17

 開会式後に始まった予選競技も昼休みを挟んで残り数レースとなった。

 健太のいる水泳部のメンバーは、すでに午前中のうちに全員予選を終えており、残念ながら決勝に進めなかった者もいたが、おおかたの予想通り部長の稲木をはじめ、リレーメンバーを含む数人が決勝へと駒を進めた。

 もちろんその中には内藤も入っている。


「久米、掲示板に決勝のスタートリストが出てると思うから写してきて」

「わかった」

「あ、掲示板のところ人が多いかも。プログラムに書き写すのが大変だったら、携帯で写メってくるといいよ」

「うん」


 プログラムを手に健太は腰を上げた。


(内藤、すごかったな)


 午前中の予選競技を健太は西條と一緒に観客席から見ていた。

 もちろん出場する部員の応援もあるが、後でフォームのチェックをするために泳いでいるところを撮影をしたり、電光掲示板に表示されたタイムを書き写したりと、あまりゆっくりと見ている時間はなかった。


 それでも内藤が泳ぐ時には、気を利かせてくれた西條が健太の分も仕事を引き受けてくれたので、彼の泳ぐ姿をしっかりと目に焼きつけることができた。


(決勝、何位で残ったのかな……ベストタイムではなかったって西條は言ってたけど)


 ただ「すごいなあ」と見ているだけの健太と違って、西條には部員ひとりひとりのベストタイムが頭に入っている。

 今回の内藤の予選レースの結果も「まあ、予選だし」と言ってはいたが、健太からすれば決勝に進めるだけでもすごいことだ。


 そんなことを考えていたら掲示板が見えてきた。健太のようにプログラムを手にしている者や、自分の試合結果を見にきた選手の姿などで、ちょっとした人だかりができている。

 西條は写メでもいいと言っていたが、あの人だかりの中へ入っていかないといけないとなると、写メでさえ健太には難しそうだ。とりあえず、健太は人が少なくなるまで待つことにした。


「…………やっぱ、内藤か」


 掲示板の近くに立っている健太の耳に「内藤」という声が聞こえて、思わず声のした方へ顔を向けた。

 そこには他校の水泳部らしい男の子が二人、プログラムを見ながら何やら話している。どうも内藤のことが話題になっているらしく、つい聞き耳をたててしまう。


「内藤が二位残りで、その次が……」

「え? 内藤、一位じゃないのか?」


 ひとりが驚いたように声を上げた。


「一位は西田。内藤は0.03秒差で二位」

「マジか……最近、西田のやつ調子が良いみたいだからな」

「でもまあ、予選だし」

「だな。内藤なら決勝でまだ上げてくるよな」

「そうそう。てか、俺らとはレベルが違う」


 確かに、と言って笑いながら、彼らはどこかに行ってしまった。

 その場に残った健太が、プログラムをぎゅっと胸元に抱え直す。


(内藤、決勝二位で残ったんだ。しかも一位の人とほとんど差がないって)


 彼らの話だと、決勝になるとみんなタイムを上げてくるらしい。


(確か、西條くんもそんなこと言ってた)


