第7話 カレンダー
男は寒さに体を震わせながらその時が来るのを待っていた。
「あと少しか」
そう呟くと、携帯電話をダウンのポケットに引っ込めた。
改めて辺りを見回す。やはり気味が悪い。男はこんな所からすぐにでも引き上げたかったが、目的のためにも残らざるをえなかった。
男は中年でこの年になるまで一度も定職にはつかず、アルバイトや派遣会社等を転々としていた。そんな生活を続けていると、やはりお金は貯まらず毎日貧乏な生活を送っていた。
男はそんなみじめな生活から何とか抜け出したかったが、そうそう世の中は甘くなく、宝くじでも当たらないかぎり無理だなと、半ば諦めていた。
そんな男にある噂が耳に入る。それは、ある廃屋になった神社で新年になった瞬間に人生を変えたいと願うと、悪魔が出てきてその願いを叶えてくれるというものだった。
噂によると、その悪魔の力は絶大で、願いごとをした者は皆、急に大金を持つようになり、そのお金で高級マンションに住んだり、海外を旅行したりと、好きなことをやりたい放題出来るようになるという。
但し、うまい話ばかりだけではなく、ちゃんと悪いことも起きるようだ。それは、どんなに健康体で事故にも気をつけていても、願いごとをした年の大晦日の夜に何らかの原因で亡くなるそうだ。
要約すると、悪魔の力でお金持ちになって好きな事ができるが、一年間しか生きられないというのが男の聞いた噂の内容である。
まあ、神様ではなく悪魔が願いを叶えてくれるのだからそれくらいは当然か。
男はそんな事を思いながら、人気もない今にも崩壊しそうなボロボロでさびれた神社で一人新年を迎えようとしていた。
近くの大きな神社からは先程から鐘の音が鳴り響いている。
男は最初その音を合図にボロボロの賽銭箱の前で身構えていたが、鐘の音が鳴り響くごとに、煩悩なのか酒が抜けているのか分からないが、だんだんと冷静になっていた。
ああ、今頃向こうでは皆、友達や家族同士で仲良く初詣をしているんだろうな。それに比べて俺は……
男は酒の勢いでここまで来たことに後悔をしていた。
なんてみじめなんだ、だから俺はこんなんなんだ。もう嘘だったとしてもいいや。さっさと済まして早く帰ろう。
男はすぐにでも踵を返したい欲求を我慢して最後の鐘の音が鳴り響くのを待ち続けた。
やっと最後の鐘が鳴らされたようだ。時刻を確認する。零時ちょうどだ。
「よし」
そう言って男は祈った。手を合わせ、目を瞑り、心の中で願った。
頼む、こんな人生もう沢山だ。悪魔でも何でもいい、俺の命なんてくれてやるから今のこのみじめな状況を変えてくれ。
男は心の中で叫ぶようにそう願った。
その時、何か雰囲気が変わるのを感じた。男は恐る恐る眼を開く。
そこには、漫画やテレビで出てくるような悪魔の姿があった。
「俺を呼び出したのはお前か?」
あまりの事に反応出来ない男をよそに、悪魔は続ける。
「ええと、ああ思い出した。そらっ」
そう言って、悪魔は何もない空間からなにか物を取り出すと、男に向かって放り投げた。
男は驚いたがとっさに反応してそれを受け取った。
カレンダーだった。それも日めくり用のやつだ。
悪魔は男がそれを受け取ったのを確認すると、
「いいか、お前が今手にしている物はお前の命のような物だ。それの最後の一枚が破られた時、お前を迎えに行く。せいぜい大事に扱うんだな」
そう言って悪魔の姿は空間に吸い込まれるように消えていった。
男はしばらくの間固まっていたが、ふと我に返ると急に怖くなって一目散に自宅に戻った。
男が目覚めるとすでに一月二日の午前零時になっていた。
どうやら今まで眠っていたらしい。しかしあれは何だったのか? 悪い夢を見ていたのか?
男はあの夜から今までの記憶を整理しようとしたが、全く思い出せなかった。
そうだ! 確か…… カレンダー。あれを受け取ったような? 男は曖昧な記憶の中でもそれだけははっきり覚えていた。
男はきょろきょろとそれがないか、辺りを探した。
あった。それは目立つように壁にかけられていた。
やっぱり夢じゃなかったのか。それにしても誰がかけたのか、きれいにセットされていた。それに、ついでなのかご丁寧に一枚破られ一月二日になっていた。
俺がやったのか? 全く記憶はないが、まあ思い出せないものはしょうがない。男は記憶の整理をやめて、前向きに考えることにした。
これがあるという事は、あの噂は本当だったのか?
