第6章 復讐のゲリラ

 孫冏と盧子雄は、ただちに俚人征討軍を集結させ、高要郡を発し、一直線に南下した。強大な軍勢で雲霧山脈の北端にあたる大雲霧山を越えると、龍潭県から陽春一帯に侵入した。さらに漠陽江に沿って水陸を進み、流域にひろがる陽江の沿海平原や丘陵に散在する高凉俚人の部落・村塞をつぎつぎに掃討していった。

 指導者を騙しうちにされた俚人部族は、抵抗するすべもなく、蜘蛛の子を散らすように、逃げ散った。かれらに帰るべき棲家はなくなった、無人の部落は、掠奪されたあと火をかけられたのだ。

 征討軍の抜き打ち侵攻にたいし、逃げ遅れた部落や、多少とも抵抗した村塞は、さらに悲惨をきわめた。一斉攻撃をうけ、瞬時にして阿鼻あび叫喚きょうかん、村落は血の海と化した。青壮年の男子は軍役にとられ、村落を離れている。残されたものは抵抗力の乏しい老人と女こどもだけだ。村と家族を守るため、女こどもが農具や棒切れを持って、侵略者に抵抗した。

 結果はいうをまたない。老若男女の区別なく、抵抗するものはすべて虐殺された。生き残った部族民は女こどもを問わず、家畜や家禽といっしょに手捕りにされ、腰縄をうたれた上、掠奪された財貨や食糧の荷車を引かされた。いずれは奴隷にされ、売りとばされる運命だ。年寄りや寝たきりの病人は藁小屋にひとまとめにされ、火をつけられた。

 大都老冼企聖を失った冼氏一族は、冼挺とお英が駆けまわって部族民をまとめ、それぞれの部落や村塞から脱出した。焼け出された部落の孤児や寡婦、それに逃げ落ちた敗残兵が加わっていた。道々、荷車から価値のありそうな家財道具を撒き散らした。運びきれない家畜も道に放った。追撃する兵士が奪い合い、その分だけ追っ手の到着が遅れる。時間稼ぎの有効な手段だった。

 明日を考える余裕はない。部族民のひとりでも多くが、いまをただ生き延びてくれることを優先した。かれらは黙々と雲霧山脈ふもとの叢林に分け入り、湖沼をわたり、けものみちを伝って、原生林を突き進んだ。

 先導し、しんがりとなるのは冼挺軍団だ。先になり後になりして、部族民を守った。

 高凉部族は狗郎の民だ。むかしから多くの犬を飼っていた。その犬たちが物見と伝令の役を担って、逃避行を助けた。敵が現れるとまず犬たちが盾となって、部族民を守り、大声で吠え立てて、軍団に急を告げた。

 冼挺ら軍団の面々は、こどものころから遊びまわって、高凉の山河は知り尽くしている。そのうえ実戦の経験も豊富だった。太古のつたをなぎ払い、古木を倒し、道を拓いて、橋を掛けた。そして全員が通り抜けたあと、ふたたび道を塞ぎ、橋を壊した。かわりに柵をたて、罠を仕掛け、落とし穴を掘った。頭上には危険な落下物を隠した。追っ手にたいする防護にもぬかりはなかった。


 冼氏一族の逃避行集団は、雲霧山脈の南側一帯の広大な熱帯樹林の山中深く落ちのびた。雲霧山脈は、いまの陽江市の北端に屹立する海抜一一四〇メートルの大雲霧山を北の頂点とし、南は海抜一三三八メートルの鵞凰嶂がおうしょう大山まで、西南方向百数十キロにおよぶ長大な自然の要塞だ。

 かれらはこの雲霧山脈の東から南にかかる地域一帯に立てこもった。山中の高台に分散して部落を急ごしらえし、河辺によって田畑の開墾をはじめたのだ。その一方で、この地域一帯を「南梁地区」と称し、要所に分散して根拠地を設け、ゲリラ戦を展開し、孫冏の征討軍と渡りあった。敵は武器と食糧を豊富に携行している。狙うには、あつらえの獲物だった。

