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 インターハイの地方最終予選大会が始まった。

 健太が内藤とラーメンを食べに行った日から数日、西條から渋い顔をされながらも、内藤は早朝練習と居残り練習を続けていた。


 内藤と一緒に帰るためというのもあるが、いつになく熱心に練習に取り組んでいる内藤を見ているうちに、健太もタイムを計ったりと、できる範囲で今日まで練習の手伝いを続けた。


「あー……凄くドキドキする」


 選手らがウォーミングアップに行っている間、控え場所となっている通路に広げたシートの上で健太が大きく息を吐く。


 もちろん自分が出場するわけではないし、試合の手伝いに来るのも初めてではない。だけど健太は、マネージャーとして初めて水泳部の試合にやって来た時以上に緊張していた。


 今日明日と週末の土日を使って開催される今回の大会は、年間を通して重要な位置づけのものになる。

 今回の試合での結果で、高校の全国大会……インターハイに出場できるか否かが決まるのだ。


 インターハイに出場するのは前提で、そこでいい結果を残すために内藤が誰よりも熱心に練習に取り組んできたのを、健太はずっと近くで見てきた。もちろん内藤以外の部員らが頑張ってきたのも知っている。


 だけどあの日、二回目のキスの後に内藤は健太へ「久米にとって高校最後の夏、一緒にインターハイに行こう」と約束してくれたのだ。

 健太にとっても、内藤にとっても、インターハイへ行くことはとても特別な意味をもつ。


 健太はこの夏休みが終わると、病気の治療のため海外へ行くことが決まっている。

 現実的には、体調が万全ではない健太が内藤とともに地方遠征となるインターハイに行くのは難しい。

 だけど「一緒に」と言ってくれた内藤の気持ちが嬉しくて、健太は内藤の言葉に黙って頷いた。


(内藤、大丈夫だよね。あれだけ頑張って練習してたんだし)


 そわそわと落ち着かない心の内を静めるように、健太の手が無意識にTシャツの胸元へ伸びる。


「久米、プログラム貰ってきた。うちの部員の名前のところにマーカーでライン引いといて」


 緊張で動かない健太の目の前へ、プールから戻ってきた西條が大会プログラムを差し出した。


「あ、うん。もうみんなウォーミングアップは終わった?」

「終わった。今はサブプールでダウン中」


 あー、疲れた。と言って、西條が健太の隣に腰をおろす。


「ごめん、あんまり手伝えなくて」


 受け取ったプログラムを胸に抱きしめ、すまなさそうに言う健太へ西條がちらりと目を向けた。


「俺、西條くんみたいにキビキビ動けないし、今日の荷物だってみんなに任せっきりだったし……せっかく入部したのに全然マネージャーとして役に立ってない気がする」


 そう言う健太を見て西條が呆れたような顔をした。


「今さら何言ってんの? 役に立つとか、違うから。俺さあ、別に水泳部の役に立ちたいからマネージャーやってるわけじゃないよ」

「西條くん」

「俺は自分が昔水泳やってたのもあるけど、好きだから、水泳辞めた後もこうやってマネージャーとしてでも関わっているんだ。まあ、有吾からも是非にって誘われたし?」


 そう続けて、少し照れたような表情を見せた西條は、バツが悪そうに健太からふいと目を逸らした。


「西條く……」

「ど、どうしても役に立ちたいとか、こだわってるなら、久米はじゅうぶん役にたってるよ。今だって、久米が荷物番してくれたから俺も安心して動き回れるし、それに久米にはみんな癒されてるから」


 だからこれからもよろしくな。と言う西條の言葉に健太は胸がいっぱいになった。

 西條も健太が夏が終わったらいなくなってしまうことを知っている。なのにこうやって、今後もずっと健太がマネージャーでいることを当たり前に思ってくれているのが言葉の端から伝わってくる。


