第7章 犬軍団集結

 冼挺のさいごの狙いは、孫冏と盧子雄に絞られた。

 まず盧子雄にたいして、報復の牙を向けた。

 新寧太守盧子雄の本拠地は新寧郡だ。新寧郡は北に高要、南は高凉にはさまれている。大雲霧山の南麓を越えれば、高凉の北側に位置する陽春だ。戦のはじめ、盧子雄の討伐軍は陽春の俚人村落を襲い、村民を虐殺したが、戦勝におごり、掠奪のうまみに酔いしれた。高凉進撃は孫冏の西江軍にまかせ、みずからは掠奪と村民の拉致に没頭した。言語道断の弱いものいじめだ。

 逃げ延びた村民が、涙ながらに冼挺に訴えた。

「ゆるさん!」

 冼挺は激怒した。

 軍団を分けて雲霧山脈を下り、少数の精鋭部隊のみで、盧子雄の侵略軍に立ち向かった。

 村落を蹂躙した盧子雄の討伐軍は、朝命による正規軍の態をなしていなかった。気のあった連中で小グループを構成し、抵抗するものもいない村落でなおも獲物を漁った。逆らう村民はなで斬りにしつくしたから、もはや武器は持たずとも用が足りる。わがもの顔に村内を闊歩し、隠れていた女こどもをあばら家に集め拘束した。奴隷にして売り飛ばせば金になる。

 しつように財物ばかりを漁るグループもいた。風評に踊らされ、血走った眼で翡翠・真珠・犀角を探しまわった。

「ない、どこにもない」

「ないはずはない。どこぞに隠してあるに違いない。見つけ出せ。かならずある」

「先に見つけておいて、知らん顔をしているのだろう。やい、独り占めとは強欲すぎる。おれにも分けろ」

 しまいには、仲間同士で内輪喧嘩のありさまだ。


 敵情視察のために間者かんじゃを放ってある。「探子たんし」という。忍びの者のことだ。その探子が盧子雄軍の体たらくぶりを、こと細かに報告した。

 盧子雄軍はだらけきっている。もはや、思案するまでもない。冼挺は馬にまたがり、槍を小脇に抱え、単身、敵陣へ乗り込んだ。そのあとを一騎当千の軍団の猛者もさ連中が追った。


「わしは高凉俚軍の冼挺だ。でよ盧子雄、盧子雄はいずこにおるか」

 冼挺は興奮を隠そうともせず、満面を朱に染めて、大音声だいおんじょうで呼ばわった。

 昼間から酒を飲んで無聊ぶりょうを慰めていた盧子雄が、この声を聞きつけた。

「冼挺だと、大都老の小せがれか。益体やくたいもない。能無しの役立たずが、なにをほざいておるか」

 酔った勢いで、徳利片手に外へでた。たちまち冼挺に発見され、槍を突きつけられる。

「盧子雄とみた。おれが冼挺だ。いざ、尋常に勝負いたせ」

 冼挺が興奮したには理由がある。二百年前、さかのぼること六代の祖・冼勁せんけいを殺した盧循の、盧子雄は子孫だった。

「二百年前の仇討ちとは、片腹痛し。小せがれ相手におとな気ないが、望みとあらば受けてくれよう。心してかかってまいれ」

 盧子雄とて名うての豪のものだ。戦場の経験は冼挺を越える。

 腰に手をやり、刀を抜こうとしたが、肝心の刀がないのに気付いた。おっとり刀どころか、丸腰で飛び出したのである。

「しまった!」

 警護の兵が冼挺に立ち向かうすきに、踵を返して遁走した。

 これには冼挺も呆れたが、邪魔が入っては、追うに追えない。

「逃げるとは、卑怯なり。盧子雄、恥を知れ」

 地団太踏んでも、あとの祭りだ。

 ようやく駆けつけた冼挺軍団の猛者連が警護の兵を追い散らしたものの、捕らわれた女こどもを救出するのが先になる。掠奪にうつつを抜かす討伐軍など物の数ではないが、近隣の村落すべてを解放するには時間がいる。あれやこれ手間取るうちに、盧子雄は封地の新寧郡に逃げ帰ってしまった。しかし、征討に名を借りた侵略軍を完膚なきまでに叩きのめし、陽春の各村落はことごとく取り戻した。これがなによりの救いとなった。

