第8章 安住の地 

 うっとうしい日がつづいている。つねになく雨季が長い。川が溢れんばかりに水かさを増し、音を立てて流れている。

「気のせいだ」

 お玲はいう。かの女はさっぱりした気性で、ことばに嘘や飾りがない。

「いつもの年とおんなじさ。あえて違うと感じるのは、自分の気持ちが落ち着かないからだろう。ね、お英ねえさん」

 血こそつながっていないが、たがいに実の姉妹よりも相手を思いやっている。思いやりが高じて、ついでによけいなひとことがはいる。本音といったほうがいい。

「おんなは二十を越えると世間の目が気になるというから、ねえさん自身で、そろそろ決着をつけたらいい。戦も終ったことだし、だれはばかることなく、将来のこと考えてみたらどう」

「なにさ、あなたこそどうなのよ。喧嘩ばかりしているように見えるけど、ほんとは、ワスケさんのこと、好きなんでしょう」

「ごまかさないで。わたしなんかのことじゃなくて、おねえさん自身のことだっていってるでしょ。おねえさんが先にお嫁に行ってくれなきゃ、わたしも行けないんだから」

 ちょっぴり頬を染めたお玲だが、きょうは負けていない。


 冼英に、結婚話がもちあがっている。相手は高凉太守馮宝ふうほうだ。

 馮宝は北方から南遷してきた漢人であり、冼英は南梁州刺史冼挺のいもうとで、高凉の俚人をたばねる立場にある。

 政略結婚に違いなかった。大げさな利権には直接結びつかないものの、両家とも足らない部分を補填しあい、現状の勢力を保持し発展させるためには、またとない良縁といえた。

 往時、これを聯婚れんこんとも聯姻れんいんともいった。文字どおり家同士の婚姻で、冼、馮両氏の政治的、軍事的連合を意味した。もと羅州刺史馮融が冼英の評判を聞き、子息馮宝のために高凉山に上り、冼氏部族の本家筋に求婚の意思表示をおこなった。ふつうは媒介を立てて賑々にぎにぎしくおこなうものだが、戦時でもあり、冼家の喪の明けるのをまって、馮融がじかに冼一族の本家を訪れ、冼馮両家の聯婚をもちかけてきたのだ。


 高凉俚人征討軍の解体後、梁朝は広州と交州の一部の領土を分けて、高州を新設した。治所を漠陽江の下流西岸の地(いまの陽江市の一部)に設け、もと俚人征討軍主将の孫冏を高州刺史とした。

 さらに俚人を懐柔するために、高州三郡の地を分けて南梁州を設け、冼挺を南梁州刺史とし、治所はいまの陽春市の西側に置いた。陳覇先のとりなしで、帰順した高凉俚人冼氏一族を梁朝に取り込んだのだ。雲霧山脈の南麓から山中にかけての一帯は、俚人の首領冼挺が実勢支配する地域だ。その地は漠陽江平原の西、雲霧山脈の南に位置し、「山がはりのように見える」ところから「南梁州」と命名された。

 羅州刺史の馮融は老齢を理由に職を辞し、代って一子馮宝が高凉太守に抜擢された。これも陳覇先の指図による。遠からず冼挺は、馮宝に合流することになっている。


 ――どんなやつだろう。

 おとこまさりで、負けん気が強い冼英だ。好奇心が湧いてきた。お玲を誘って相手の馮宝をのぞきにゆくことにした。呼びもしないのに茜がついてきた。

 なにかの兆候を敏感に嗅ぎ取ったらしい。かえってシロは伸ばした前足のうえに首を乗せたまま動こうとせず、興味なさそうに見送った。シロは思春期にあたる。ものうげな態度は、青春の懊悩を反映していた。

 そのころ冼英は、雲霧山脈南面の東側ふもとの開墾地で農耕作に精を出していた。そのさなか、つかの間の探索行だった。

 馮宝のいる羅州県は近い。新たな任地へはまだ出立まえと聞いている。

 むかし、たがいの村落は郡を隔てて隣りあっていたことがある。大人の行き来はあっても、こども同士で遊んだ記憶はない。むずかしい書物を暗記し、笑顔ひとつみせようとしない貴族の子弟に、ひたすら遊びまわっているだけの土豪の子が、気後れしたものであろうか。そんなことなどを回想しているまに、あっけなく到着した。