男はお金持ちになれるかもしれないと喜んだ。しかし、こんなカレンダーだけ渡されて一体どうすれば?
男はカレンダーを手に取り色々調べてみたが、特段変わっている点は見つけられなかった。
「おいおい、金持ちにしてくれるんじゃなかったのかよ」
男はこれ以上は何も収穫が得られないと分かると、舌打ちをしながらカレンダーを元の場所に戻した。
あーあ。悪魔にも会ったのにカレンダーだけって、やっぱり俺はついてない。男はふて寝をするように横になると、再び寝息をたてはじめた。
男は昼頃から起きはじめると、正月だというのに何にも予定などあるはずもなく、テレビの正月番組を見ながら、ただだらだらと過ごした。
気が付くと二十三時をまわっている。
しょうがない。明日の朝から仕事だしもう寝るか。男は見ていたテレビを消すと、目覚ましをセットして眠り始めた。途中一度だけ目が覚めたが気にせず眠りについた。
目覚めると朝になっていた。やばい、遅刻だ。男は何故か鳴らなかった目覚ましを背に職場へと急いだ。
職場に着いてみたはいいものの、もう始業している時間帯のはずなのに職場は開いておらず同僚の姿は一人も見られなかった。
あれ、確か三日から仕事始めだったはずだけど、休みが伸びたのかな?
男は不思議に思い上司に電話した。
「おはようございます。今、職場の前にいるんですけど誰もいないのですが、今日まで休みですか?」
「まだ正月の酒が抜けてないのか? 休みは今日まで。明日から仕事だよ」
男は上司の言葉に安堵した。
「なんだ。そうでしたか。良かった。それにしても休みは二日までと思っていましたけど、三日までだったんですね」
「なに言ってんだ、今日は二日だろ。酔っぱらってんのかお前、とりあえず明日から仕事だからちゃんと出勤しろよ」
上司はそう言い残すと電話切った。
男は上司の言葉に驚いた。今日が二日だって、確かに三日だったはずだが。男は携帯で日付を確認した。そこには一月二日と表示されていた。
馬鹿な、どうして? 男は昨日一日だらだら過ごしたのを思い返してみた。絶対俺の記憶は正しい。昨日は確かに二日だった。
男は自分の記憶に自信を持っていたが、携帯にそう表示されている以上どうする事も出来ず、すごすごと自宅に引き返した。
帰り道に周りを注意深く観察したが、やはり今日が一月二日ということを色んなものに再認識させられただけだった。
もういいや。今日が二日でも、三日でも。休みが一日増えたと思えば。男はそう考えると自宅に戻って、まただらだらと過ごし始めた。
違和感を感じたのは夕方頃だった。あれ、この番組昨日見たような? 男はたまにデジャヴという体験をしたことがあったが、それとは違かっていた。
そうそう。続きがこうでそしてこうなって。男はテレビ番組の内容を次々と言い当てていった。
全く一緒だ。やっぱり俺は昨日この番組を見ている。すらすらと思い出せる内容に男は確信していた。
どうなってんだ一体。正月にあんな事をしてから俺の頭はおかしくなったのか? 男はそう思いながらもそろそろ眠らなきゃと、昨日と同じ行動をして眠りについた。やはり一度目が覚めたが気にせず目を閉じた。
男は目覚めると時間を確認した。またしても起きる予定の時間を大幅に過ぎている。二日続けて遅刻かよ。男は急いで職場に向かった。
職場は開いていなかった。またか。男は一息つくと、上司に電話をしようと携帯を取り出した。
「嘘だろ」男は叫んだ。
なぜなら電話をかけようとする男の目に、一月二日の文字がとびこんできたからだ。
男は困惑していた。これ携帯が壊れているのか?
