第5章 騙し討ち
「お集まりの衆、遠路ご苦労であった。わしが高要太守・西江督撫の
孫冏は盧子雄を脇におき、百人を超える参列者をまえにして、居丈高に自己紹介した。
愛犬・
「こたびは、皇帝陛下の甥御さまにあたられる征南将軍・広州刺史の
皇帝とは、南朝梁の武帝のことだ。名誉ある報奨とは、高凉俚人の族長や峒主に郡の太守・県令の名号を封じようというもので、ポストを餌に各人を個別に懐柔し、俚人の結束を分断しようとする心理的高等戦術なのだ。
漢代、高凉地域は十二郡あり、郡の属下に七十余の県があった。南朝のとき、さらに細分化が進み、百県を越えた。今回は、それをさらに上積みしようというのだ。
前任者がいるにかかわらず、重複して任命する魂胆で、封土までは保証しないから名前だけの、いわゆる空手形だ。年貢取立ての代行をまかせる方便にすぎない。
この時代、嶺南の百越は、おおく俚人と称した。かれらは、むかしながらの蛮族の俗風を残し、部落ごとに各族が峒主・族長・大都老などの地域や地域連合の代表を立てて、小さく分立していた。ことに広東の西境から広西地域にかけて居住する俚人は、ひじょうに大きな人口比率を占めていた。当時、冼氏を大都老とする高凉の山洞部落だけで十余万戸あったという。一戸五人とすれば、五十余万人という大勢力になる。支配側の南朝梁にとっては、このうえなく目障りな存在に違いない。
さっそく大都老の冼企聖が反論した。
「しばしまたれい。わしらはなにも聞いておらぬ。こたびの集まりで、なされように納得できれば帰順に応じ、年貢の取立てに協力してもよい。ただし各村落にはそれぞれの事情がある。収穫のある年もあれば、収穫のない年もある。その事情に応じて年貢の上納には情実をくわえていただきたい、そんな思いがあって、話し合いに来たのだ。報奨の話をするまえに、貧しい各村落の実情についてご理解を賜わりたい」
「おや、大都老どの、異なことを申される。ご貴殿は、皇帝陛下の勅令にはしたがえぬと仰せであるか」
あえて反論を誘った孫冏が、「得たり」とばかりに応じる。
「そうはいわぬ。まず話を聞いていただきたいと申しておる」
「はて、この期に及んで、なにを申される。察するに、郡の太守では不服で、州の刺史をお望みか」
冼企聖に官職や爵位の望みはない。むしろ語るに落ちたのは、孫冏のほうだ。
じつは、「俚人を討ち平らげて高凉地域を再編し、新たに高州を建てれば、高州刺史に任じてもよい」と孫冏自身、朝廷より内々の詔令をうけていたのだ。孫冏は好機到来とばかり、てぐすねひいて準備した。それが、このたびの会合だ。
高凉地域で、日ごろ正論と称してなにかと朝廷にたてつく、大都老と冼一族の長老たちを、孤立させる狙いがあった。そのじつ、郡の太守や県令を僭称する野心家の峒主や部族長にターゲットを絞って、僭称を黙認するなどの鼻薬を利かせて、すでに手なずけてある。峒主や部族長らは筋書きにしたがって、口々に大都老を非難した。
「大都老、おことばであるが、太守にたいして僭越であろう」
「そもそも高凉の宿賊などと、不名誉な賊呼ばわりされるは、おことら冼一族の海賊働きの結果ではないか。帆船を仕立ててこうぜんと密輸し、一方で海賊働きに血道をあげるおことらに、部族を代表する資格はない。大都老の職を辞して、まず自ら衿を正してみせられてはいかが」
「問答無用。高凉の俚人に仇なす冼企聖、この場で血祭りにあげてくれるわ」
会合とは名ばかりだった。
孫冏は盧子雄と組んで、はなから紛糾するように仕組んでいた。冼一族に疎遠な山峒主や部族長を中心に、ひそかに反対勢力を育成していたのだ。
ことは、かねての手はずどおりに進行した。
各人はてんでに自己主張し、会合は野次と怒号につつまれた。議論の場どころではなくなったのだ。なかには刀を振り回し、恫喝するものさえいた。いつのまにか孫冏と盧子雄の姿は、その場から消えていた。
「まずい、罠にかかった」
冼企聖が気付いたときは、すでに遅かった。
会合の席にいきなり軍が
扉を蹴立てて乱入し、列席者を包囲した。
「朝廷に仇なす謀反人ども、武器を捨て、おとなしく縛につけ」
「これはしたり。われらに謀反の意志などござらぬ。いいがかりというものでござろう。その証拠に、ほれ、このとおり刀は抜いておらぬ」
冼企聖ら冼一族のおもだったものが、狙い撃ちされた。謀叛を企てた罪だと頭から容疑を突きつけられた。寝耳に水の驚きでひっしに弁明したが、もとより納得する相手ではない。
精鋭部隊は互いに目配せした。かねて打ち合わせてあったらしい。かれらは一斉に後ろに引いた。かわって物々しい軍装の兵士らが槍や刀を手にして殺到した。