 盧子雄軍団は、この一戦で戦意喪失し、および腰で北に向かって撤退したきり、新寧郡に閉じこもり、二度と出てこようとしなかった。


 一方、孫冏の西江部隊はどうしていたか。

 高要郡から南下して来た孫冏の西江部隊は大軍を分散し、高凉各地に多方面展開する作戦に出た。そのため戦は局地のゲリラ戦に終始し、勝敗を左右する大会戦にはいたらなかったから、原隊の兵員に際立った損耗はなかった。

 しかし高凉娘子軍のひっしの抵抗で、密林に踏み入った転戦部隊は手痛い敗北をくりかえし、また少年白龍隊の果敢な攻撃で、漠陽江を下る輸送船は奪取され、兵員や糧食の補給線は寸断されてしまったので、各地の孫冏軍は孤立し、苦境に陥っていた。


 葛徳は、こうなる展開をあらかじめ読んでいた。

 盧子雄の軍勢を追い払ったあと、冼挺が怒りにまかせて、無理に出撃するのを諌めた。けっして挑発に乗らず、むしろ防御に徹してみずからの力を貯え、長期戦に備えるべきことを勧めたのだ。雲霧山中の密林に自立する基盤を構築して、しかるべき時期を待つこと、これを上策とした。そのためにも、爆発寸前にまで高まった冼挺の憤りのガスは、すこし抜いて暴発する圧力を弱めておく必要があった。力の弱い盧子雄から先に攻め、粉砕し、撤退させることでガス抜きは成功した。

「もともと梁の武帝が、孫冏と盧子雄に西江の兵をひきいて俚人部族を討伐するよう命じたことは、一石二鳥の計略だったのです。孫冏と盧子雄はともに東晋の流賊の首領孫恩、盧楯の後裔で、野に留めておいてはきわめて危険な存在だったので、政府軍に取り立てて中央から離れた広州に放ち、さらには官職と封地を与えて、広州のさらに奥地へ立ち退かせたのです。口は悪いが、文字どおりの厄介払いです。それが、高要であり、新寧であったわけです。ついで梁朝は俚峒を討ち平らげて、高州を建てれば高州刺史とする、という甘い誘いを餌に、孫冏を広州とは目と鼻の先にある高要からも遠ざけ、高凉地域全体に分散して薄く広く張り付けて、勢力を弱めようと図ったのです」

聞いて冼挺は舌を巻いた。

「してみると、おれたちは単なる象棋シアンチィ(中国将棋)の駒にすぎんのか」

「されど駒には兵卒もあれば将帥しょうすいもあります」

 葛徳はずいと膝を進めた。

「いまや天下は往時の中原に留まりません。北は長城から南は五嶺まで、国土の領域はかつての何層倍にも膨れ上がっています。しかるに王朝は南北ふたつに別れ、それぞれの権力は国土の広さに応じて分け合っているのです。わけた分だけ脆弱となり、互いの国境を守るため、いらぬ力を費消しあっています。北朝はしらず、南朝にあっては梁の命運は遠からずついえるのではないでしょうか」

「されば、われらはいかように対処すればよろしいか」

 暴れるだけの冼挺に、天下経略の策はない。

「森林が鬱蒼と繁る雲霧山中は、容易に攻略できない自然の要塞です。この山中に石を重ねて堡塁を築き、水をためて濠とし、要所の防御を強化し、分散して拠点を構えるのです。山中は天然水の宝庫ですから、飲用に適した泉水池塘はいたるところにあります。魚介を養殖し、灌漑に利用します。そして山中の適地を開墾し、田畑を耕し、部族を養うに足る食糧を自給するのです。放牧の適地もあります。外界に頼らずとも、自立できる要素に満ちています。雲霧山中は、世外の桃源ともいうべき別天地を営むに足る絶好の環境に恵まれているのです。この別天地で自立し、時期の到来を待つ。たとえ駒は駒であっても、高凉俚人の将帥を戴く自立した駒であれば、部族の始祖さまにたいしても、胸を張って申し開きできるのではありませんか」

 葛徳は諄々と説いた。

 この混乱した事態を収束するには、戦をやめる以外にない。負けて降服するのではない。勝利の余韻を残して、みずから山中に身を引くのだ。そして自立し、力を貯えるのだ。馮宝がいうように、いずれは朝廷に帰順し、忠誠を誓う日もくるであろう。しかし力さえ貯えておけば、相手から侮られることはない。