「官に万の兵あれば、我に万の山あり」

 冼挺はうそぶいた。いかな討伐軍でも、山に引き込みさえすれば、勝算はある。

 孫冏の討伐軍は、山林を盾にとる冼氏一族のゲリラ攻撃に翻弄された。山中では大軍が災いし、細分化せざるを得ず、指揮系統が乱れる。ここぞとばかりに乱れを突いて、「南梁ゲリラ」が、跳梁ちょうりょう跋扈ばっこした。

 大都老の父や叔父などの首脳を一挙に失った冼挺、お英兄妹は、一族をひきい、戦に没頭した。あまりに理不尽な孫冏の謀略は、かれらの復讐心を異常に燃え立たせた。年が若い分だけ気力がみなぎっていたから、軍備の劣る不利な条件を逆手に取った。冼挺軍団を根幹に、部族民の壮丁を小グループに分散して、適所に放ち、孫冏軍を竹藪のなかの乱戦や、とうきび林の埋伏戦で撹乱した。それぞれが実践のなかで戦を学び、生き抜くために助け合った。

 ことに冼挺の怒りは頂点に達していた。情け容赦のない徹底した報復戦を展開したのだ。

 敵の征討軍に遭遇するや、まず強弓で敵将を射止め、さらに敵陣に突入し、ひとりで十人、二十人をものともせず、げきほこを振り回し、兵卒を薙ぎ倒した。ちなみに矛は両刃の剣に長い柄をつけた武器であり、戟とはその剣の両側に刃の枝が突き出た三叉の矛をいう。突いて刺すだけの槍とちがい、斬り、刺し、薙ぎ、払い、叩くことができる。

 怒りに燃えた冼挺の体内から、絶えざる活力が炎となってほとばしった。向かってくる敵兵の腕を払い、胸を刺した。敵将と見るや、飛び込んで切りあい、首を飛ばした。倒れた味方を助けおこし、負傷した部下の盾となって休むことなく武器を振るった。

 味方にとってはこよなく頼もしい若大将であり、敵にたいしては身の毛もよだつ悪鬼の化身となった。

 逃げ遅れた敵兵を捕獲すると生きたまま縛り首にして木に吊るし、縊死した死体に弓を射った。山林はぶら下がった無数の首吊り死体で、不気味な光景を呈した。

 征討軍の兵卒は、「縛り首の森」と恐れ、近寄ることをためらった。

 それでも冼挺の怒りは容易におさまらなかった。征討軍にたいしてはむろんのこと、高要で生き残った他氏族の俚人幹部をも復仇の対象にくわえ、怒りをぶつけたのだった。

 騙し討ちにあったのは、父冼企聖や叔父など冼一族の首脳がほとんどで、会合のまえに帰順をあらかじめ内諾していた他氏族の山峒主や部族長は、位官の空手形を振り出され、無事に帰村していた。

 三年前の村落掃討戦以来、高凉地域の大都老の権威は失墜傾向にあったとはいえ、大都老の父は、各村落のうしろ盾となり、食糧や生活資金のうえで、みずからも乏しいなかから、なけなしの援助をしてきたではないか。その原資を得るため、汚名を着てまで、命をかけて働いたのは、ほかならぬ、おれたちではないのか。

「恩を仇で返すにことかいて、おれたち冼一族を売ったやつらだけは、ぜったいに許さん。部族もろともなぶり殺しにしてくれる」

 冼挺は復讐すべき部族の名を、いくつか口に出し、唾とともに吐き捨てた。そして軍団の大部分をお英に托し、みずからは選りすぐった尖鋭部隊をひきつれ、根拠地をあとにした。山林を出て、征討軍の後方を撹乱すると同時に、冼一族の仇討ちを敢行する決意だった。百越同士が抗争をくりかえしてきた悪しき伝統の再燃といえなくもない。


 一方、冼挺軍団とはべつに、冼英もまたおんなたちによる高凉娘子軍じょうしぐんを編成し、征討軍に対抗した。葛徳やワスケが手を貸した。回復した茜を中心に、シロ・クロ・黄金丸らも部族民の飼う犬たちの先頭に立って娘子軍を助け、戦場を駆け巡った。

 冼英のひきいる娘子軍は射的攻撃による埋伏接近戦を得手とした。密林のなかでたくみに潜伏し、敵軍が間近によるまでじっと待ち、射程距離に達するや、弓で矢を射て敵を殺傷するのだ。