 のぞくほどのことはない。村の入り口で、馮宝本人とあおいが出迎えていた。お玲が人を使って連絡したらしい。いつのまにかお玲も逃げてしまっていた。

「あら、この犬はあなたの犬ですか。このまえの戦では、たいそうなお働きでしたが」

 冼英がはじめて葵を見たのは、孫冏と争った戦場でだった。蒼い眼と青い毛並みで、骨格の引き締まった大型犬である。

「ええ、狼の血筋を引く北方系の猟犬です。走ると早いですよ。行ったきり二、三日帰ってこないこともあります。この犬の祖先は、北の雪原でそりを引いていました」

 犬の話題ではじまり、初対面のぎこちなさが薄まった。

「兄の話では、仲裁の場に葛徳さんもご一緒だったということですが、だとすると、あなたは葛徳さんとは、以前からのお知り合いですか」

「はい、陳覇先さまを介して、むかしから存じ上げています。歳はわたしより若いが、友でもあり、師でもあります」

「陳覇先さまとは、新たに高要太守・西江督撫となられたお方ですね」

 冼英は緊張を解いた。一族が信仰する羅浮山の方士葛徳が関与しているのなら、馮宝の人となりを、むやみに詮索する必要はない。

 案内されるまま、冼英はひとり馮宝にしたがった。

 茜は葵と一緒に、入り口付近でとどまっている。この二匹は、もはやだれはばかることのない戦友同士だった。無遠慮に嗅ぎあって、久闊を叙している風情だ。

「冼英どの。このたびのこと、かたじけない。当方から正式に伺うべきところ、直接お越しいただき、恐縮にござる」

 律儀な挨拶に、悪い気はしなかった。こども時代に遠くから見かけたことはあったが、声を交わしたことはない。初対面といっていい。端正な顔立ちで、名家の血統といった品の良さが感じられる。

「いえ、ごようすを伺いにきたまで。お気になさらずとも結構です」

 ふだん着のままで化粧もしていない。汚れたつめを袖のうちに隠して、そしらぬふうを装った。

「良い機会ですので、それがしの出自について申し述べておきたいのですが、よろしいか」

 案内された屋敷内の馮宝の書斎には、四書五経などの書物が山と積まれてある。冼英らがこどものころ、かれら馮氏一族の子弟が書経を朗誦する声や弦歌雅曲の音は、郡境にまで届いたものだ。意味はわからぬものの、その声によって冼氏の民は漢文化に接し、知らず知らずのうちに感化されていたのだ。もっとも冼英は、幼少から父や兄について武術を修練し、兵略を学んでいたから、漢文化にたいする免疫はある。

 かの女は、書物の山と、手ずから茶を淹れてくれる馮宝の横顔とを交互に見やった。学者タイプのきまじめで、律儀な人がらに思えた。

 うながされてひとくち茶を啜った、ほどよい熱さが、のど越しにここちよかった。人の

気持ちが汲めるやさしさを、一杯の茶がしめしていた。

 ――この人とならやってゆける。

 冼英には、そんな予感がした。


 冼英の気持ちをよそに、馮宝は己が馮氏一族の系譜について説明した。

 いいわけめくが、以下の発言は当時の名乗りを前提とした。元来、中国の国名には同名のものが多く紛らわしいので、後世の史家は、これに前後、あるいは東西南北などの区別をつけて表示した。前漢・後漢(中国では西漢・東漢)、北宋・南宋などがその代表例だ。いうまでもなくその当時の名乗りは、あくまでただの漢であり、宋である。

「わたしは、燕国王馮弘ふうこうの後裔にして、梁朝のもと羅州刺史馮融の一子で馮宝です。わが馮氏の原籍は、遠く北のかた、黄河中流にある陝西せんせいの始平郡(咸陽かんよう付近)と伝えられています。それが、いつのころにか燕国に帰順し、一族あげて河北へ移りました。祖先はかつて燕国の征北大将軍に任じられ、遼西地域を攻略したこともあります。やがて燕国が没落し、中衛将軍馮跋ふうばつは遼西の龍城(いまの遼寧省朝陽市)を占拠、自立して燕国王となりました。その後、王位をついだ馮氏族譜二十九世の祖につらなる馮弘にいたり、領土は遼西から直接、遼東の高麗国(いまの北朝鮮)境界に達したといいます」