とりあえず上司に電話をかけてみる。
「おはようございます。二日続けて電話して申し訳ないのですが、今日から仕事始めですよね? まだ誰も出勤してないのですが」
男はこう切り出した。
「うん、勘違いしてんのか? 今日まで休みだぞ。仕事始めは明日から」
「えっ、でも昨日電話した時には三日の今日からって」
「何言ってんだ、昨日電話なんてしてないだろ。それに今日は二日だぞ全く、朝から酔っぱらってんのか」
「いえ、昨日電話したじゃないですか、覚えてないんですか? それに今日って三日ですよね?」
男は混乱しながらも上司に同意を求めた。
「だから電話してないって、今日は二日、一月二日。日付くらい自分で確認しろ。もう忙しいから切るぞ。とにかく明日から仕事だからな」
そう言って、電話は切れた。
全く意味が分からなかった。なんでだよ。今日は三日のはずだろ。男は携帯を見つめながら呆然としていた。一月二日、一月二日。帰り道はまたしてもその文字であふれていた。
「ははっ」笑いがこみああげてきたのは夕方のテレビを見た時だった。昨日いや、一昨日から同じ番組を見せられていた。
男はテレビを消して大の字になった。やっぱりそうだ。ようやく確信した。俺は一月二日を何度も体験している。もうずっとこのままなのか? もしこのまま一月二日が続いたらどうしよう。男はそう思うと怖くなって眠れなくなった。
時間はどんどん過ぎていき、間もなく時刻は零時をむかえようとしていた。
くそっ、絶対あの悪魔の呪いだ。こんな仕打ちしやがって。男はあの夜のことを思い出し、カレンダーを睨みつけた。そこにはでかでかと一月二日の文字が大きくあった。
もう一月二日なんて見たくない。そう思ってカレンダーの一月二日の紙を破り捨てた。その時、男は一瞬体が軽くなるのを感じた。
目覚まし時計を見ると、零時ちょうどだった。今すぐ携帯を見て日付を確認したかったが、一月二日だったらどうしようと思うとなかなかその行動をおこす事が出来なかった。
そうこうしている内に時間だけは過ぎていき、男はいつのまにか眠りに落ちていた。
聞きなれた着信音で目が覚めた。無意識に電話に出る。
「お前何時だと思っているんだ、さっさと職場に来い」
聞き覚えのある声。上司からだった。やばい遅刻した。男は一瞬でそう判断すると、すぐ行きますと、上司に伝え、そそくさと出勤の準備を始めた。
その途中で気付く。えっ、今上司からだったよな。それに職場に来いって。男はすかさず携帯で日付を確認する。一月三日だった。
男は床に膝をつけると、ふぅぅーとため息をついて安堵した。
その日は遅刻で上司に怒られたがすごく気分が良かった。ようやく元に戻ったとそれだけで十分な気持ちになっていた。
男は帰宅すると今まであったことを思い返していた。悪魔に会ってカレンダーをもらって、それから一月二日を繰り返して、そしてようやく今日三日になった。自分でも信じられない体験だったが全部本当の事だった。
それにしてもと、男は悪魔の言葉を思い出すと、壁にかけられているカレンダーに目を向ける。
これがここにかけられてから変な事が起こりだしたし、昨日一枚破くとようやく次の日に進んだ。もしかして…… 男はある考えを思いつくとそれを試してみることにした。
いつもなら寝てる時間だが、今日は起きていた。そろそろ時間だな。男は零時になった瞬間に日付を確認しようとしていた。
いよいよだ。今、零時になる。
とその瞬間。んっ、なんだこの感じは。男は今まで味わったことのない感覚に襲われた。しかしそれはすぐに治まった。
「何だったんだ今のは」
そう言いながらも急いで日付を確認する。
「やっぱりだ」
男の手にある携帯には一月三日と表示されていた。
普通の人なら驚く所だが、ある結論に至っていた男にはそれは驚くに値しなかった。
そして、零時から数分経つのを待つと、男はカレンダーの一月三日と書かれた紙を破りとった。
その瞬間昨日のように体が軽くなるのを感じた。
男は再び日付を確認する。一月四日だった。それも零時ちょうどだ。
それを見て男はようやく全てを理解した。
このカレンダーはただのカレンダーではなくてタイムスリップ出来るカレンダーだったのか。
試しにもう一枚破ってみる。そして携帯を確認する。一月五日だ。
携帯だけではと、テレビもつけてみる。そこには女性アナウンサーが一月四日に起こったニュースを伝えていた。もちろん男が知らないニュースばかりだった。
やっぱりだ。やっぱりそうだったんだ。これで全てが納得がいく。一月一日の記憶がないのも、一月二日を繰り返したのも、上司の言動も、ついでに目覚ましが鳴らなかったのも、全てが繋がった。全部このカレンダーが関係していたんだ。
男はここ数日のストレスから解放されていい気分に浸っていた。
余韻を十分に味わった男は色々と、このカレンダーについて調べる事にした。
男は数日間で大体の事を調べ上げた。その内容はというと、
