第9話 潔癖症
男は極度の潔癖症で、常日頃マスクや手袋を身に着けていた。そんな男が一番苦痛に感じていたのが出勤時の電車の中だった。電車の中はぎゅうぎゅう詰めまではいかないまでも、大変込み合っていた。肩と肩がぶつかったり、顔の近くでくしゃみや咳をされるといった行為も日常茶飯事だった。
男はいつもマスクや手袋の上から他人の細菌が体に侵入してこないかビクつきながら、車内の片隅で小さくなっていた。
そんなに苦痛なら電車通勤を止めればいいのだがそうもいかなかった。なぜなら、男が就いている職は役人の中でもエリートしか就くことの出来ない職で、その者たちを運ぶ専用の電車で毎朝通勤しなければいけなかったからである。
男は朝の出勤時以外はこの職に満足していた。給料は他の職に比べて大分高いし、なにより自分は選ばれた人間であるという事に誇りを持っていた。
ここは一般の者では入る事が許されない国の中枢、我々がこの国を動かしているんだ。あれぐらい我慢しなくては。
男はこんな事を思いながら毎朝の出勤を耐えていた。
そんな中、男に朗報が入る。何でも潔癖症向けの新商品が開発されたという。その商品は新しく発見された元素で作られたクリームだった。それを手や顔に塗ると、薄い透明な膜に包まれ、あらゆる細菌を百パーセントブロックできるという代物だった。
男は早速購入し、試してみた。
まるで世界が変わった。この商品のおかげで、煩わしいマスクや手袋を着ける事も無くなった。
なんて快適なんだ。たまに他人のくしゃみ等が飛んでくるが、全く不快じゃない。多分顔に当たってると思われるが、全く感じない。それぐらいこの商品の効果は凄まじかった。
もう自分が潔癖症だということを忘れてしまいそうだ。もうこの商品を手放すことは出来ない。
そんな事を思う男だったが、一つだけ不安材料があった。
それは、商品の値段が高いのである。
こればっかりは仕方がなかった。まだ市場に量産体制で出回ってないのかとても高額だった。
贅沢しなければ月の給料で賄える。そのうち安くなると思うから、それまでは我慢だ。
男は節制をしながら、この商品を使い続けた。
男のような一部の者にしか使われていない商品だったが、とうとう周りにまで使われるようになった。花粉症の季節が到来したからである。
例年だと男が乗る専用の電車では多くの人がマスクを着用していたが、今年は違っていた。皆が皆マスクを着けていないのだ。おそらく皆あの商品を使用して、いちいちマスクを着けるのが馬鹿馬鹿しくなったのであろう。
全員が使用している事もあってか、くしゃみや咳が飛んでくるといった、花粉症の脅威にさらされる事は無く、男たちが乗る電車は非常に快適だった。
良かった。さすがエリート集団。高い商品なんてなんのその、それに比べて今頃、一般の電車は酷いんだろうな。そんな事を思うと自然と笑いが込み上げてくるのだった。
花粉症の季節が過ぎようとしていたが、高額の商品にもかかわらずエリート役人たちはあの商品を使い続けていた。これは一種のステータスになっていた。
一般人には使い続けられない。我々のような選ばれた者にしか使い続けられないのだ。そんな風に意識が変わっていた。
そうなるとたまに、金策が尽きたのか、商品を使わずマスクを着けた者が電車を利用する。その者に対しては皆、侮蔑や軽蔑の眼差しを送り、その者はそれ以降露骨に避けられるようになっていた。
もちろん風邪なんて言い訳は通用しない。なぜなら、あの商品を使っていれば風邪なんてかかる訳もないのだから。
そんな光景を見ていた男は、絶対ああはならないようにと心掛けていた。
だがそんな男を試練が襲う。実家や自分の身に立て続けに不幸な事が起き、とうとう貯金が底を尽き商品代が払えなくなっていたのだ。
どうしよう。このままじゃ数日で在庫がきれる。新しく買う余裕もないし。
男は困っていた。またマスクや手袋を着ける羽目になるのか。それよりも皆から露骨に嫌われる。一体どうすれば。