「西條くん……俺、西條くんのこと大好き。水泳部で一緒にマネージャーができて本当によかった 」

「あー、うん。だな……」

「西條くん?」


 ふいに歯切れが悪くなった西條に健太が首を傾げていると、健太の背後から伸びてきた手にプログラムが奪われた。


「え、あれ? あ……内藤」

「…………」


 健太が振り向くと、そこには少し難しい表情をした内藤が無言でプログラムを開いていた。気のせいか、纏う空気が張り詰めている。健太は内藤に話しかけるのは止めて、隣にいる西條へこっそり耳打ちをした。


「ごめん、西條くん。プログラムのチェックは後でもいいかな? さすがの内藤も緊張でピリピリしているみたいなんだ」

「え、や、それはいいけど、内藤のあれ緊張じゃないと思うけど」

「なに? 西條くん、今なんて言っ……」

「久米。ちょっといいか?」


 ばちんと音を立てて内藤がプログラムを閉じる。そうして健太の返事も聞かずに会場入口ドアの方へ歩いて行ってしまった。


「西條くん、ごめん。ちょっとここ離れるね」

「気にしないでいいって。開会式までに戻ればいいから」

「うん。九時からだったよね」


 健太はもう一度、西條に「ごめん」と断ると、急いで内藤の背中を追いかけた。





(内藤、大丈夫かな。すごく緊張してたみたいだけど)


 今朝、待ち合わせをして一緒に試合会場へやって来るまでは、いつもと変わらない様子の内藤だった。どちらかといえば健太の方が緊張で硬くなっていて、内藤から「大丈夫か?」と心配されたくらいだ。


 その時は、さすがは内藤だな。などと感心してしまったが、やっぱり内心は健太と変わらないくらいに落ち着かなくて、でも朝から緊張でガチガチになっている健太を見て気をつかってくれたのかもしれない。


(本当は俺の方が内藤へ大丈夫? って言わないといけないのに……)


 もっとしっかりしないと、と自分に言い聞かせながら内藤の行った方へ向かうと、ちょうど入口ドアの側で壁にもたれている内藤の姿が健太の目に入った。


 長身をやや屈めるようにして足元をじっと見ている。そんな内藤の横顔がかっこよくて、こんな時にダメだろうと思いながらも、その真剣な表情につい見とれてしまう。


 視線を感じた内藤が健太の方へ顔を向けた。真顔で小さく手招きをされて、健太は吸い寄せられるように内藤へ近づいた。


「内藤? 大丈夫?」


 なんとなく内藤に元気がないような気がして、そう訊ねてみた。

 健太が側に行っても、内藤は黙ったままだ。なにか言いたげな雰囲気はあるが、こんな時になんて声をかければいいのか、健太には上手い言葉が思いつかない。仕方なく健太も内藤に並んで壁にもたれた。


 目の前をたくさんの人たちが行き交っている。背中に学校名の入ったジャージを着ているのは、おそらく今日出場する選手なのだろう。


(わぁ…………みんな、すごくいい体つきをしてるなあ)


 内藤の実力が相当なものなのは健太もわかってはいるが、どうにも目の前を通り過ぎる人たちが、みんなすごく速く泳げるように見えてしまう。


 きっと内藤も健太と同じように見えていたのだろう。だから会場に到着してからの内藤の様子がいつもと違うのかもしれない。


(うわ、あの人、大きい)


