第2章 俚人狩り
「えらいことになった。また戦がはじまる」
南海郡の治所である広州の得意先に奴隷を売りさばきにいっていた冼挺が、息せき切って帰ってきた。
屋敷へはいるなり、柄杓ごと音を立てて水を飲みだした。夏、炎天の真っ盛りだ。全身に玉の汗が噴き出している。
父冼企聖をはじめ、高涼俚人冼一族のおもだった面々が集まっていた。お英も
冼挺は、ゆくときにはいなかった連れを紹介した。若い方士だ。黒い毛並みの逞しいオス犬をともなっている。
「いずれの御仁か」
「帰りがけ、
「立派な犬をお持ちじゃ」
ここ高凉で、犬連れ犬好きは、それだけでもじゅうぶんな信用格付けが得られる。ましてや羅浮山は元始天王盤古を祀る神霊山であり、葛恩といえば煉丹道士
一方、冼一族が緊張して冼挺を出迎えたのには理由がある。
かれらは、冼挺のもたらす情報を待ちわびていたのだ。
「朝廷のご意向は、どう決したか」
かれらはかたずをのんで、冼挺の次のことばを待った。
梁の武帝
「徴税のかわりだというが、やっていることは盗賊とかわらん。皇帝の一族で、広州刺史・征南将軍の
ここまで一気に語った冼挺は、ホッとひと息ついて身震いした。まわりの人びとも、つられて息を吐いた。やや緊張がほぐれた。しかしかれらはたがいに顔を見合わせたきり、なにもいわなかった。だれもがすでに、覚悟を決めていた。
かくなるうえは、徹底抗戦か、山間部の洞窟、山洞に逃げ込むしかない。
「昔なら海に逃げた。海のシルクロードが拓かれていた」
冼企聖はせっぱ詰まった表情でつぶやいた。お英がはじめて見る父の一面である。
「海のシルクロード?それってなんですか」
お英は父に問うた。父は七百年まえの話だがと前置きして、語ってくれた。
かつて百越の地に存在した南越国を滅ぼした漢の武帝は、大規模な海外貿易に乗り出した。漢の財政建て直しのため、南越国の事業を承継したのだ。高凉俚人のうち海人に属する部族が、事業を引き継いでいた。中国特産の絹織物・茶・陶器などを輸出し、南洋や西方の珍しい品々、ガラスや銀の容器・象牙・ルビーなどの宝玉を輸入するのだ。
武帝の船団の寄港地が史書に残されている。日南(ベトナム中部フエ)・象林(ベトナム広南濰川南)・
現地との交渉にことばの問題は欠かせない。漢の交易船の人々は寄港地に上陸するや、真っ先に通訳を捜した。通訳は容易に見つかった。どの港にも、かならず通訳できる人間がいたのだ。かれらは主に華南の方言を話したが、漢字を知っていれば、方言にかかわらず筆談で通じた。試みに数代まえの出身地を尋ねると、多くは南越国に集中していた。紀元前一世紀の南越国の時代、すでに南洋航路が拓かれていたことの証左だった。当時かれらは、すでに南洋以西、いまの中近東、北アフリカまで交易ルートを拓いていたといわれる。
好みの寄港地を選び、陸に上がった海人の子孫たちは、やがて仮寓の地で定着し、事業に成功すると親族を呼んだ。これが伝統になり、戦乱や自然災害で生活に窮すると、海浜近くに住む人々は大挙して、海外に移民するようになる。高凉俚人に顕著にみられる。この緊急避難の民が、いまの華僑のはしりだ。ときの政府の動向により、禁制と解禁が交互した。いま海外渡航は禁制されて久しい。
「できれば戦は避けたい」
冼企聖がポツリと本音を洩らした。
「わしのもとに和平帰順の誘いがきておる。わしが大都老として束ねる高凉俚人の部族だけでも、年々の租税を間違いなく上納すれば、未納分には目をつぶろうという条件だ」
「俚をもって俚を治める」懐柔政策に他ならない。
地方行政の一部、租税の徴収代行権をあたえるかわりに、徴税を実行せよというものだ。その代行権には、徴収した租税から一定比率を控除したうえで上納することが認められているから、代行者にとっては悪くない実入りになる。じっさいに委任されている部族長も出てきている。ただし朝廷の代官にかわって俚人から年貢を収奪するわけで、俚人の生活を守るべき大都老のなすべき仕事ではない。
父の苦衷を察して、冼挺がはなしを引き取った。
「高凉地域は森林におおわれた丘陵地帯が多く、光が閉ざされるから地味も悪い。珠江周辺の肥沃な地域とは農業収穫量に大きな格差がある。じぶんたちが食う分を稼ぐのが、精一杯だ。もともとわれら部族の半分は海人の血を引いている。海へ出てこそ本来の力量が発揮できる。しかし朝廷は対外交易や航海の仕事を独占し、われらが海に出ることを認めない。勝手に出れば海賊と決め付け、懲罰軍を送り込んで、わけまえを分捕りにくる。それでもいい。まだ儲けは残る。おれたち若いもんがもうひと働きすればすむことだ」
冼挺は胸を張って言い切った。
しかし冼挺の思惑とはべつに、今回の広州刺史交代にあたっては、南朝皇帝からの明確な指示が伝えられていた。久しく朝貢せず、徴用にも服さぬ、「奴隷売り」で「海賊」の高凉俚人にたいし、硬軟二とおりの政策を講じて、いずれか処置するよう、きつく命じられていたのだ。
ひとつは、兵力を集中して軍事討伐することであり、いまひとつは、帰順させ籠絡懐柔して教化することだった。