 女部隊ということもあり、携帯に便利なように弓は短弓を用いる。飛距離は小さく、力も弱い。しかし、小型の矢の矢尻には「薬樹」の毒液が染みこませてある。「薬樹」には、「毒矢の木」という隠されたべつの名前がある。敵の肌にかすっただけで、威力を発揮する。

 葛徳が発案した。「薬」は用い方ひとつで「毒」にもなる。「薬樹」から毒液を採取し、銅の矢尻に塗布したその矢を背に負って携行し、敵に遭遇するや弓につがえて射るのだ。

 いずれの過程においても、ぜったいにみずから矢尻に触れてはならない。

 万全の集中力と持続力が求められる、きわめて危険な特殊兵器なのだ。葛徳はこれを開発し、武器に採用した。

「朝廷の非道にたいするに、われらも非情をもってこれにあたる。朝廷の権力の強大さにくらべれば、われらの力は芥子粒けしつぶほどもない。そんな微力なわれらが命をかけて朝廷の非道を糾すためにあえて抵抗するのだ。犠牲者には気の毒だが、われらの非情な決意を朝廷に知ってもらわねばならない。それを示すのがこの毒矢だ。この矢が当たれば人はかならず死ぬ。触れただけでも致命傷をあたえる。文字どおりの『必殺の矢』だ。敵を殺すまえにいっておく。憐憫の情を捨て去れ。心にためらいのあるうちは、この矢を手にしてはならない。みずからの有情うじょうの心をさきに殺し、憎しみのかたまりとなって、未練なく敵の命を奪おうとする決意のあるものだけが、この矢を射ることができるのだ」

 娘子軍をまえにして葛徳は激しく説いた。中途半端な気持ちで毒矢をあつかえば、まずみずからの心を傷つける。敵愾心を損ない、全体の士気を低下させることにつながる。その悪影響は自分自身に留まらず、味方全体におよぶ。

「かすり傷でも人は死ぬ。この小型の銅の矢尻には強烈な毒液が塗ってある。必殺の一撃と承知のうえで敵に向かい、矢を射るのだ」

 相手の皮膚を裂き、肉の表面をかすって出血させるだけでいい。毒液は一瞬のうちに心臓に達して咽喉をふさぎ、敵は心筋梗塞をおこして即死する。「見血封喉」―血を見て喉を封じる、「必殺の毒矢」のゆえんである。

 娘子軍の女兵はたがいに顔を見合わせた。顔は青ざめ、声も出ない。

「ごくっ」

 生唾を呑みこむ音がかすかに聞こえた。


 孫冏軍は山林に踏み入り、俚人ゲリラ捜索中にしばしば射殺された。一本の小さな矢で、ときには三人が犠牲になった。

 ひとりの兵卒の頬に矢がかする。頬に手をやったまま兵卒は膝を突く。矢を拾い、矢尻に触れた仲間の兵や手当てをしたものまでもが、間髪をいれず、目のまえでつぎつぎに倒れる。

 兵らはすくみあがった。武器を放り投げ、血相かえてわれがちに、もと来た道をころげ走った。

 さらに俚人ゲリラの心理作戦が追い討ちをかけた。夜間の宿営地でも一晩中、俚人ゲリラがかき鳴らす太鼓やほら貝の音が騒がしく、眠りを妨げたのだ。暗夜、兵を出して掃討しようにも、腰の引けた兵卒では勝負にならない。先回りしたゲリラに翻弄され、命からがら宿営地に逃げ帰るのがせいぜいだった。

 疲労困憊してうとうとする寝入りばな、兵卒の夢に火の玉が出た。昼間見た「縛り首の森」で、死にきれない首吊り兵のうなり声が森にこだまする。無数の火の玉が、森のそこかしこで揺れて漂う。火の玉のなかに、殺された仲間のうらめしげな顔が浮かぶ。