 西晋末年から東晋の朝代にかけて、中国北方にあい前後して十六の地方割拠政権が出現した。史上、五胡十六国という。この時代、燕国だけで、前燕・後燕・西燕・南燕・北燕の多岐にわたる。もっとも西燕はあまりに短命だったので十六国にはふくめない。

 五世紀のはじめ、後燕の中衛将軍馮跋は後燕を滅ぼし、みずから北燕国を建てた。やがて馮跋は亡くなり、その弟の馮弘が位をついだ。その当時、強大な北魏は、中国の北方を統一する戦争を展開していた。

 馮弘の在位六年に、北魏国太武帝拓跋燾興たくばつとうこうが兵を挙げ、龍城を攻略した。北燕国は領土をことごとく失い、馮弘は部曲(一族郎党)八百人をひきいて、高麗国王のもとに身をよせた。北魏の皇帝は兵を高麗国境界に駐屯させ、詔書を持たせた使者を派遣した。

「ただちに馮弘宗族一門を魏国に送り返せ。さもなくば、大軍で高麗国に攻め入り、その罪を裁くことになる」

 高麗国王に誡告した。

 いまはこれまでと馮弘は観念し、一子馮業に説いてきかせた。

「馮氏は国敗れ、家は潰えた。わしは自裁し国に殉ずる。それが本分というものであろう。いま中原にあっては南北双方に朝廷が分立し、互いに覇権を競っているが、中華の正統はあくまで南朝にある。なんじはわが部曲三百人をひきつれ、船で海に出て、南朝を頼るがよい。そこにおいて、わが始平馮氏の血統を、いつまでも保ちつづけてくれ。将来、天下一統のおりは、ふたたび故郷へ帰還し、一族郎党こぞってあいまみえようぞ」

 馮業に後事を託し、馮弘は剣を抜いて自刎して果てた。

 馮業は宗族部曲三百人あまりをひきつれ、急遽、船を仕立てて海へ出た。残る五百人あまりは高麗に留め、北魏へ返した。各々に生きる道を選択させたのだ。

 艱難辛苦の末、馮業の一群三百人の亡命船は、南朝宋の嶺南にたどり着いた。

 当時、まさに宋武帝劉裕の開国のはじめにあたっていたが、劉裕は在位三年であっけなく逝去し、二代目も二年で亡くなった。文帝劉義隆は年少で皇帝の位を得、年号を元嘉とあらためたが、王朝の前途は多難だった。

 南朝宋は北方から遠路帰順した北燕の王族馮業の一族郎党を、さしあたり広州新会郡に仮居住させた。新会はいまの江門、広州の南七十キロに位置する。馮業は、広東に南遷移住した馮氏一族の開祖となった。


 この時代、南朝宋の鎮南将軍檀道済が兵をひきいて高凉地域一帯の俚人を征伐した。宋の文帝は馮業を懐化侯・羅州刺史に封じ、三百の部曲をひきつれ、新たに建設した石城(いまの化州)に進駐し、羅州を建てるよう詔勅を下した。

 折りしも南北朝の境界で、北魏が宋国を攻略したため、淮河流域は一気に緊張した。檀道済は詔勅を奉じ、長躯、嶺南から兵をひきいて淮河を北上した。馮業は大軍を頼むすべもなく、わずか三百の兵力で、任地において孤立した。


 馮業からその子の士翔・その孫の融にいたるまで馮氏はひとしく羅州刺史に任じられた。しかしこの三代で、石城に羅州を建設することは、ついにかなわなかった。寄留する地域は、高凉西部の西鞏さいきょう県境だった。宋朝はそのころ南朝で盛んにおこなわれていた僑置きょうちの方法によって、西鞏県内に架空の地域を区割りして「羅州県」を設置した。北方から南に逃れて帰順した流離の一族に、文字どおり仮の落ち着き先をあてがったのだ。

 先住者がいれば力で割り込み、無人の地ならば開墾し、実際には存在しない「羅州県」を実力で己がものにせよ、との御託宣だ。

「当時、羅州刺史に任じられた父馮融は、真の羅州県を実現するため、県内を開墾し、田畑を増やしました。近隣の俚人部族や南遷漢人を多数県内に誘致するなど、食糧の増産をはかるため、せいいっぱい努力を重ねてまいりました。しかし哀しいかな、思うほどの成果が得られず、羅州刺史はついに名のみで終ってしまいました」

