21

「西條くん、ごめん。みんなのところに戻って大丈夫だから」


 少しして、涙の止まった健太が西條に言った。

 人気のなくなった観客席には、もう健太と西條の二人しかいない。きっと水泳部のみんなも帰る支度を終えて、西條のことを待っているはずだ。


「戻らないと、みんな西條くんのこと待ってるよ」


 これ以上みんなに迷惑をかけたくないと健太が続けると、西條が呆れたようにため息をついた。


「幼稚園児じゃないんだから、俺ひとりいなくても大丈夫だって。それに、有吾へは先に帰っててくれって連絡したし」

「え……」


 確か西條は、稲木に大事な話があるようなことを言っていたはずだ。


「だからさ、マネージャーとかそんなの関係なくて、親友が具合悪そうにしてるのを放っておけるわけないだろ?」

「でも西條くん、稲木さんに話があるって」


 そう健太が言うと、それまで強気な表情を見せていた西條が困ったといった風に頭を掻いた。


「えーと……それはまだちょっと、今すぐは行けないというか、時間を置いたら我に返ったというか」

「西條くん?」

「まあ、詳しいことはまた今度言うよ。部活辞めても友達をやめるわけじゃないだろ? それより……やっと来やがった。おい、遅いって。何やってたんだよ」

「悪い。遅くなった」


 背後から聞こえた声に健太がゆっくりと顔を後ろへ向けると、観客席の一番上の段に内藤が立っていた。

 慌ててやって来たのだろうか、内藤は肩で息をしており、ファスナーが開いたままのジャージからは腕が片方脱げかけていている。


「内藤?」


 内藤は健太の青白い顔色を見ると、痛ましげに眉を寄せた。


「さてと。それじゃあ、俺は帰ろうかな」

「え……西條くん? もう帰るの?」

「うん。学校に寄らないといけないの忘れてた。内藤が来てくれたし、家の人が来るまで大丈夫だろ?」

「大丈夫、だけど……」

「まさか一緒に学校へ行くとか言わないよね? ダメだよ。久米は最後のマネージャーの仕事として、インハイのタイムが切れなかった内藤にガツンとダメ出ししといてくれる?」


 そう言って西條はニッと笑うと、内藤と入れ替わるようにして観客席から出て行った。


 健太の隣の席へ内藤が腰をおろす。

 まさか内藤がやってくるとは思っていなかった健太は、隣に彼の気配を感じてビクッと体を竦めた。


 いったいなにを話せばいいのか、言葉が見つからない健太はもちろんだが、内藤も健太の隣へ座ったきり口を閉ざしたままだ。


 しばらく二人してぼんやりと誰もいなくなったプールを眺めていると、ふいに内藤が口を開いた。


「大丈夫か?」

「え」

「体。なんか具合が悪そうだけど」

「あ、うん。ちょっと無理しちゃったかな。でも家から迎えが来るから」

「………………そう、か」


 自宅から迎えが来る。健太の口からそう聞いて、内藤は一瞬複雑な表情を見せたが「そうか」とだけ言うと、また黙りこくってしまった。


 健太も内藤も特別口数の多い方ではない。これまでだって、二人でいて特に会話もなく過ごすこともあった。

 お互い何も話さなくても二人の間にある空気がとても心地よくて、それに健太は内藤と一緒にいると、なぜかとても安心できる。


 なのに今は、お互いの間に流れる沈黙が辛い。

 内藤と一緒にいるのに、心の中がざわざわとして落ち着かない。


「あ、あのさ」

「ごめん」


 堪らず健太が口を開いたのと同時に、内藤が椅子に座ったまま頭をさげた。


「ごめん、久米」

「え……内藤、どうしたの?」

「マネージャー、辞めるんだろ。さっき西條から連絡があって――それってやっぱり俺のせいだよな。俺が久米の体調に気づかずに練習に付き合わせたから…………なのに、今日はタイムも全然ダメで……」

「内藤、ちょっといい?」


 健太にしては珍しい強い口調に、内藤がうつ向けていた顔を上げた。


「西條くんからガツンと言っておいてってことだから。えっと……内藤っ! な、なにをふざけたこと言ってるんだ、よ。俺がこうなったのは、マネージャーを始めた時点で予想はできてたことだし。ここまで続けられたことの方が信じられないんだ……だから」

「久米……」

「…………だから、全部自分のせいにしないでよ。俺ね、俺、短い間だったけど、内藤が泳いでるところ、たくさん見られて嬉しかった」


 溢れて、こぼれ落ちた涙が健太の膝へぱたぱたと落ちる。


「嬉しかったんだ。それで、もっと見たかった…………内藤ともっと一緒にいたかった……っ」

「久米」


 内藤の腕が伸び、健太の体を抱きしめた。


「久米、久米…………」

「お、俺っ、辞めたくない。今日で終わりなんて嫌だ」


 抱きしめる健太の体は、前に行った花火大会の時よりもかなり痩せていて、内藤がちょっと腕に力をこめたら簡単に折れてしまいそうだ。

 薄い背中に背骨が浮き上がっているのが衣服越しでもわかる。


 内藤の肩口に額をつけて、溢れてくる涙を必死で堪えようとしている健太の姿を見ていると、このまま健太のことを連れ帰ってしまいたくなる。

 だが、内藤は震える健太の肩をそっと押しやった。


「内藤」

「久米、今日の昼は何を食べた?」

「――――え」


 突然何を言い出すのかと、目を丸くしている健太へ内藤が笑いかける。


「昼休み、ちゃんと弁当食べたのか?」

「え……あ、その」


 部で用意していた昼食の弁当が、ひとつだけ手つかずのまま残されていた。

 西條に限って弁当の数を間違えることはないし、弁当にはそれぞれ部員の名前を書いた付箋が貼りつけてある。

 ひとつだけ残された弁当には久米の名前の書かれた付箋が貼りついていた。


「じゃあ、今日の朝は? それだけじゃない。久米、最近あまり食べてないだろ」


 確かに、ここ数日あまり食欲のなかった健太はまともに食事をとっていなかった。それを内藤から言い当てられ、健太がバツが悪そうに内藤から目を逸らす。


「あのさ、久米が俺の泳いでるところを見るのが好きで、それでちょっとでも元気になれるのならすごく嬉しい。俺も練習が辛くてもう泳げないってなっても、久米が頑張って病気と向き合ってるんだって思うと、もっと自分も頑張らないとって思えるんだ」


 だからさ、と言いながら内藤が両手で健太の頬を包み込んだ。


「久米。病気なんかに負けるな。ちゃんと食べて、体作って、そして元気になってまた戻ってこい。マネージャーを辞めても、離れた場所にいても久米がどこかで元気になろうと頑張ってるんだって思うと、それが俺の力になる――――俺はそう思ってる。けど、久米は違う?」


 じっと見つめる内藤の瞳に健太の顔が映っている。

 健太は自分の頬にある内藤の手に自分の手を重ねて、ふるふると首を横に振った。


「健太、一緒に頑張ろう」

「――――――え、内藤? 今、名前…………」


 驚きに目を丸くしている健太から内藤が照れたように目を逸らす。

 だがすぐに健太の方へ向き直ると、その額にそっとキスを落とした。

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