 ――おれにできるか。

 冼挺はみずからに問うた。

 ――まずむりだ。

 勝利の可能性がある限り、勝つまで戦う。それが自分だ。

 ――高凉俚人の将来は、お英に託した方がいいかもしれぬ。道ははるかに広がる。

 さまざまな思いが去来する。いまようやく、冼挺はひとつの結論に達しようとしている。


 馮宝にいわれるまでもない。時間は限られている。冼挺は孫冏を狙い、さいごの一戦にかけた。北からの兵站線を陽春で断たれた孫冏軍は孤立し、高凉の沿海平原一帯に分散してたてこもっていたが、高凉ゲリラへの追撃に失敗してからは、山中の兵を引き上げ、分散した軍を一ヶ所に集結させている。

「決着をつけたい」正規の征討軍が、敵対するゲリラ軍に注文をつけたのだ。冼挺は決戦を受けた。


 孫冏の祖先である孫恩は、五斗米道ごとべいどうといわれる道教の継承者だ。治病を施し、その霊験あらたかなるをもって信者を募った。入信時に五斗の米を献納させたことからこの名がある。

 孫恩は五斗米道の信者を利用して、江南で狂信者を扇動し、乱を起こした。みずからを「長生人」(不死の人)と称し、信者から死の恐怖を取り除き、乱に先立ち足手まといになる赤子を水中に投じ入れ、「水仙」となって永久の生命を得たと祝福した。集団催眠の幻術に踊らされた狂信者らは、孫恩の命令一下、敢然として政府軍に立ち向かい、嬉々として死んでいったのだ。

 孫冏はこの嶺南の地に、孫恩をまねた独立国の建設を狙っていた。高凉地域一帯は、まさに恰好の立地拠点といっていい。ただし孫冏にカリスマ的資質はない。

 一方、元始天王盤古の子孫高凉俚族を外敵から守るのは、嶺南道教の霊山ともいうべき羅浮山の方士葛徳のつとめに他ならない。

 葛徳は孫冏との一戦に先鋒をつとめたいと、みずから買って出た。


「よかろう。かえってこちらからお願いしたいくらいだった。で、兵はいかほどつけたらよかろう。千か、二千か」

 万を越える孫冏軍にたいする先鋒隊だ。冼挺の提案は妥当だったが、葛徳はそくざに否定した。

「いや、いりません」

「少ないと仰せか。では三千つけよう」

「そうではありません。一兵もいらぬと申しています」

 冼挺はあきれた。兵を用いないで、どう戦おうというのか。

「このにおよんでわれらを愚弄されるか」

「しばらくうしろにさがり、このたこを揚げて、高みの見物を決めこんでいてください」

 葛徳は、怪訝けげんな顔をする冼挺に大凧の綱をわたした。

 冼挺の主軍団は、漠陽江下流域の沿海平原をさらに退き、海を背にして布陣した。正規兵以外の民兵を含めても五千に満たない軍勢だ。「背水の陣」、必死の覚悟が陣立てにあらわれている。

 決戦のときが来た。

 葛徳はたったひとりで、万余の孫冏軍に対峙したのだった。

 あれこれ策をめぐらしていた孫冏もこれには驚き、すべての策をうち捨て、真正面から正攻法の力攻めに変更した。

猪口才ちょこざいな小僧めが、ひと揉みにしてくれる」

 全軍に突撃を命じた。


 ――ピィッ、ピィ―。

 とつぜん戦場に犬笛が放たれた。といっても人には聞こえない。犬笛は、犬にしか聞こえない高周波の特殊音を発する。

 葛徳は、高凉一帯に棲息するすべての犬に、緊急集合をかけたのだ。

 高凉俚人部族の危機にあたり、伝説の神犬『盤瓠ばんこ』の故事にならい、部族の盛衰をかれらに託そうというのだ。一匹、二匹。五匹、十匹。単独で、あるいは連れ立って、高凉各地から、五色の毛並みに覆われた『盤瓠』の末裔とおぼしき犬たちが続々と集結した。

 飼い犬もいれば、野犬もいる。戦慣れしたいかにも獰猛な狩猟犬もいれば、「人生とはなんぞや」とばかりにひねもす懊悩する哲学犬もいる。

 犬軍団の先頭を切るのはクロだ。大勢の黒犬をひきつれ、クロは躍動した。葛徳の右側を守る形で百匹ばかりしたがえ、グルルルっと唸り、敵を威嚇した。

 葛徳の左側を守るのはシロだ。シロも負けじと百匹あまりの白犬の先頭に立ち、ウォウと、高らかに咆哮した。

 一方、漠陽江を川下る白龍ペーロン舟に分乗した黄金丸ら黄毛の犬たちは、ワスケら海人にともなわれ、近くの河原に降り立つや、戦場目指してひた走った。孫冏軍の左翼を襲うのだ。百匹の黄犬の群れが、街道を黄金色に染めた。

 茜もまた高凉俚人の危機を救う神犬の本性に則り、赤い毛並みの犬らを叱咤し、飛ぶように駆けた。遅れじとばかりに、残った孫冏軍の右翼から突き崩す構えだ。冼英の娘子軍がいずれも髪を赤く染め、赤毛の犬百匹の集団が殺到するあとにつづいた。

 葛徳は、それぞれの方向から奔る犬たちの動きを耳で追った。

 もうひとつの遠吠えが、まだ聞こえてこない。

 ――馮宝の葵はどうした!