 仮の羅州県は高凉郡に属する県だ。この地域は、いまの陽春西南部の一村にあたり、村内の小川は羅水河とよばれている。馮氏の一族郎党はそこに居住し、休養生息した。休養生息とは、租税徭役の負担が軽減され、生活の安定が得られることをいう。ようやく、ひと息ついたのだ。人のいない地を選び、駐屯して開拓し、自給した。宋、斉から梁にいたる南朝の歴代、宋康郡に居住する冼氏部族とは隣同士で、ときに応じてたがいに助けあい、三代がすぎた。

「みなさんが奏でる弦歌雅曲の音色や四書五経を朗誦する声を、わたしも幼いころ耳にしています。北から来られた学問のある漢人の氏族の方々だと聞かされていました」

 ここへ来る道すがら、冼英も懐かしく思い出していた。ただ、いっしょに遊んだり、喧嘩したりという記憶はなかった。それをいうと、

「わたしたちはこどものころから学問三昧で、たまに武術をやる以外、遊ぶということはなかったのです。このたび高凉太守を拝命し、ようやくその学問を生かす機会に恵まれました。ただ、わたしたち外来のものが太守として一方的に法令を告示し、事案を審判し、罰則を下しても、地場の方々にしたがっていただけるかどうか、危惧しております」

 馮宝はためらわずに、じぶんの不安を述べた。冼英は、その率直さにいっそう好感を抱いた。

 ――なんて、かわいいんだろう。

 不遜なことだが、目のまえにいる十歳以上も年上の男が、いとおしく思えてきた。

 ――いけない、お玲に知れたら、笑われる。

 うわついているばあいか。心のなかでじぶんを叱りつけ、「冷静に、冷静に」と頭のなかでじぶんを抑えていた。いや、抑えるつもりが、どうしたことか軌道をはずしていた。

「お聞きしたいことがあります」

 思わず馮宝に問うていた。「長年の宿題の答え」を訊ねたのだ。

「高凉俚人の世間での評判をご存知ですか。評判といっても悪評のほうですが」

「ええ、知っています。高凉奴と高凉の宿賊というのでしょう。都では有名です。こどもがむずかっていうことを聞かないときに、『高凉奴にされて、売りとばされるぞ』というと、こどもはすくみあがってたちまちおとなしくなります。都で兵を募り、広州へつれてくることがありますが、『高凉の宿賊退治だ』と知れると、その日のうちに逃亡兵が続出して、あっというまに半減してしまいます」

 馮宝は冼英の深刻な問いを、笑い話に紛らわせて答えた。

 冼英は、それを馮宝の余裕と見た。

「いうまでもなく『奴隷狩り』や『海賊』は、朝廷から征伐軍を派遣されるくらいに重大な犯罪行為だということはわかっています。ただわたしたち高凉俚人は、懲罰のたびに村落を焼かれ、漢人が南遷するつど未開の西方に追いやられ、いつまでたっても安住の地をもつことができなかったのです。こんな状態だと農業だけではとうてい食べていけない。もともとわたしたち高凉俚族の半分は海人なのに、海人としての仕事を禁じられているため、海へ入れず、大きく発展するきっかけをつかめずにいたのです。力は、あり余るほどもっています。だから隠れてでも海賊行為を行い、奴隷狩りをしたのです。貧しいけれどこれまでは、そうやってどうにか生きてきました。だけど、いつまでもその悪行あくぎょうだけに頼っていてはいけない。悪行はやめなければいけません。それはわかっています。でも、どうすればそれにかわるものを見つけられるのか。なにをやればいいのか。わたしにはわかりません。お願いです。どうか、お教えください」

 いつしか冼英は声を震わせて、馮宝に窮状を訴えていた。こぼれそうになる涙を、ひっしにこらえていた。

 初対面にひとしい馮宝に一族の内実を洗いざらいぶちまけて、その打開策と改善の可能性を問うたのだった。ここへ来るまではまったく思ってもみなかったことだ。

 馮宝は、ことばをさしはさまず、黙って冼英の説明と質問を聞いていた。そして冼英が話しおわるのをまって、静かに口をひらいた。

「お兄上の不法な所業は、ただちにお止めいただかなければなりません。さもなければ、高凉太守として裁きにかけ、処罰を申し渡すことになります。海賊行為は、都送りのうえ獄門が慣例です」