「わぁー」

 悲鳴を上げて、兵卒は跳ね起きる。その恐怖は周りの兵卒にも伝染する。

 狭い兵舎のなかで、怯える兵卒同士が疑心暗鬼にとらわれて、いてもたってもいられない不安感にさいなまれる。飯だけでは済まず、酒を飲む。酒を飲んでは喧嘩をする。口喧嘩ならまだしも、殴り合いやら取っ組み合いの喧嘩となって、ついには刀を抜きあう騒ぎにまで発展する。征討軍の営舎のなかは、収拾のつかない混乱状態となり、せっぱつまった土壇場まで追いつめられた。

 昼夜を問わず常にびくついて、浮き足立った孫冏軍の兵卒は、早々に山から退散し、ゲリラの出没に備え、どこからでも周囲が見渡せる広々とした平原に移動した。そして宿営地に閉じこもったきり、動こうとしなかった。上官が声をからしても、聞く耳もつものはいなかった。上官自身も、逃げることばかり考え、心は上の空だった。

 しかしそこでもけっして安心はできなかった。

 平原の周りで犬たちが狼をまねて、一匹ずつ交代で一晩中、遠吠えをくりかえしたからだ。茜が吠える。クロが呼応する。他の犬たちも負けじと吠え立てる。

 遠吠えは天にまで波及する。稲光が閃き、雷鳴がつづく。

 やがて激しい雨音が遠吠えを消し、豪雨のなか、営舎に迫る俚人ゲリラの吶喊とっかんにかわる。

「殺せ《シャー》、殺せ《シャー》!」


 高要西江軍の輜重しちょう部隊は、雲霧山脈の北端ふもとにたどりつくと、そこで荷を分け、めいめいが肩で担いで山を登った。山を越えれば、船が使える。河川は軍の移動に用いられる。とくに重量物資の移動には欠かせない。山ふところから南海に向かって漠陽江とその支流が豊かな水を湛えて流れている。恰好の侵入ルートだ。輜重部隊の兵員は担いだ荷を船に下ろし、やれやれとひと息つく。

 征伐の目的地高凉は、いまの陽江市区村とその西側一帯を広く包括する。陽江の西境は雲霧山脈に塞がれている。山脈を迂回するには南側の臨海部まで下って西行すればよい。大雲霧山から漠陽江の中下流を目指し、高要軍は船に分乗して南下した。


 ワスケは年少者による舟軍部隊を組織した。海人部族のこどもたちを集めて、丸木舟に乗せ、武器と食糧の強奪を狙ったのだ。ドラドンボートレース(龍舟競漕)のペーロン(白龍)をもじって「少年白龍ペーロン隊」と自称した。

 十六、七歳になれば冼挺の軍団に引き抜かれるから、みなそれ以下の少年たちだ。ヤマトの海人ワスケが教練コーチとなって、高凉の海人子弟を指導した。ワスケ自身まだ二十をいくつか越えたばかりで若いが、実践の経験は群を抜いている。こどもに武器はもたされないから戦闘行為は避け、水路輸送物資の強奪に徹したのだ。こどもにかわって戦ったのは、高凉の犬軍団だ。

 泳ぎの達者な黄毛の犬を舟に同乗させた。舷側が敵方の船に接するや、舳先に陣取った犬たちがいっせいに飛び移る。狭い船上だ。犬に追い立てられ、敵方は船を捨てて水中に逃げ惑う。犬たちの先導役は黄金丸だ。黄金色の美しい毛並みが、敵味方の舟船しゅうせん上を右に左に跳躍し、漠陽江の清らかな流れに虹彩を放った。

 水中に落ちても犬たちはあわてない。巧みな犬掻きで舟に戻り、ぶるっとからだを震わせ、水しぶきをそこいらに振りまいて、平気な顔をしている。

 ひとりの損傷もなく、一匹も欠くことなく、何艘もの船ごと物資を強奪した「少年白龍隊」は意気揚々、本拠地に引き揚げる。

「競漕だ!」

 ワスケが大声で囃し立てる。

 江上をさかのぼって帰還するのだ。速さを競う各舟は、それぞれ強奪した敵方の船を牽引している。分乗した少年たちは、負けじと櫂を漕ぐ手に力を込める。指揮をとる太鼓のリズムに乗って、犬たちは勝利の咆哮を投げかけあった。