 間もなく始まる決勝レースのことを思うと、まるで自分のことのように健太の胸が緊張で高鳴る。


 これまでの健太なら、ただ遠くから「頑張れ」と応援することしかできなかった。

 だけど高校二年になって思いきって部活を始めて、そして内藤や他の部員たちが頑張る姿を側で見てきて、健太にはわかったことがある。


 いまだ健太の目を惹きつけてやまない、内藤のあの綺麗で力強い泳ぎは、元からある才能だけによるものではない。

 それ以上に彼本人の努力があってこその結果だ。


 内藤の代わりに泳ぐことはもちろんできないし、内藤にはとうてい及ばないけれど、健太にだって今できることがある。


「…………よし!」


 健太は小さく気合を入れると、掲示板の前の人だかりへ思い切って足を踏み出した。





「あ、おかえり…………って、久米、大丈夫か?」


 人だかりをかき分け、無事に決勝競技のスタートリストをプログラムに書き写し終えた健太が控え場所へ戻ると、健太の姿を見た西條が目を見開いた。


「大丈夫って、なにが?」

「――――なにが……って、久米、よれよれになってる」

「え?」


 掲示板へ貼り出された内容を書き写しに行っただけなのに、なぜか健太の髪は乱れ、Tシャツの首回りが伸びてよれよれになっている。


「あ、あれ? なんでだろ。人が多かったからかな。そういえば、シャツとかちょっと引っ張られたような……でもプログラムにはちゃんと書き写してきたよ」


 ほら、と言って健太が西條へプログラムを開いて見せる。

 健太にしては珍しく、ちょっぴり得意げだ。それを見た西條は、しょうがないなといった風に肩を竦めた。


「ありがと。でさ、戻って早々なんだけど、そろそろ決勝が始まるから観客席に行こうか」

「え、もうそんな時間なんだ。わかった。ごめん西條くん、準備するから、ちょっと待ってて」


 人混みに揉まれながらも、健太は掲示板の内容を書き写すのにすっかり夢中になってしまっていたようで、西條らのところへ戻ってきた時にはかなりの時間が経っていたらしい。


 内藤をはじめ、決勝に出場する部員らが各々のレースの時間に合わせて準備を始めている。

 健太も慌ててバインダーやペンケースを準備する。


「カメラは俺が持って行くから、久米は筆記具持ってきて」

「うん、わかった……あれ? ボールペンがない」

「久米? どうかした?」

「ボールペンがないんだ。さっきまであったんだけど」


 さっきまで手に持っていたボールペンが見当たらない。なんてことはない、コンビニで買った普通のボールペンなのだが、これが結構書きやすくて健太は気に入って使っていた。


(さっき掲示板のところで使って……プログラムに挟んでおいたんだけど……)


 どうやら戻ってくる途中で落としてしまったらしい。

 お気に入りのボールペンをなくしてしまい、がっくりと項垂れる健太の肩にふわりとタオルがかけられた。


「え?」


 健太が後ろを振り向くと、そこには内藤が立っていて、少し不機嫌そうに健太のことを見下ろしている。


「内藤。これ……タオル、内藤の?」

「首に巻いておけよ」


 突然どうしたのだろう。健太が首を傾げると、内藤は眉を寄せた。


「見えてるから」

「へ?」

「だから……中が。屈むと見える」


 どうやらTシャツの首回りが伸びてしまったため、健太が身を屈めるとTシャツの中が見えてしまうらしい。


「…………あ。ごめん、ありがとう。でもね、内藤、俺もう大丈夫だから」


 今まで健太は自分の胸に残っている手術の痕をコンプレックスに思っていた。実際に同級生から気持ちが悪いと陰口を言われたこともある。

 そんなことから、夏場でもできるだけ首回りの詰まった服を着るなど、人前で少しでも胸元が見えないように気を使っていた。


 だけど、そんな健太のコンプレックスを内藤は「少しも気持ち悪くなんてない。久米が頑張ってきた証拠」だと言ってくれたのだ。


「俺ね、前に内藤から、胸の傷痕を頑張った証拠だって言われてから、あんまり気にならなくなったんだ。だから、大丈夫だよ」


 健太が内藤へにこりと笑いかける。


「あー、いや、それはそうなんだけど……でも、やっぱりタオルは巻いてて」

「内藤?」

「…………俺が嫌だから。あんま人に肌とか見せないで欲しい」


 決まり悪そうに内藤が健太から顔を背けた。耳の端っこが赤くなっている。


(あ…………)


 内藤の言いたいことを察した健太が軽く目を瞠った。

 健太の胸の手術痕が「見える」のがどうとかではなくて、内藤は単に健太の胸元が他の人に見えてしまうのが嫌なのだ。


「う、うん。わかった。タオル、ありがと……借りるね」

「…………ん」


 内藤からの視線を感じつつ、あたふたしながら健太がタオルを首に巻きつける。ちょっとしたことなのに健太の心臓がドキドキと忙しなく落ち着かない。


「あ、いた!」


 俯きながらタオルを首に巻いている健太へ誰かが声をかけてきた。


「やっぱりここだった」

「え?」

「はい、これ。君のじゃないかな」


 知らない人から突然話しかけられ、呆然としている健太の前にボールペンが差し出された。

 目の前にいる男の子とボールペンとへ健太が交互に目を向ける。

 持ち手のところにシールが貼ってあるそれは確かに健太のボールペンだ。それに目の前の男の子、健太はどこかで見たような気がする。


「はい」


 健太が見上げないと目が合わないほどの長身で、差し出された手も大きい。ありがとうと言って健太がボールペンを受け取ると、彼は人好きのする笑顔を見せた。

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