 獄門は、斬首刑ののち、さらし首にされる極刑だ。いまさらながら罪の重さに冼英は身震いした。

「定住の地は、わたしたちで築きましょう。このたびわたしは高凉太守を拝命いたしました。以前、父の羅州刺史は虚名で、既存の領地はありませんでしたが、このたびは管轄する領地をいただきました。これに冼挺どのの南梁州をあわせれば、当面、冼氏の直系一族とわが馮一族の生計たつきにあてるには、十分とはいえないまでも、年貢の上納分くらいは残せましょう」

 中原の農法が嶺南に伝わって久しい。漢代すでに銅鉄製の農機具が導入され、牛耕がはじまっている。にもかかわらず俚人の農法は旧態依然として進歩発展がみられない。ひとつには貧しいがゆえの停滞でもあるが、いつまでも焼き畑の原始粗放農業でもあるまい。

「最初の金銭負担はつらいが、借金してでも思い切って銅鉄製の農具をそろえることです。収穫量が違うから、その年のうちに金を返せます。わたしのところの農具をお貸しするから、いちど試されるとよい。牛耕もそうです。人がたばになってもかなわない力を発揮します。子牛をさしあげるので、じょうずに育ててみてください」

 薀蓄うんちくの深さとでもいおうか、とたんに馮宝は多弁となり、立て板に水のいきおいで、冼英の疑問にひとつづつ丁寧な解答をしめしてくれた。

「水稲だけにこだわらず、麦や粟など他の五穀もまんべんなく植えれば、災害があったときに全滅を防げる」

荔枝ライチ・竜眼・柑橘・バナナ・甘蔗・檳榔びんろう・花卉など地元の特産物を育てておけば、都から商人がまとめて買いにくる」

「桑を植えて蚕を育て、生糸を紡いで絹織物にする。村全体で分担作業すれば、大きな産業にできる」

 これらは馮宝の思いつきではない。漢代初期、南越国の時代から地域振興策としてすでにスタートしている。

 これらの産業が、いまだに俚人の村落に定着していないのは、ひんぱんに戦があり、俚人社会が安定していなかったことにも原因がある。しかし珠江デルタ付近の越人村落は、戦もなく、安定した生活のなかで、産業化に成功しているという。

「南朝の歴代王朝に帰順し、年貢を払うかわりに安全と平和を保障してもらっているのです。都の商人や地方官とのあいだで、年ごとの買付け高をあらかじめ取り決めておきますから、約束どおりにむだなく引きとってもらえます」

 朝廷の地方官といえば、年貢を取り立てるか、兵隊をよこして強奪するばかりだったし、都の商人といえば、口はうまいがずるい人間ばかりで、高いものをつかまされるか、安く買い叩かれるのが常だったから、悪い印象しかない。

「それは、おたがいに信頼関係がないからです。最初から疑ってかかり相手を信用しなければ、健全な付き合いは、はじまりません。まず相手方のふところに、じぶんから飛びこむことが肝要です」

 冼英は驚いた。おなじ戦のなかにあっても、敵を憎み殺しあうなかで、ぎりぎりに生き

てきたじぶんたちにくらべ、馮宝一族は、なんと悠長な考えで、暮らしてこれたものだ。

「嶺南の海人ともいうべき人たちの航海技術については定評があり、朝廷でも認めています。しかし海外に出るということは、政府とのあいだでぜったいの信頼関係に裏打ちされていないかぎり、許されません。機動性があり、海外の侵略者と容易に通交でき、いつでも武器を持って水先案内が可能な立場にあるからです。まず朝廷に帰順し、忠誠を誓い、領民として最低限の義務を果たすこと、つまり賦税の納付、これからはじめましょう。かつてわたしの祖先は、はるか北方のかなたから船に乗ってこの嶺南にたどり着きました。漂着した当時、助けていただいた海事方面の方々とのお付き合いもあります。朝廷の許可をえて、正々堂々、交易船で大海原を駈けめぐる日の実現のために、わたしたちも力をつくしたいと思います」

 馮宝は淡々とではあるが、明確に分析し、力強い答えを出してくれた。そして、その実現のためにも、ぜひ両家の聯婚をかなえていただきたいと、あらためて求婚した。

 誠実さがにじみでていた。信頼してもよい、冼英は確信した。

――一族もわたしも、この人となら疑わずにいっしょにやってゆける。不毛の戦はなにものも生みださない。兄を説いて不法な所業や争いごとを止めさせ、一族が安穏に生活できる道を見出すのだ。



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