そんな事を考えながら、とうとうその日を迎えた。
もうクリームはない。マスクを着けていくと嫌われる。仕事を休む訳にもいかないし、となると残りの手段は……
男は決断し、ある行動に出た。それは大胆にもマスクや手袋を着けずに出勤したのである。
幸いクリームは無色透明で肉眼ではつけているのか、つけてないのかさっぱり分からず、ばれる事はないはず。
潔癖症に関しては周りの全員があのクリームを使っているのだから、電車の中は無菌室のように綺麗も同然。細菌が体に触れるなんてある訳ない。
そんな事を思い込みながら、いざ電車へと乗り込んだ。
良かった。普段と変わりない。誰も自分に対して気にする素振りを見せない。このまま何事もなく着いてくれ。
その時電車が揺れ、隣の人とぶつかった。
「大丈夫ですか?」バランスを崩した中年女性に手を伸ばす。
「ええ、ありがとう」中年女性はそう言いながら男の手をとり元の位置に戻る。
そこで中年女性と目が合った。
「おや、あなた……」そう言いながらじっと見つめてくる。
まずい。もしかしてばれたか。肉眼では見つからないと思ったけど何か自分の知らない不備があったか。
男は生きた心地がしないまま中年女性の反応を待った。
「あなた、その顔……」
やっぱり、ばれたのか。神様助けて。
「海外の俳優に似てるって良く言われない?」
「えっ、いや、そんな事初めて言われましたけど」
「あら、そう。私最近、海外のドラマにハマっていてその俳優さんに似ているもんだからつい……」
「はぁ、そうですか」
良かった。てっきりばれてるもんだと思ったから助かった。
男は目的地に着くまで、中年女性の海外ドラマの話をうわの空で聞き流しながら、助かったと余韻に浸っていた。
その日を乗り切った男はその勢いのまま数日を過ごした。
良かったバレる気配なんて微塵もない。これからはあの高額な商品を買わなくて済みそうだ。その分思いっきり贅沢しよう。
男は潔癖症問題も、お金の問題も一石二鳥で解決したと有頂天になっていた。
所変わって、ある二人組の会話が聞こえてきた。
「先輩、電車の清掃きついっすね」
「そりゃ仕事だからな。よしここも終わり。次でラストだな」
「最後は……やった、エリート役人の電車ですよ。大分楽できそうですね」
「そうだな。さっきの一般の電車なんて細菌汚染率六十パーセント近かったからな。除染し終えるの苦労したぜ」
「じゃあ、ここはいつものようにぱぱっと除染液吹きかけるだけでいいですよね?」
「まあ待て、一応規則だからな。メーターで細菌汚染率を調べてからだ」
「先輩ちょっと見て下さい。おかしいですよ。汚染率が百パーセントに近いです」
「どれどれ、本当だ。これはメーターが故障してるな。エリート役人共の電車の汚染率がこんなに高いはずがねぇ。どれ、俺ので調べてみるか」
「本当ですよね。いつもはゼロに近いからすぐに終わりますもんね。この数字が本当だったら残業間違いなしですよ」
「嘘だろ……」
「先輩どうしました……ってこのメーターも百パーセントに近いじゃないですか」
「ああ、二つのメーターが故障なんてありえないからな。この数値は本物だ」
「でも、一般の電車でもここまでひどくないですよ」
「これは、細菌の対策が全然されてないって事だ」
「えっと、つまりどういう事ですか?」
「つまり、この電車に乗ってる奴ら全員が全員、それぞれの細菌を持ち寄って共有してるってことだ。一人や数人が細菌の対策を怠ってもここまではひどくならねぇ」
「ひぃえー。前回まではゼロだったのに一体どうしたんですかね。あのくそ高い商品使っているはずなのに」
「知るか。この様子じゃ誰も使ってねえな。そんな事より早く始めないと帰るのが遅くなるぞ」
「くそー、今日は早く帰れると思ったのに」
エリート役人たちは今日も往く。電車の中を誇りと見栄と細菌で一杯にしながら、国の中枢へと向かうのだった。
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