 ちなみに舟と船、いずれも「ふね」だが、「小ぶね」と「大ぶね」ほどの違いがある。ところが船舶といったばあい、舶が「大ぶね」で、船は「小ぶね」となる。視覚的な大小でいえば、舶・船・舟の順で大きい。


 冼企聖の訃報に接し母が倒れたとき、逃避行の先々で親身になって看病したのはお玲だった。冼英は大都老のむすめという立場上、一族の先頭に立って領導(統率指導)するのに忙しく、心は急いても母の面倒を看るひまがなかった。いきおい一切をお玲に委ねざるをえなかった。お玲は最後列に混じって大都老夫人を護った。そのかたわらにはつねにシロが付き添っていた。山中にはいると馬車を捨てた。冼挺軍のしんがり兵が背負って走った。ただでさえ衰弱しきったからだだった。とうていちきれなかった。

 村塞を離れた逃避行中に衰弱死した。

 亡くなるとき冼英の母は、お玲の手をとり、

「お玲、ありがとう。おまえも、いずれは幸せになるのだよ」

 といって、事切れた。

 戦のさなかだった。弔いもそこそこに、遺体は藪のなかに埋めて隠した。土をかぶせ、草や枝で覆って目だたなくした。三角の石を上において目印にした。

 敵が迫っている。感傷に浸っている暇はない。お玲は立ち上がり、兵をうながして、その場を離れた。悲しげにひと声発して、シロもしたがった。

 冼英に母の今際いまわを告げなければならない。お玲は雲霧の山中を彷徨した。冼英の辿った足跡を頼りに、山中を探し回った。

 大木からぶらさがるつたのとげや尖った岩壁で、お玲の髪は乱れ、皮膚はこすられて血がにじんでいた。衣服は裂け、布履ぬのぐつも破れていた。衣服のすそを千切って脚をつつんだ。

 シロが先導した。シロは咆哮を繰り返し、耳をそばだたせて、冼英とともにいる茜につなぎを求めていた。犬の嗅覚と聴覚は人の何層倍もすぐれている。お玲は、かつて葛徳が船上で指摘した教えを覚えていた。お玲はシロの超能力に賭けていた。けっして弱音を吐かず、かえって男の兵を励まして元気づけ、せき立てていた。

 森林が切れ、草原がひろがるあたりに出たとき、とつぜん岩陰から紅紫色の犬が飛び出した。

「茜だ!」

 シロが喜びに満ちた声で、ワンワンと吠え、茜を迎えた。

 茜につづいて弓を肩にかけた冼英が、両手を広げて前方に立った。

 お玲は駆けて、冼英の腕のなかへ倒れこんだ。

「お英ねえさん、お英ねえさん」

 お玲は泣きじゃくった。

 冼英の娘子軍が周りをとり囲み、再会を喜んだ。


 お玲は、冼英に母の最期のようすを告げた。

 冼英は黙って聞くのみで、ひとことも発しなかった。

 敵の軍勢が接近していた。

 草原のなかだった。娘子軍の姿は、すでに敵兵の目に捕捉されている。陣頭指揮をとる冼英は、それでも後退を命じなかった。

 とつぜん冼英ら娘子軍の姿が草むらに没した。すっとその場にしゃがみ込み、匍匐ほふくし、散開した。地面に伏せ、腹ばいになって、横にひろがりながら、前進したのだ。

 草の丈は長い。一瞬にして娘子軍の姿が草原のなかにたち消え、敵方は距離感を失った。

 風は森林から草原に向かって吹いている。娘子軍にとっては、あつらえの風だった。

両軍は接近し、射程距離に達した。お英はいきなり立ち上がり、敵に向かって、弓を連射した。横列にならんだ娘子軍も一斉に立ち上がり、矢を放った。

 うわさに高い即効性の毒矢が放たれたのだ。敵の最前列は総崩れになった。第二列目の兵は腰が引けた。毒矢の致命傷で、即死するものがほとんどだったが、死に切れず痙攣するもの、助けを求めて絶叫するものもいた。毒矢に当たった負傷兵には、触れることさえ禁じられていた。敵方は武器を捨て、算を乱して逃げ散った。