新任の広州刺史蕭暎は、はなから帰順工作を放棄し、征討鎮圧を選択していた。
南朝は嶺南の賦役(地租と夫役)を取り立てるのに、統一した基準を持たなかった。州郡県がそれぞれの地方の特性によって任意に徴集するにまかせ、長期的な展望にたった法令はなかったから、ますます地方豪族に富を積ませる機会を提供するありさまだった。
当時、嶺南の海上貿易はまだ専門の管理機構がなく、行政長官――広州刺史と南海郡太守が兼務していた。権力を握るものは輸入貨物にたいし、安く値踏みした価格で買い入れ、高値で投売りし、思いのままの高額な利益を獲得した。「州郡は半値で取引をはじめ、また買い戻してすぐに売るから、その利は数倍になる」といわれた。
南朝の官吏たちの汚職は晋代よりもさらにはなはだしくなっており、かれらはありとあらゆる手段を使って富を収奪した。広州の刺史を歴任して暴富を得ないものはなかったから民間では、「広州の刺史は城門を一回くぐるだけで、三千万銭手に入る」と風刺した。
冼英は十八になっていた。兄冼挺とは六つ離れていたから、いまさら兄っ子でもない。冼挺はすでに結婚し、子を持つ親になっていた。父冼企聖のもとで次期大都老としての務めを学ぶべく、ひまなく部族内を駆けまわっている。
この時代、冼英はふつうならすでに結婚し、こどもがいてもおかしくない歳だ。それが高凉部族の内外で、不穏な動きが急浮上し、調整の仕事にかまけて、一日延ばしにしているうちに事態が紛糾し、いまや結婚どころではなくなってしまったのだ。
三年まえの掃討で村落が焼き討ちにあうまえからだから、もう四、五年くらいになるだろうか。年に二、三度、冼挺は数ヶ月間、屋敷を留守にすることがあった。遠方の一族を見舞ってくるとはいっていたが、真っ黒に日焼けして帰って来た顔は、どう見ても海で仕込んだものだった。同じ時期に若衆輩が大勢連れだって出かけていたから、隠しようがなかった。かれらは折にふれ、海賊働きや奴隷狩りに出かけていたのだ。
このことをはじめて知ったこどものころ、冼英は胸が締め付けられるような痛みを感じた。それまでずっと慕い、尊敬し、誇りに思ってきた兄だった。できれば嘘であってほしかった。
冼挺が旅支度をしているとき、いちど直接問いただしたことがある。
「兄さま、こたびはいずこへおいでじゃ」
「
「交易にしては荷が少ないようだが」
「往きは軽いにかぎる。満杯にして帰るからかまいない」
ことばどおり、数ヵ月後には、船荷を満載にして帰ってきた。あまつさえ別の船を曳いており、おまけに奴隷を大勢ひきつれていた。いずれも戦争の鹵獲品だというが、明らかに海賊働きの戦利品に違いなかった。
「おやめくだされ」
なんども糾したが、はじめは取りあってくれなかった。ただ、冼英が激しく糾すのに根負けし、ついには本音を吐いた。
「海の獲物が少ないときは、沿岸から他の部族集落を襲うのだ。人と財貨を略奪する。理由はいわずと知れたこと。冼氏俚人一族が生きるためだ。なに、じぶんたちがやられたことを、べつのところでやり返しているだけのことだ」
臆面もなく胸をはって答えた。いっこうに改めるようすはない。
――それは違う。たとえぎりぎり生き残るためであっても、人にはやって赦されることと、赦されないことがある。
冼英は悩んだ。悩んだ末に、やはりやってはいけない、やめるべきだ、いやぜったいにやめさせなければならないと、わが心にいい聞かせた。
しかし、やめさせるためには、それにかわるだけの実入りがべつになければならない。一族が生き残るための生活の糧は、なにに頼ればいいのか、深く思いを凝らして、冼英は一族の過去の越し方を振り返っば、てみた。
いま村落の周囲には、むかしながらのたち遅れた貧しい田畑が点在していた。三年前の掃討で、それまでの土地を追われ、新たに山坂をきり拓いてこしらえた新開地だった。苦労の末、ようやくどうにか収穫のめどがたったばかりで、これからというときにあたる。
それでさえ戦火が迫れば、うちすててさらに奥地へ避難しなければならない。族民を守り育て、一族を永らえ、後世につなぐための哀しい宿命だ。
いまにして冼英は思う。
――定住の地がほしい、どんなに苦労してでもいい。定住の地でさえあれ苦労のしがいもある。数年おきに転々として移動しなければならない生活は悲惨だ。せめて戦のない、長く住みつける、安心した暮らしがほしい。
冼英は願い、そして決意した。
――そのためには、まず、みずからが姿勢を正すことだ。
海賊行為や他部族にたいする掠奪は、二度とやってはならない。
兄を説いてやめてもらう。その上で、新たな土地を開拓し、農業と漁労を併用し、さらに正規の航海を認めてもらい、業として正々堂々と交易活動を行うのだ。かつてのように世界のあちこちに新天地をもてるようになるかもしれない。
しかし冼英は、この決意を心の奥に深くしまいこんだ。
俚人狩りが目前に迫っていたのだった。
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