19
満員の観客席。空調が入っているはずなのに、そこはまるでサウナの中にいるような暑さだ。
健太は額にじわりと浮かぶ汗をタオルで押さえながら、決勝競技が行われているプールへビデオカメラを向けていた。
本来なら試合の撮影は西條の担当なのだが、当の西條は健太の隣で息を詰めてじっとプールの水面を見入っている。
さっきは「応援するしかない」と開き直ったように言っていたが、やはり西條も緊張しているのだろう、稲木のレースが近づくにつれ、だんだんと言葉少なくなっていた。
「あ、来た」
西條がポツリと呟いた。
健太がビデオカメラを覗くと、ちょうど稲木がプールサイドに入ってきたところで、こちらも西條と同じく緊張した面持ちをしている。稲木は自分の泳ぐコース前までやって来ると、スタート台後ろに置いてある椅子へ腰をおろした。
「三コースだね」
ビデオカメラを構えたまま健太が言うと西條が黙って頷く。
その表情はまだ固いままで、健太は大丈夫だよと片手で西條の手に触れた。
決勝に進んだ順位で中央のコースから泳ぐ場所を振り分けられるため、たいていは四、五コースあたりが優勝圏内なのだが、稲木の泳ぐ三コースもじゅうぶんに優勝台を狙える場所だ。
今回は順位よりも全国大会へ出場するための標準記録が出せるかどうかの方が重要だが、それでも少しでも上を狙いたいと思うのは稲木や西條だけではない。
健太もビデオカメラを持ち直しながら、レンズの向こうにいる稲木の姿をじっと見守った。
シンと静まり返った室内にスタートを告げる電子音が鳴り響く。
一斉にスタートを切った選手らがスタート台を蹴る音を合図に、会場内がワッと歓声に包まれた。
周囲が応援で湧き上がる中、西條はグッと息を詰めたまま微動だにしない。それでも西條の稲木へ対する「頑張れ」という気持ちは隣にいる健太にも痛いほど伝わってきて、健太も撮影をしながら心の中で稲木へ声援を送った。
(すごい……さすがは稲木さんだ)
もともと大柄な体つきではあるが、豪快なフォームで泳ぐ姿を見ていると普段よりも稲木のことを大きく感じる。
それだけではない。健太がカメラ越しに見てもわかるくらいに、稲木の泳ぐ姿は力強くて全くペースが落ちない。
中長距離が得意な稲木は四百メートル自由形に出場している。
途中、何人かは半分を過ぎたあたりから徐々にペースが落ち始めたが、稲木を含む上位三人は、最初の勢いそのままに横一線に並んだままだ。
なかなか勝負のつかない展開に、会場内の声援も徐々に大きくなる。
(稲木さん、頑張れ!)
残り百メートルになったところで、稲木のペースが少し落ちた。
ビデオカメラを持つ健太の手のひらに汗がにじむ。ドキドキと忙しなく動く胸の内もそのままに、健太はもう一度ビデオカメラを構えなおした。
「有吾ーっ! 頑張れーっ、根性見せろーっ!」
それまで無言でじっとプールを見つめていた西條が声をあげた。前の座席にしがみつくようにして身を乗り出している。
「有吾ーっ! 有吾ーっ!」
「稲木さーん!」
声の限りに稲木へ声援を送る西條の横顔は真剣そのもので、健太もカメラを構えたまま、西條に合わせて声をあげた。
(………………あ)
ビデオカメラのモニター越しに、ちょうど息継ぎをした稲木が観客席にいる健太たちの方を見たのがわかった。
あれだけの歓声の中、泳いでいる稲木に健太と西條の声が届くはずなどないのに、確かに稲木は観客席…………西條の姿を捉えた。
西條も気づいたのだろう、一瞬、稲木を呼ぶ声が止まる。
「西條くん」
「…………ゆ、有吾っ! 行けーっ!」
まるで西條の声に後押しされるように稲木のペースが上がる。
あっという間に遅れを取り戻した稲木は最後まで接戦を繰り広げ、タッチの差で一位を勝ち取った。
「西條くん! 稲木さん、一着だよ!」
撮影を終えた健太が隣の席へ顔を向けると、会場の熱気で上気した顔の西條が目を潤ませて健太に抱きついてきた。
「久米っ! 有吾が……有吾が勝った。どうしよう、嬉しすぎて何て言ったらいいのかわからないよ」
「西條くん」
「有吾以外、みんなすごいヤツばっかりだし、インハイのタイムだけでも切れたらいいと思ってたんだ……なのに一番って、信じられない。嘘みたいだ」
嬉しいのに、今ひとつ素直になれない西條。いかにも西條らしいなあと思いながら、健太は「よかったね」と言って西條のことを抱きしめ返した。
(次は内藤……稲木さんみたいに頑張ってほしいなあ)
そう思いながら、健太は静けさを取り戻したプールへ目を向けた。
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