 味方の部隊を離れていたお玲は、毒矢の効果を知らない。ましてやお玲には、敵も味方もない。負傷して助けが必要なら、労わらなければならない。駆け寄ろうとするお玲の腕を、冼英は全力で押さえた。

「だめっ、触るとお玲まで死ぬ」

 お玲は愕然とした。あらためて冼英の怒りの激しさを思い知らされた。

 敵方が陣を立て直して再攻撃してこないのを確認したうえで、お英は兵を引き、陣営まで駆け戻った。お玲はよろけながら娘子軍の後を追った。

 陣営に戻ってはじめて、冼英はふつうの娘に戻った。お玲の手をとり、母のために慟哭した。一族の戦士たちも、哀哭した。

 お玲が手引きし、敵方の撤退した隙を見計らって母の遺体を掘り起こした。あらためて埋葬を済ませたのちも、お玲はゲリラの陣営を離れなかった。

「お英ねえさん、わたしも娘子軍に入れてください。わたしには人は殺せないから、弓はもてない。でも戦いのうしろ側で、負傷者の介護や食糧の調達、食事の世話、軍服のつくろい、武器の手入れなどならできる。病人の薬を調合したり、けがした人の手当てをしたりなど治療の方法は、葛徳さんからたくさん教わっています。わたしのできる範囲で、みんなと一緒に戦いたい」

 戦は前線の戦闘だけではない。後方の仕事も山ほどある。冼英はお玲の決意をみてとり、その場で許可した。

 翌日からお玲は若いむすめらに交じり、夢中で働いた。幼いときから奴隷の身で、さまざまな仕事をこなしてきた。いまは自由の身で、じぶんの意志で仲間のために働いている。懸命なようすは、だれの眼にも明らかだった。娘子軍の士気は、いやがうえにも高まった。


 高台や丘陵の村落に逃れ、かろうじて生き残った俚人は、つぎつぎに冼氏兄妹のあとを追って山中に潜った。孫冏軍が、人夫に徴発しようにも人は消え、強奪しようにも食糧はなかった。孫冏が発給する各郡各県の官印をうけた首領や峒主も徴用に応じず、それぞれ山里はなれたはるかな山峒にこもってしまった。


 官印をいただき、表立って孫冏軍に協力した部族・村落が、まさしく冼挺の復讐の標的となった。かれらが孫冏軍に提供した食糧は、孫冏陣営に引き渡すまえに冼挺の軍団によって強奪された。男どもが兵役や徭役に借り出され、年寄りと女こどもだけになった部落も対象だった。悪鬼と見紛う冼挺をまえにして、手向かうものはいなかった。族長は引きずり出され、ずたずたに切り殺された。首級は切り落とされ、次に標的になる村の門前に置かれた。

 恐怖におののいた村人は、みずから決起し、峒主や族長を襲い、村の門口に生きたまま縛り付けた。首には孫冏から支給された官印がぶら下げられていた。

「よくも大都老の父を裏切ってくれた。報いは鋸引きだ」

 冼挺のひと声で、族長は震え上がった。

「安心しろ。おまえひとりではない。一族もろとも鋸で首を引いてくれる」

 冼挺は冷たくいい放った。

 族長の家族が引き出された。妻や子、兄弟の嫁や子も含まれている。

「やめてくれ。せめて幼い子だけでも助けてくれ」

 族長は泣き叫んだ。

「おれの一族は、おまえらの裏切りで、皆殺しにされた。生まれたばかりの赤子まで焼いて殺したのは、どこのどいつだ」

 冼挺の怒りは収まらなかった。

 村塞が襲われ、藁小屋に火をつけられた光景が蘇えった。抵抗したおとこたちを殺したあと、掠奪の限りをつくした敵兵は、おんな子供を拉致して連れ去った。老衰で動けない年寄りや病人、そして歩けない幼子が藁小屋にひとまとめにされ、火をつけられたのだ。なかには冼挺自身の赤子も含まれていた。

 討伐軍の襲来をまえに、一族の家族を逃すことにかまけ、自分の家族にまで手が廻らなかった。あとでその事実を知らされた冼挺は、激しく悔いた。悔いた分だけ怒りは増幅した。復讐鬼となって報復せずにいられなかったのだ。

