第4章 主従漂着
葛徳の連れていた黒犬は水が苦手らしく、桟橋の手前で尻込みしだしたから、岸辺においてきた。クロという。はじめ、川を下る帆船を追って川岸を駆けていたが、葛徳が「クロ、もうよい。待っておれ」と船上から手を振ると、追うのをやめ、岸辺にたたずんで船を見送った。
このクロも以心伝心で、人の指示が分かるようだ。ことに葛徳にたいしては絶対服従の態度がうかがわれる。
葛徳が冼英やお玲にたいする姿勢を見て、シロにたいしても上にたいする礼を意識してとっているようにも見える。出会ったはじめ、両犬は互いに嗅ぎあっていたが、やがてクロはシロにしたがうように、うつむき加減であとからついてくるようになった。
シロはメスの小犬だ。オスのクロは、シロをはるかに上回る大型犬だ。その大を小にしたがわせる、なんらかの要素をシロは持っているらしい。図体ばかりの大入道が小さな貴婦人の威厳に押さえ込まれている。いともユーモラスな取り合わせだ。
あるいはクロは、シロに遠慮して乗船しなかったのかも知れない。
犬は飼い主に似る。クロも葛徳に似て穏やかな性格で、人に安心感を与える。怠惰の風はなく、暇にまかせてダラッと寝そべるようなことはしない。つねに神経を
そのクロがなにか異常を感じて、川岸のあたりをしきりに嗅ぎはじめた。
とつぜんクロは吼え、駆け出した。その先の河原で数匹の野良犬が獲物をなかにして睨みあっていた。仔細にみれば、敵味方三対一だ。獲物を守る形で一匹の黄毛の犬が三匹の野良犬に対抗している。
格が違う、とでもいおうか、クロが低く唸りながら近づくと、野良犬たちは尻尾を垂れて、後ろへ引き下った。水際に男がひとり流れ着いていたのだ。
クロの姿を見て、味方と思ったか、黄毛の犬は小さく唸るとその場にうずくまった。疲労困憊の態に見てとれる。
クロは水に弱い。じぶんではそれ以上前に進めない。やにわに後方の野良犬たちに向かって、ひと声ふた声、大きく吼えた。それはあたかも、手を貸せといわんばかりの仕草だった。漂着した男は、野良犬たちにくわえられ、水から引き上げられた。
クロは王者然として、ゆっくり近づいた。野良犬たちは退き、クロに席を譲るかたちになった。クロはクンクンと臭いを嗅いで、息のあるのを確認すると、こんどは男の顔を甞めはじめた。ピチャピチャと甞める音が立つうち、はじめ青白かった男の顔に生気が蘇えった、男は薄目を開けた。クロと目があった。
「
男は叫んで、半身起き上がり、クロの首に抱きつこうとした。
一瞬早く、クロは飛び
甦生した男のそれが力の限度だった。男はふたたび昏倒した。ふらふらとよろめきながら近づいた黄毛の犬は、倒れた男のかたわらで、これも昏倒した。
しばらく様子を窺っていたクロは、やがて南の海に向かって大きな遠吠えをなんども繰り返した。
シロが北の空に向かって吠え出した。お玲がいくらなだめてもやめなかった。
「クロがシロに、なにかを報せてきたらしい」
葛徳が異変を察し、冼英に告げた。
「犬には人をはるかに上回る予知能力と聴覚があります。船に『フェイヌー(飛奴)』を積んでおられましたね。船の出た桟橋付近にクロがいるので、至急探すよう冼挺どのに伝えていただけませんか」
「飛奴」とは伝書鳩のことだ。すでに古代から高速通信手段として実用化されている。冼英は脚に
漂着者と黄毛の犬は救助され、冼挺の屋敷に搬送された。
嵐がおさまった翌朝、帆船は
嵐は一変し、海は穏やかに凪いでいた。十人は櫓を漕いだ。
日が落ちるまえに屋敷へ戻った冼英ら一行は、漂着者を見舞った。
男は回復し、床の上に起き上がっていた。
「このたびはお助けいただき、ありがとうございます。わたしはワスケといいます」
律儀にあいさつすることばには江南の訛りがある。ややことばに詰まりながらも意思は通じる。
「――?」
葛徳がなにかを訊ねている。南方のことばではない。いくつか他の地域のことばでワスケと名乗る男に問いかけているようすだ。
なんど目かに、どうやら通じたらしい。男が反応した。
「おぬし、ヤマト(倭)の国のことばをご存知か」
「いや、知っているのは、『あなたはどこの国の人か』、これだけです」
そういいながら葛徳は、枕元でワスケの安否をうかがう黄毛の頭をなでた。