 周りの人たちより頭ひとつ分、上背のある男性が健太の目に入った。身長だけではなく体つきもしっかりとしていて、周囲とは纏う雰囲気が違う。

 素人目にも彼が実力のある選手だというのがわかって、素直に凄いなあと健太が見とれていると、ふいに視界が遮られた。


「……え? あれ?」

「見なくていい」


 突然目の前が真っ暗になってしまい、あたふたと焦る健太の耳元で内藤の声がした。


「なに? 内藤、どうしたの?」


 どうやら健太は内藤の手で目隠しをされてしまったらしい。きょろきょろと頭を動かしても、両手でしっかりと目隠しをされているため真っ暗なままだ。


「ちょ……内藤、見えないよ」

「久米は俺だけ見てたらいいから」

「…………へ?」


 内藤の台詞に、思わず健太の動きが止まる。

 そっと目隠しが外されて、健太が顔を上げると目の前に内藤の顔があった。さっきまでの近寄りがたい雰囲気はどこへ行ったのか、目の前にいるのはいつもの優しい内藤だ。


「あの、内藤?」

「西條に大好きとか言ってたから連れ出したのに、今度はよそ見ばっかりだし。久米は浮気者だなあ」

「えっ? 浮気って……なんで西條くん? や、あの、あれは……浮気とかそんなのじゃなくて、好きは好きでも内藤に対する好きとは違って……」


 必死で言い募る健太のことを内藤が楽しげに眺めている。

 一方の健太は、内藤からの予想外の浮気発言で頭がいっぱいになってしまい、目の前にいる内藤の表情を窺う余裕もない。


「俺に対する好きって?」

「…………え」

「西條に言ったのとどう違うんだ?」

「違う……って、それは、だから」

「うん」

「…………」


 内藤から問われて、さっきまでの自分の発言を思い返した健太の顔がみるみる赤くなる。


「久米?」


 横から内藤に覗き込まれ、健太はたまらず顔をうつ向けてしまった。

 どういう意味で好きかなんて、そんな告白じみたことをこんなところで言えるわけがない。

 意地悪な質問をする内藤へ健太がそろそろと目を向けると、内藤がものすごく楽しそうに健太のことを見ている。


「内藤、緊張してたんじゃないの?」

「なんで?」

「……さっきからあんまり喋らないし、難しい顔してたから」


 心配してたのにと健太が言うと、内藤は「ごめんな」と言って健太の頭をくしゃりとかき混ぜた。


「緊張はしていたよ。今もしてる。だって、今日の結果次第で久米をインターハイに連れて行けるかどうかが決まるから。正直どれだけ練習しても、まだ足りない気がして落ち着かないんだ」

「内藤」


 誰よりも内藤が努力をしているのを知ってはいたが、それでも内藤には才能があるからこそ、いい結果を残してきたのだと健太はどこかで思っていた。

 そんな彼から弱音ともとれるような意外な言葉を聞いて、健太が目を見開く。健太の表情を見た内藤が困ったように笑った。


「久米、そんな顔するなよ」

「ごめん……だって、俺からすると内藤はほんとにすごくて、いつも余裕も自信もあって」

「だから惚れた?」

「内藤!」

「悪い悪い。だけど俺だって久米と同じ高校二年だし、それに全国レベルでみたら俺の実力なんてまだまだなんだ。久米が思っているほど余裕なんてないよ」

「そんな、内藤はすごいよ」

「うん、ありがとう。久米からそう言ってもらえると、本当に自信になる。俺もまだまだ頑張って、上を目指せると思えるんだ。だから余計に久米をインターハイに連れて行きたい、もっと俺の泳いでるところを見て欲しい」


 内藤が健太のことをまっすぐに見つめている。

 今、内藤の目には健太しか映っていなくて、そして健太の言葉が内藤の力になると言ってくれている。

 本心からそう言ってもらえたのが嬉しくて、健太の表情がふにゃりと緩む。


「…………あー、もう」

「どうしたの?」

「久米のこと思いきり抱きしめたい。こんなことならもっと人気のないところにすればよかった」


 本気で口惜しそうにしている内藤を見て、思わず健太も笑ってしまう。

 実は健太も内藤と同じことを考えていた。

 誰かのことを好きになって、いつも一緒にいたいと思う。そしてもっと近づきたい。


「内藤、そろそろ開会式の時間だよ」

「ほんとだ。久米といると時間のたつのが早いな。行こう、遅れると西條がうるさいからな」

「うん」


 先を行く内藤へ健太がついて行く。


「久米、応援よろしくな」

「うん。ちゃんと見てるから。頑張って」


 男同士であるとか病気を抱えているとか、付き合っていくのに考えなければならないことはたくさんある。だけど今、健太は内藤を好きになってよかったと心の底から思った。

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