「はじめろ!」

 冼挺は手を振って合図した。

 族長の首を鋸歯のしたに据えた。恐怖で真っ青になった族長は、失神寸前だった。

「ひぃー」

 族長の妻が、声にならない悲鳴をあげた。鋸引きの男が鋸の柄に手を伸ばした。

 そのときだった。

「しばし、待たれい」

 凛とした声が、処刑場の出入り口付近から発せられた。

 馬上の青年だ。青年は冼挺に向かって馬を進め、近づくと下馬した。

「高凉俚人部族をたばねる冼挺どのであろう。申し遅れたが、わしは羅州(いまの広東化州市)刺史馮融が一子馮宝だ。このたび朝廷にあらせられては、孫冏を更迭し、広州刺史に部属する参軍の陳覇先どのを高要太守・西江督撫として新たに任命するご意向である。兵を引き、広州刺史との和解談合に応じていただきたい」

 馮宝は冼挺より三つ、四つうえになるが、見た目は若い。背が高く、いかつい顔につりあがった細い眼は、北方系の面立ちといっていい。

「したがってこの処刑、わしが預かる。是は是、非は非として、しかるべく審判いたすによって、この場はお引き取り願いたい」

「和解談合とは、戦をやめるということか。高凉征討軍を撤退させるということだな」

「さよう、おぬしらはよう戦われた。しかし、これいじょうの争いは無益である。朝廷はみずからの敗北を認めたと思ってもらってよい」

 冼挺の肩から力が抜けた。軍団の仲間たちが顔を見合わせた。いずれの顔にもほっとした安堵の表情が浮かんでいる。


 冼挺は、馮宝のうしろに葛徳の姿を認めた。笑顔でうなずいている。冼挺は得心した。

「よかろう。この場はおぬしに任せる。ただし、まだ孫冏と盧子雄が残っている。和解談合の話は、孫冏と盧子雄との決着が付いてからにしてもらえぬか」

「わしの一存ではなんともいえぬが、陳覇先どのなら黙認されよう。広州刺史はもはや孫冏と盧子雄を見放している。部族同士の争いなら、朝廷は関与しない。いずれ朝廷の側より和解の勅使がおぬしのもとへ遣わされることになる。その談判に応じて戦を収め、朝廷に帰順されるまでは、だれもおぬしらを止められはすまい」

 葛徳が仲立ちしたものなら、馮宝のことばを疑う余地はない。冼挺は馮宝の説得に応じた。族長への憎しみは消えなかったが、孫冏と盧子雄にたいする報復が優先した。

 とうぜん期限はある。和解の勅使が談判をはじめれば、勝手は許されない。

「急がれることだ。ひと月か、半月か。その間に、本懐遂げられよ」

 馮宝の好意が感じ取れた。

 冼挺は軍団に命じ、族長らを馮宝に引き渡した。

「いずれお目にかかる機会もあろうが、陳覇先どのにはよしなにお伝えいただきたい」

「確かに承った。おぬしらも息災であられよ」

 さわやかに受け答えし、馮宝は冼挺の軍団を見送った。

 馮宝のかたわらでうずくまっていた犬が立ち上がり、遠吠えした。あたかも狼と見紛う遠吠えである。去り行く軍団に向かって、長く尾をひくように吠えた。

 蒼い眼をもつ大型犬だった。

 眼の色に似て、毛並みも青味がかっている。無駄のない筋肉質で、がっしりした骨格は哲学的な面相とあいまって、凡庸でない出自をうかがわせるものがある。

「よい、よい。あおいよ、おまえもあの男に同類の血をみたか。冼挺、さすが音に聞く豪勇の猛者つわものよ。しかも乱世の梟雄きょうゆうというにふさわしい一徹さを帯びている。だが、あの一徹さが、かえって仇とならなければよいが」

 一徹とは、思い込んだらあくまでそれを通そうとするかたくなさをいう。

 梟雄とは、残忍で強い人をさす。代表格には、三国志の曹操が擬せられている。

 馮宝はひと目で冼挺の本質を見抜き、しかもその前途を危ぶんだのだ。馮宝のかたわらに立ち、同じく冼挺を見送った葛徳は、「なるほど」とその言にうなずいた。

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