「賢そうな犬ですね。お国からつれてこられたか」
「黄色を
ワスケの緊張感が解け、しぜんに顔がほころんでいる。越人に似ていないこともない。葛徳の巧みな問いかけもあり、ワスケはとつとつと語りだした。
「わたしはヤマトの国のものです。ヤマトの国は、
ちなみに筑紫の島は、いまの九州であり、五島は、長崎の五島列島のことだ。
「おお、クロよ、ありがとう。この恩はけっして忘れぬ。黄金丸の分もあわせて、ありがとうといわせていただく」
葛徳のとなりに正座するクロと目が合うと、ワスケは合掌して、ていねいに礼をいった。素朴な人柄がにじみ出ている。うずくまっていた黄金丸が立ち上がり、ワンと呼応した。
クロはきまり悪げにシロを見た。冼英とお玲のあいだで坐っていたシロは、「でかした」といわんばかりに、おうようにうなずくようなしぐさをした。
「海人ならば、われらと同じ仲間だ。船が難破し、この地へ漂着したは、前世の
冼挺が声をかけ、立ち上がった。
「かたじけない」
ワスケは律義に頭を下げた。
「じゃ、このあとはお玲にまかせますから、不自由なことがあれば、なんでもいってくださいね」
お英も立ち上がった。冼挺が目でうながしたのだ。
「親父どのがお呼びだ。そのままでよい。わしと一緒に親父どののもとに参ろう」
神妙な面持ちで冼挺がいった。
「戦ですか」
お英も緊張して問いかけた。
「いや、すぐにということではないが、どことなくきな臭い」
ふたりをまえにして、冼企聖はおもむろに口をひらいた。他の幹部は外してある。
「広州刺史 蕭暎さまの命令だといって、高要太守・西江督撫の孫冏どのから呼び出しがあった。『戦は回避する。かわりに年貢取立ての会合を開いて、取り分割当ての相談をするので、各部族の首領を高要へ招集してもらいたい』という申し入れだ。戦が回避できるならば、否やはない。わしはこの申し出を受けようと思う」
父の大都老は、いきなり胸のうちを明かした。
「
冼挺は眉をひそめて小声で訊ねた。海賊働きは謀略行為だ。海賊働きで培ったみずからの体験から推すと、孫冏の申し出は謀略の可能性が高い。裏があるに違いない。
「かもしれんが、孫冏どのとて恥を知る武将であろう。朝廷の名で開く会合にだまし討ちもあるまい。よしんばそうだとしても、拒否すれば、わしら俚人討伐の口実を与えることになる。なにより戦回避の機会を黙って逃す手はない。このところ、峒主や部族長でかってに郡の太守や県令を僭称しておるものも多く、放っておくと収拾のつかないことになる。整頓するにはよい機会かもしれぬ。大都老としてのわしの職分と心得えるなら、会合に出るは、とうぜんの務めであろう」
誇り高き大都老は、胸を張って断言した。
「ただし万が一ということもある。冼挺とお英は会合には参加せず、村塞に残って、ことの趨勢を見守っていてもらいたい」
冼企聖は冼挺に命じ、高凉地域の峒主や部族長を説いて参加させた。かれらもまたそれぞれの思惑を胸に秘めて、多くは問わずにしたがった。
高要は広州の西八十キロの地点にある。いまの
「三日もあれば着く。高凉冼一族の主だったものを連れてゆくが、供回りの郎党はできるだけ少数にしぼり、あまり目だたぬように気配りしてくれ」
武張った物々しいなりは避け、物見遊山の風流人を装ったいでたちだ。ただ道中の安全を配慮し、手練の郎党数名を同行させた。それでも総勢二十余名、いやでも目につく。
「ならば、ふた手に分けよう。道のりの過半はかって知ったる、わが庭もどうぜんの山林だ。そうそう、こたびは
茜は代々冼家の守り神として飼っている、紅紫色の毛並みを持つメスの中型犬だ。シロや新来のクロと黄金丸を、主人然として一歩高見から見おろしている風がある。差別して見くだすのではない。人と同じ目で犬を見ているのだ。じぶんを人と思い、他の犬と区別しているのだ。
冼挺とお英は村塞のはずれまで、父の一行を見送った。
「茜、お父さまを頼んだよ」
冼英は茜に頬ずりして、委託した。茜は「まかしておいて」といわんばかりに、後ろ足で立ち上がり、冼英に抱きついて、ところかまわず甞めまくった。
他の三匹もワンワン、クンクンとまとわりついてにぎやかに祝福し、見えなくなったあとも、しばらくは遠吠えを交換しあっていた。