まず男がカレンダーを破かない限り、そのカレンダーに書かれている日付を延々と繰り返す。その日に起きた事はリセットされるが、記憶は残る。繰り返される日の内容は男が干渉するもの以外ほとんど変わることはない。男以外の人は自分がタイムスリップしている事を知らない。
男が体験していない日付を破るとその間の記憶はない。例えば一月一日と一月四日の記憶がないのはそれだ。一月一日は恐らく悪魔が破いたであろう。悪魔にしてみれば一月一日を繰り返すのはたまったもんじゃないからな。また、記憶がなくてもその日に起こったという事実は残るようだ。例えば、自分では仕事をした記憶はないが周りに聞くとちゃんと仕事をしていたという。まあ、一過性の記憶喪失にかかったみたいなものだ。男が調べ上げた内容は大体こんなところである。
大体の事を理解した男は、早速カレンダーの恩恵を受けることにした。
男は手始めに競馬場に行くと、次々に一着馬を当てていった。どの馬が勝つか分かるので当然である。次に毎週発売の数字を複数個当てる宝くじを買うとすぐに億万長者になった。これも事前に当選数字が分かるので当然である。こんな調子で次々にお金を増やしていき、春になる頃には高級マンションの最上階の部屋から下界を見下ろすほどになっていた。
あの噂の内容はこういうことか。そりゃあ皆金持ちになるはずだわ。男はまるで一国を操る権力者になったかのようにいい気になって高いお酒をうまそうに口に運んでいる。
それからはもう好き放題だった。男は無限に限りなく近い有限な時間を使って色んな事を楽しんだ。行ったことのない場所に行ったり、やったことのない事をやったり、もちろん犯罪にあたる行為などもした。命の危険にさらされたり、警察に捕まったりもした。だが、午前零時になると全てが元通り。全てがリセットされる。こんな風に男は人生を謳歌していた。
途中悪魔が何度かやってきては、
「何十年待たすんだ。もういいだろう」と言いに来たが、そんな言葉が男の耳に入る事はなく、長くとてつもなく長い時間を楽しんだ。
そんな男のカレンダーも気づけば残り一枚になっている。男は今まで一体どのくらいの時間を過ごしていたのかも覚えていなかった。
男はすでに決心していた。もう何十年、何百年と生きた。既存の本や漫画、映画などは全て見終えた。この世の全てを経験したと言っても過言ではないだろう。もういい加減終わりにするか。そう思って何度もカレンダーの最後の一枚に手をかけようとしていた。
だが、新年へのカウントダウンがゼロになるのと同時に、もう何回目かも分からない大晦日の午前零時に戻されていた。
やっぱり駄目だ。やっぱり怖い。頭では分かっていてもなかなか最後の行動を起こせないでいた。
これも一種の生き地獄か。もう何百日も自分の死について考えているのだから、頭がおかしくなりそうだった。
このままじゃ精神が崩壊する。その前になんとしても終わらせなければ。
今一番地球上で長い時間、生に執着していた人間が、どの人間よりも死にたがっている。何という皮肉だろうか。
延々と大晦日を迎えていた男だったが、ついにその時がきたようだ。
男は新年へのカウントダウンに合わせてカレンダーを掴む手に力を込め始めた。残り数秒というところで急に過去の出来事がフラッシュバックしてきた。ああ、これが走馬灯というやつか。やっと終わる、やっとだ。人の何生分もの走馬灯を見ながら男はついに最後の紙を破りとった。
真っ暗だった。ただただ、暗かった。ここが死後の世界、地獄なのだろうか? その時、何度か聞いたことのある声が聞こえてきた。あの悪魔だった。悪魔は男の前に現れると、
「ようやくか。どんだけ待ったと思っているんだ。なにをする訳でもなく、ただただ人を監視するのがこんなにつらいとは。悪魔も大変だな」
自分が悪魔なのにずいぶんおかしなことを言うもんだ。男は悪魔の言葉に不思議がりながらも次の言葉を待った。
「まあいいや。こんな事を言っても仕方ない。次はお前の番だ。せいぜい頑張れよ」
そう言って、悪魔はバトンタッチというように男の肩を叩くとどこかに消えていった。
男は変な感覚に襲われると同時に、急に真っ暗だった世界が開けてきた。
ここは? 男はこの場所に見覚えがあった。去年来た神社だ。何でここに? おや誰かいるようだ。
そこには去年の男同様さえない中年の男が手を合わせて祈っている。
ここで違和感に気付く。自分の姿が変わっている。その時さえない中年の男と目が合った。さえない中年の男は驚いて腰を抜かしている。
男の口から勝手に声が出ていた。
「俺を呼び出したのはお前か?」
ここで男は全てを悟った。あの悪魔の言葉はこういう意味か。
あんなに生きたのにまだ死ねないのか。こんな事ならみじめな人生でも普通に過ごすんだったな。
男はいや、男だった悪魔は、悪魔に魂を売った事に後悔しながらも、何もない空間から例のカレンダーを取り出そうとしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます