数を増した。収穫が増えて蓄えが残り、両家は繁栄した。
冼夫人は大都老職をついだのち、俚人部族の村落を平穏に保ちつつ、より発展させるため、俚人の意識改革に着手した。
「梁朝に帰順した以上、国に忠誠を誓い、賦税の徴収に応じなければなりません。仕事に尽力し、信義を本分として、みだりに争わず、たがいに善行をほどこすよう努めてください。過去、俚人部族は部落同士でいがみ合い、武器をとって相争うことが習慣になっていました。これまで俚人の村落は、地方官の命令に反抗し、賦税の徴収に応じませんでした。部族の首領は、族人をひきいて海で暴れ、海賊行為におよんだことがたびたびありました。付近の郡を襲っては、物資を強奪し奴隷を捕えていたこともありました。その結果、わたしたち高凉の俚人は、朝廷から『高凉の宿賊』と呼ばれ、たえず討伐の兵をさしむけられ、厳しい懲罰を受けてきたのです」
容易に拭い去ることのできない過去の悪しき歴史を脱却し、二度とくりかえしてはならない。そのためには、俚人の意識を変革する以外にない。
その先鞭をつけるには、まさに冼挺からはじめることこそ、ふさわしい。
冼夫人は俚人側の代表として、まず兄の説得から試みた。
「恨みを解き、報復の戦をやめること。このふたつをすべての高涼俚人のまえで誓ってください。さすれば、その誓いをもって過去の『海賊行為』を帳消しにするよう、高凉太守が朝廷に働きかけます。冼氏に背信した俚人の峒主や族長にたいする復讐はこれきりにし、報復を打ち切ります。孫冏と盧子雄への私的恨みを解き、大都老の父らを騙し討ちにした非道な行為については、あらためて朝廷に告訴します」
冼夫人はひっしの思いで、兄冼挺を説得した。
過去の帳消しとは、虫のいい要求にも見えるが、朝廷側にも非はある。俚人狩りなど恣意的で不当な征討行為ではなかったか。しかし、非は非として、双方たがいに、これ以上蒸し返さない。
「いいだろう。認める。朝廷に掛け合ってくれ」
意外にも冼挺は、あっさりとこの説得をのんだ。
難攻不落と思われた難関が、真っ先に落ちた。これに勢いを得て、冼夫人は俚人のあいだを、精力的に奔りまわった。
争いの絶えない部族同士のいさかいをやめさせるために奔走したのだ。
人を尊重し、人を信じ、人に善をほどこすことを勧めた。
「情けは人のためならず」――人にほどこした情けや善行は、いつかかならずじぶんに返ってくる。人を信じれば、人もまたじぶんを信じてくれる。
信義を本分として、部落間の不信やわだかまりを捨て去るよう、みずから乗り出して説得した。争いをやめない部落には、経済援助を条件に和解するよう調整や仲裁を買ってでた。その一方で、他部族への掠奪行為を止めない愚かで野蛮な部族にたいしては、正規の官兵を繰りだして討伐した。
もはや私的な争いではない。公の立場に立った仁義(仁愛と正義)の聖戦なのだ。冼夫人は人びとの信頼と敬意をかちとった。
海南島一千余洞の島民さえもが、冼英の勇名を慕い、帰順を願いでた。
南梁州刺史の冼挺は、粗野で非文化的な、ただの野蛮人ではなかった。儒家思想に裏打ちされた、そこそこの文化的レベルは備えていた。朝廷に帰順することの意義も理解でき、不法行為にたいする処罰の厳格さも分かっていた。
そもそも南梁州刺史の官位は、朝廷から賜ったもので、この官位をうけた以上、朝廷に忠誠を誓い、臣従の姿勢を示すのは当然のことだ。
表面だけの臣従が許されるはずもない。実質で示さなければならない。私軍を解体し、官軍に編入させるのだ。
まもなく、「恨みを解き、報復の戦をやめる」宣誓式が、高凉太守主宰のもとで、おこなわれた。冼挺は、多くの高涼俚人のまえで、堂々と胸を張って誓った。俚人たちは歓呼して喜んで受け止めた。
しかし冼挺は、私軍の解体には応じようとしなかった。
かつての南梁ゲリラの実戦部隊は、高凉俚人冼一族直属の親衛隊として温存していた。
「失地回復」の悲願達成のためだ。
歴史的にみると冼氏の故地は漢代の高凉郡で、県部をふくむいまの陽江一帯をさす、ということはすでに述べた。もと俚人征討軍主将の孫冏が刺史として統治する新設の高州こそ、江城といわれる陽江の中心部で、回復すべき冼氏の故地なのだ。
「高凉すべてを返せ」とは、冼氏一族の総領としては喉元まで出掛かっている本音だが、明言するには、さすがに憚りがある。漢代いらい七百年もの時の経過は、すでに過去の歴史が洗い流しており、いかにも現実味に欠ける。
それにくらべれば、この百年のあいだに不当に剥奪された旧領の奪回なら、まだしも合理的な要求で、大方の支持を得られるという思い込みがある。高凉の北に接する新寧郡の南境がそれにあたる。
「この戦いは、新たに新州刺史に横すべりした盧子雄にたいする復讐の戦いではない。『失地回復』という正当な要求にもとづく正義の戦いである」
南朝宋・斉・梁の三代、俚人討伐の戦が終るつど、高凉俚人の居住地は侵略され、朝廷によって強奪された。冼挺の悲願は、これら高凉俚人の旧地回復にあった。新寧郡の南境にある龍潭、富林、甘泉などがまさにそれだった。梁朝は新寧郡を再編成し、新設した新州の刺史には盧子雄をあてた。新旧問わず、かれの管轄地であることにかわりはない。
孫冏といい、この盧子雄といい、いずれも先の戦でこっぴどく叩き伏せた相手だったが、朝廷の要路に根強いうしろ盾をもち、いつのまにか復活を果たしている。冼挺にしてみれば、歯ぎしりする思いだった。
仇敵にたいする復讐と旧地の奪回、一石二鳥の思惑が先行した。明らかに、冷静な判断を欠いていた。「勝てば官軍」とばかりに、冼挺は前言を翻し、私兵をひきい郡境を越え、一方的な決戦におよんだのだ。
「恨みを解き、戦をやめる」、この確約にもとづき、すでに馮宝は朝廷工作をはじめていた。違約は、ひとり冼氏のみならず、俚人全体の信頼性にかかわってくる。馮宝と冼夫人は、無謀な戦をやめるよう、冼挺を諌めた。
しかし冼挺は忠告を無視し、私家軍団だけで進撃した。
ほとんど依怙地になっていたのかもしれなかった。その結果、郡境でおきた緒戦で敗退し、みずからも重傷を負ってしまった。
かれは完全に時代を読み違えていた。かつて山中のゲリラ戦で不敗を誇った冼挺の実戦部隊も、もはや戦いに倦んでいた。旧地の回復は、戦の大義にならず、名分が立たなかった。むしろ冼夫人との盟約に違背したことの引け目が、士気を低下させ、敗戦を早める結果になった。
冼挺軍は再起不能なまでに叩きのめされ、粉砕したのだった。
この戦が終ってまもなく、鳳凰山
冼挺は冼英に大都老の職はゆずったが、「旗鼓の大権」までは渡していなかった。「旗鼓」とは、冼氏の祖先伝来の大旗と銅鼓のことだ。これを持つものが大都老の大権を引き継ぐしきたりなのだ。
かれは負傷した身に鞭打って、あえて「旗鼓の大権」を相続する大会を主宰した。冼氏一族挙げて馮宝と冼夫人に全権を委ねる道を選び、公表したのだ。余命が尽きるのを悟ったのであろう。
「旗鼓の大権」を馮宝、冼英に渡したあと、冼挺はまもなく亡くなった。
「失地回復」に名を借り、冼挺は戦を起こしてしまった。朝廷との約定に違背したのだ。「過去の帳消し」の内諾は、
いつ、あらためて遡及されるか。その恐れが死を早めた、といえなくもない。
しかし、馮宝の朝廷工作は功を奏した。陳覇先の後押しもあったが、冼挺の死とともに、「獄門送り」は沙汰止みとなったのだった。
いわば冼挺は、みずからの死をもって、一族の「獄門送り」容疑者への罪の遡及に蓋をした、といっていい。汚名はじぶんひとりでかぶる、との覚悟が死後、火の玉となって朝廷を揺り動かし、訴追を断念させたのだ。
これ以後、「高凉の宿賊」は、歴史用語となる。
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