「ヤマトの国って遠いの。北にあるんでしょ。ここよりずっと寒いのかしら」
お玲はヤマトの国に興味を持った。じぶんの出身地林邑から見れば、とてつもない北方に位置する。ワスケの回復に応じて、ヤマトの国の話をしきりにせがんだ。
「そうだなあ。ごくまれなことだが、寒いときには雪が降ることもある」
「えっ、雪ってなあに」
お玲は雪を知らない。五嶺山脈の北側にあたる湖南に降ることはあっても、山間部を除いては、嶺南に雪は降らないからだ。
「綿のように軽くて白いものだ。味はなく、冷たい。口にほおばって食べることもできる」
ワスケの語彙は限られている。ことばに詰まると話題をかえる。
「わしの育った筑紫の国では、稲を栽培している。長い粒の稲だ。水が豊富にあり、地味に恵まれた土地柄だから、収穫量も大きい。春のはじめ、土が起こされ黒々とした田に水が張られる。水に空の色が映り、青い水田になるころ田植えがはじまり、稲の苗で国中が緑一色に染められる。やがて夏がすぎると、実がなり、稲の穂が黄金色に光る。秋の刈りいれどきには、山の麓一面が黄金色の美しい大地にかわる。風が吹くと稲穂がゆれて、鈴の音をかもしだす」
ワスケは詠うように語って聞かせた。現地を知らないお玲にイメージが伝わる。黄金丸までつられて擦り寄ってくる。お玲は黄金丸の美しい毛並みに稲穂の黄金色を重ねあわせて、やさしく撫でながら、まだ見ぬヤマトの国を想像した。
「いつかわたしもいってみたい。連れていってくれる?」
「こんど帰るとき、一緒にいけばいい」
ワスケが無責任に同意した。たがいに異国人同士という暗黙の了解が、男女の垣根を取り払っていた。
控えめで寡黙なお玲が、ワスケのまえではまったくこだわりをみせない。
「約束よ」
お玲はワスケに指切りをせがんだ。ごくしぜんに、ふたりは指をからませた。
かってにしろといった顔で、シロはそっぽを向いている。
海で遭難したとはいえ、ワスケは海の若者だ。回復は早い。日増しに体力を取り戻し、葛徳を相手に組打ちの稽古をしたり、天文や雲気の観察法を学んだりしている。天文や雲気は航海に必須の対象だ。
「なにさ、一番弟子はわたしなんだから」
ときにお玲があいだに割ってはいろうとするが、
「組打ちするか」
おどけて跳びかかるワスケに、
「キャー、助けて!」
悲鳴を上げて逃げまわった。
ワスケの回復に先立ち、黄金丸も回復した。見知らぬ南方の地に来ている。探究心旺盛で、明け方にはもう飛び出し、周辺を探りまわっては、ワスケの起きるまでに戻ってくる。シロやクロを伴うこともあれば、独自にゆくこともある。日の出に関心があり、小高い丘のうえに立つと、東の空に昇る太陽に向かって、細く長く遠吠えをくりかえす。
ワスケは、「明け方の太陽を見ると、故郷を思い出す」といって、朝の礼を欠かさない。起床すると庭に下りて合掌し、手を打ち鳴らして、深々と太陽に礼を繰り返す。その折、黄金丸も後ろに控え、じっと主人を見守っている。ときに顔を上げて、朝日を凝視することがある。
黄金丸は日本の柴犬の原種にあたる。日本犬に特有の「自立性」を黄金丸も身につけている。誇張していえば「自我の意識」をもって他者にたいしている。
奔放に悪ふざけする主人のワスケにたいし、超然と構えている風がある。悪ふざけに便乗し、シロにじゃれつくということはない。
かといって主人やシロに無関心だというわけではない。後世の柴犬と同様に、主人に忠実で服従心に満ち溢れていることにかわりはない。
関心はあっても露骨な心情表現をてらうというか、要するにシャイなのだ。
そのことはクロにたいする態度にも表れている。
ワスケが、「この恩はけっして忘れぬ」とクロに合掌して感謝した礼を、黄金丸もけっして忘れることはない。じぶんの出番以外ではつねに一歩引いて、クロを立てる義理堅い姿勢を崩さない。
そのかわり、いざ出番と決めたときの行動には、眼を見張るものがある。頑健な体躯をフルにつかい、空を飛ばんばかりに跳躍し、きびきびしたすばやい動作を見せる。
これはのちの話になるが、少年
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