 懸念するまでもなかった。葛徳に向かって進撃する孫冏軍の後方から、狼に似た遠吠えの輪唱が耳に届いた。葵らのものに違いない。

 このとき、葛徳の頭上にスルスルと縄梯子が下りてきた。上空に揚がる大凧から下りてきたのだ。凧は海からの風にあおられ、天空高く舞い上がっている。葛徳もまた縄梯子を伝い、天空に向かって登っていった。地上からは、葛徳は上空に浮かんで見える。

 敵も味方も、この光景にどよめいた。葛徳は空中で、仁王立ちした。

 上空の葛徳からは、地上のありさまが手にとるようによく分かる。総勢一万余の孫冏軍が、青・黄・赤・白・黒、五色の犬の集団五百匹に取り囲まれている。さながら牧羊犬に導かれ、草原を移動する群羊の態をなしている。犬の軍団はいっときもじっとしておらず、つねに駆けまわっているから、何倍もの数に匹敵する。それに留まらず、遠来の犬たちが続々と新たに加わり、仲間の数を増やす。葛徳は手にした犬笛を、ふたたび吹いた。

 葵が察知した。孫冏軍を後方から攻めていた青色の毛並みをもつ一群が、葵のひと吠えで左右に分かれ、孫冏軍の後方に逃走路をひらいたのだ。

 古来、戦の要道では、敵を死地に陥れることを固く禁じている。四周をすべて包囲すれば死地となる。死地に陥った兵は、生き延びるためにひっしに戦う。ときには実力以上に力を発揮することがある。だから戒めたのだ。反対に、逃げるに易い路が一ヶ所でもひらかれていれば、武器を放り出してでも、われがちに逃げる。「蟻の一穴から堤も崩れる」たとえだ。

 案の定、孫冏軍は後方から乱れた。向きをかえて、全軍が逃げの体制に入った。

 後方以外は、兵を散らさぬように、五色の犬軍団が駆けまわって壁を作り、列をはみ出る兵に咬みついたり、体当たりしたりして防いだから、孫冏軍は流れる壁ごと後方へ追い立てられたのだ。

 葛徳は上空からこれを眺望し、五色のリーダー犬に犬笛で指示を送った。

 いまや数千匹に膨れ上がった犬軍団が、孫冏軍を包囲したまま、いっせいに吠え立てはじめた。狼の咆哮を真似る一群もある。兵たちはゾッと肝を冷やした。勝手違った猛犬相手の戦に面食らい、人の後ろに隠れて難を逃れようと揉みあった。

 孫冏の部隊は混乱した。ややもするうち、内部で分裂騒ぎがおこった。

 孫冏軍のなかにも徴発された高凉俚人はいる。それら高凉俚人に属する部族兵たちのあいだで、犬たちへの反撃にためらうものがではじめたのだ。

「攻撃する相手が違う。お犬さまはおれたちの守り神だ。おれたちを守るはずのお犬さまの敵は、おれたちの敵ではないのか。もともと孫冏軍に加わっているのが間違いだった。高凉軍に移って孫冏軍を倒そう」

 孫冏軍のなかで一部の兵が叛乱した。叛乱の火の手は、たちまち全軍に広がった。

外からは五色の犬たちに吠え立てられ、内からは自壊の竜巻が巻き上がった。たまらず孫冏軍はドッと後退した。

 逃走する孫冏軍を見送って、数千匹に膨れ上がった猛犬軍団は、勝利の雄叫おたけびをくりかえした。


 この戦闘がひとつの転機となった。

 対俚人強攻策の孫冏が更迭され、陳覇先が高要太守・西江督撫に任命されたのだ。

 陳覇先は馮融・馮宝父子とともに漢俚の和親宥和を主張し、俚人の征討鎮圧に反対していた。

 陳・馮両氏の考えは、やがて広州刺史蕭暎を動かし、中央尚書台の賛同を得た。

 俚人征討軍は解体し、戦は終った。






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