白昼、官邸内での軍による露骨な殺戮劇が繰りひろげられた。抵抗する間もない。
冼企聖らは、有無をいわさずその場で切り殺された。明らかな
殺される直前、冼企聖は茜を放った。
「冼挺とお英に告げよ。なんとしても、われらが俚人を救うのだ!」
ウオーとひと声、高らかに同意を告げるや、茜は跳躍した。指揮する武将の首に喰らいつき、相手がひるむ隙に、突破口をひらいて味方の郎党を逃した。一部始終を目撃した郎党は、茜とともに囲みを破って脱出した。郎党は駆けた。追手は茜が防いだ。槍を突き出す相手の腕に咬みつき、弓を射る敵の指を食いちぎった。
馬を奪い、夜を日についで村塞に立ち返った郎党は、冼挺に注進した。
「なんとしたことか!」
冼挺は天を仰いで絶句した。
留守役のシロ・クロ・黄金丸がとつぜん吠えはじめ、門の外に向かって駆けだした。
ふだんでも紅紫色の美しい毛色をさらに紅の血潮で染めた茜が、息もたえだえに駆けてくる。
「あかねっ」
冼英も走った。無我夢中で茜を受け止め、抱きしめた。半ば閉じかけた茜の眼は告げていた。冼企聖らを守れなかったことを詫びていた。茜はだらりと舌を垂らして、力なく眼を閉じた。茜の命が尽きかかっていた。
犬たちはそろってけたたましく吠えつづけた。三途の川を渡らせまいと、ひっしに呼び戻したのだ。
なかば人であることを自認していた茜は、人間をまねて、冥土に向かって三途の川を渡っていた。そこは無色無音の世界で、水音さえない静寂のなか、川の向う岸をめざしていた。ようやく岸にたどりつこうというその寸前、とつぜん茜は友の呼び声を聞いた。一瞬、振り返った。つぎの瞬間、茜の網膜に色彩が蘇えった。
茜は生き返ったのだ。甦生した茜は、人ではなく犬のじぶんに戻っていた。
「村塞を捨て、山にこもって敵を討つ。親父どのの
冼挺はお英とはかり、村塞を捨てた。
高凉地域一帯に散在する冼一族の各村落に、犬の伝令が走った。
南朝のころ、広州はすでに大都会で、城区内は華やかに賑わっていた。戦火に追われ、中原から南遷する人びとがあとを絶たず、広州を筆頭に、嶺南一帯は人口が激増した。中原文化がどっと移入し、社会生活にも大きな変化がもたらされた。これら移民中に代々任官の家門があり、南遷にも一族で移動してきたから、朝廷は、以前どおりの待遇でその官職の世襲を認め、かれらを慰撫し、同時に朝廷の権力を誇示する必要があった。
そのためには、配分する土地のあることが前提となる。高凉俚人の居住する地域が、狙い撃ちされた。
嶺南の百越民族は、数百年の長きにわたる漢越融合を経て、かなりの部族がすでに漢化されていた。かれらはおもに広州付近の珠江三角州一帯、北江・西江とその支流など珠江水系の河川網が交錯する平原地帯に集中していた。とうぜん南遷漢人との雑居であり、南朝政府の統治下で、安全保障されていた。
それと対照的に、交通が不便な辺境地域、とくに高く険しい山林や丘陵地域に棲む、百越の後裔である俚人は、漢化の程度が比較的低かった。南朝政権は安定した政権ではなかったから、この地域に居住する俚人にたいして、その権力がじゅうぶんに行き届かなかった。そのため「俚をもって俚を治める」懐柔政策をとるか、武力征討による強圧政策をとるか、あるいは交互に使い分けるかしてきた。
懐柔政策の典型は、爵位官職の授与だ。爵は公侯、官は将軍・刺史・太守・県令などをさす。かれらの爵位官職は、歴代の朝廷にひきつがれ、子孫に世襲された。名実ともなわない位官も多かったが、勝手に自称するものもあり、土着の豪族として勢力を伸張する部族もでた。ときに本来の権限をもつ地方官とのあいだで、ひんぱんに摩擦をひきおこしていた。
「チベタン・スパニエル」という犬種がある。容姿が獅子(ライオン)に似ていることから、小さなライオンと呼ばれる。チベットのラマ教寺院で修行僧らによって飼育されて来た。
チベット人は再生(生まれかわり)の思想をもつ。かれらは犬を信仰の対象とした。
人も動物も同じ「魂」を持って生きており、人の前世や来世が動物であることに疑問をもたなかった。そこで動物とりわけ人の近くにいる犬は、大事に飼育された。
茜は、この犬種の流れを汲んでいた。
高凉俚人部族の宗教的伝統行事には、かならず上座に坐らされるから、「祈祷犬」として、しぜんに威厳めいた雰囲気が身についている。吠え声は
愛情深く利口だが、やや独善的。未知の人への警戒心は鋭い。
体長は体高よりわずかに長い。野ウサギ状の脚をもち、活発で敏捷だ。
甦生した茜は、生きながらにして、すでに伝説の神犬に近づいていた。
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