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 大会の一日目が終わった。

 健太は観客席の椅子に座ったまま、そっと目を閉じた。

 競技が終わって会場を後にする人たちで周囲はまだざわざわとしている。けれど、プールで泳ぐ選手たちと、それを応援する観客との間にある一体感のようなものは、すでにそこにはない。


 朝早くから試合会場へやって来て、あっという間に終わった一日だったが、まだ健太の頭の隅っこには今日の試合での興奮がちょっぴり残っていて、目を閉じてみると魚のようにプールの中を泳ぐ内藤の姿が健太の脳裏に浮かぶ。


(内藤、すごかったな)


 西條が言っていたとおり、内藤は西田を抑えて見事優勝した。

 スタート後、水面に浮き上がってきた時から、すでに内藤は西田に体半分以上の差をつけていて、結局最後までその差が縮まることはなかった。


 稲木とは違って短距離を得意としている内藤のレースは、スタートを切って一分もしないうちに終わってしまう。

 なので健太は少しも見逃すことのないよう、声援を送るのも忘れて内藤のレースを見守った。


 綺麗だ。と、健太は思った。

 きっと健太には一生、内藤のように水の中を自由に泳ぐことはできないだろう。だけど輝く水飛沫を上げて、その中を滑るように進む内藤のことを見ていると、健太も一緒に水中を泳いでいるような気持ちになる。


(内藤……)


 内藤は一着でゴールをして嬉しそうな顔を見せたが、電光掲示板に表示された記録を見て、その表情はすぐに悔しそうに歪んだ――――内藤のタイムはインターハイ出場まで、あと0.01秒足りなかった。


 確かに順位やタイムが良いのであれば、それにこしたことはない。

 だけど健太にとっては、内藤があの青くて四角いプールの中で伸びやかに泳ぐ姿を見ることができれば、それだけで胸がいっぱいになるのだ。


(……インハイに行きたかったんだろうな)


 まだまだ体調に不安がある健太にとって、大会の応援で地方遠征に行くにはかなり無理がある。


 だが、あれだけ熱心に練習をしている内藤へ「実はインハイには行けないんだ」と、健太はどうしても言い出すことができなかった。


 内藤には本当に申し訳ないが、彼のインターハイ出場が叶わなかったことに、健太は実のところ少しだけホッとしている。


「久米、大丈夫?」


 観客席で目を閉じたままの健太へ、西條が心配そうに声をかけた。


「西條くん」

「気分、悪い? 顔色が良くない」


 帰る準備をしていた西條が、もう一度健太の隣に腰を下ろした。

 心配そうに顔を覗き込んでくる西條へ大丈夫だよと健太は答えたが、夏休みに入ってからの無理が祟ったのだろう、あまり体調が良いとはいえない。


「久米」


 いくら健太が大丈夫だと言ったところで、無理をしていることなど西條にはお見通しだ。咎めるように名前を呼ばれて、健太は観念しましたとばかりに弱々しく眉を下げた。


「…………ごめん。ほんとは大丈夫じゃないんだ。もうちょっとだけ座っててもいいかな?」

「誰か呼んでこようか?」

「うん。それじゃあ……」


 自宅から誰か迎えに来てもらうよと健太が言うと、西條が少し驚いたように目を見開いた。


「え、でも……久米はそれでいいのか?」


 水泳部のマネージャーを始めるにあたって、部活中に少しでも体調が悪くなったらそこで部活は辞めること、と健太は両親と約束をしている。


 つまり、体調がよくないといって健太が自宅へ連絡を入れるということは、このまま水泳部のマネージャーを辞めてしまうということだ。


「うん、まあ仕方がないかな、とは思ってる。本当はあともう少しみんなと一緒にいたかった。だけどこのままマネージャーを続けても、かえってみんなに迷惑をかけると思うんだ」

「久米」

「あのさ、みんなには俺は用事があって先に帰ったとか言っといてくれないかな」

「久米……」


 真っ青な顔色で健太が西條に笑いかける。そして、そのまま正面に向き直ると、何かを堪えるようにぎゅっと目を閉じた。


「――――まだ夏休みは終わってないのになあ。辞めたく、ないなあ…………まだ明日だって試合はあるのに。俺さ、今普通に椅子から立ち上がることもできないんだ…………情けないよね。ちょっと張り切り過ぎただけ、なのに……っ」


 固く閉じた健太の目から、溢れた涙がにじみ出る。

 悔しい、なんで自分の体はこんなにも弱いんだろう、なんで自分はみんなと同じようにできないんだろう………………言葉にこそ出してはいないが、内藤にも打ち明けたことのない、健太の心の奥底にくすぶっていた淀んだ気持ちが涙と一緒に零れ落ちた。

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