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 夕方の練習後、健太のことを迎えに西條が保健室までやってきた。

 合宿中、宿舎として使用している建物は、保健室のある校舎とはグランドを挟んだ対面に位置している。

 宿舎へ戻るにはグランドの真ん中を横切るのが一番の近道だが、まだ陸上部が練習している。

 さすがに練習中のところを陸上部とは関係のない二人が横切るわけにもいかず、健太と西條はグランドの端を並んで歩いていた。


「体調はどう?」

「うん。昼間ゆっくりさせてもらったから、もう大丈夫だよ。西條くん、今日はごめん」

「気にすんなって。久米がマネージャーになってから、他のやつら甘えすぎてたしな。今日はみんなに久々に働いてもらった」


 みんな俺と久米の有り難みを思い知ったはずだと西條がニッと笑う。だが西條の笑顔にどこか元気がない。


「西條くん……なにかあった? 俺が途中で抜けたことでなにか言われた?」

「うーん、言われたというか……三年生にお礼を言われた」

「お礼?」

「今までありがとう、あと少しの間だけどよろしくって。ほら、三年生はもう引退だろ?」


 合宿前、すでにインターハイの地方一次予選は終わっていて、二次予選への出場が叶わなかった三年生は今回の合宿には参加していない。合宿に参加している残りの三年生も、二次予選となるブロック大会やインターハイなど夏の間にある大きな大会が終わったら、一部を残してほとんどいなくなってしまうのだ。


「引退するのはわかってたことだし、去年はそこまで実感がなかったんだけど……そのうち有吾もいなくなるのかと思ったらちょっと寂しくなった」


 真っ直ぐ前を向いたまま、西條が淡々と言葉を続ける。


「ほら、俺って有吾に誘われて水泳部に入ったわけだし。内藤と同じ学年の久米が少しだけ羨ましい」

「西條くん」

「ごめんな、変なこと言ったな」


 そう言って西條が苦笑する。

 それがあまりにも寂しそうで、だけど健太には西條へかける気の利いた言葉が見つからなくて、西條を前にただ黙って話を聞くことしかできない。


「ところで、俺が買い出しに行ってる間、どうだった?」

「…………えっ? どうって、なにが?」

「またまた。何のために俺が気を利かせたと思ってるんだよ。もしかしてチューとかしちゃった?」


 にやっと笑った西條が健太の腕に自分の腕を絡ませる。

 もちろん西條は冗談で言ったのだけど、健太にとっては冗談どころではない。


 保健室での出来事がふと頭の中を過り、健太の足が止まる。


「久米? どうかした?」


 突然立ち止まった健太を不審に思い、西條が健太の顔を覗き込む。そして頭から湯気が出そうなくらいに真っ赤になっている健太を見て目を瞠った。


「…………え? 久米、なに? その反応、まさか」


 そのまさかだ。

 西條が買い出しに行った二時間弱の間に、思いがけず健太の片思いは見事成就したのだ。内藤から好きだと言われて、ファーストキスまで済ませてしまった。


 普通なら幸せいっぱいになってもいいはずなのだが、あまりの展開の早さに、健太には今ひとつ内藤と両想いになれたという実感が湧いていない。今だって、ふとした拍子にあれはやっぱり夢だったのでは?と、思ってしまう。


「久米、マジか? マジなのか? ちょっと何とか言えよ」


 健太自身いっぱいいっぱいで、いまだ整理が出来ていない。

 だが西條には、内藤とのことをきちんと伝えておきたい。


(どうしよう……西條くんへ何て言えばいいんだろう。内藤と付き合うことになった……? や、でも好きって言われただけで、付き合おうとは言われてないよね。じゃあ、告白された? ダメだ。何て告白されたのか、とか聞かれても、そんなの恥ずかしくて言えないよ)


「久米?」

「あ……西條くん、あの……」


 とりあえず何か答えなければと口を開いてみたものの、続く台詞が出てこない。

 ちょうど健太が言葉を詰まらせたのと同じタイミングで、健太のポケットから携帯の着信音が聞こえた。

 西條が迎えに来る前に、内藤から教えてもらった無料通話アプリの通知音だ。もちろん健太の携帯に登録されているのは今のところ内藤だけだ。


「あれ? 久米、それって」

「え? あ、うん。さっき、ちょっと」


 もじもじと答える健太を見て、西條がにこりと微笑む。


「久米、携帯見てみなよ」

「えっ……で、でも」

「そのアプリ、メッセージを送った相手がそれを読むと『既読』って表示が出るんだ。せっかくメッセージを送ったのに、いつまでも既読がつかないと相手の人、久米から無視されてるって思うかも」

「……えっ? そんな、無視って……俺、内藤のこと無視なんてしないよ?」

「ふーん。それ、内藤からなんだ」

「………………あ」


 別に隠すつもりはなかったが、西條からメッセージの相手を言い当てられて、健太の心臓が小さく跳ねた。


「久米?」


 ほら、見てみなよ。という西條に促されて、健太がポケットから携帯を取り出す。

 そしてアプリを起動し、メッセージを確認した。


『さっきのことは内緒な』


 なんてことはない一文なのに、『さっきのこと』『内緒』という言葉を見て健太の頬がほんのり染まる。


「ねえ、久米。返事はしなくていいの?」

「えっ……わ、わっ!」


 突然耳元で声がしたと思ったら、西條が後ろから健太の肩に顎を乗せていた。


「さ、西條くんっ?」

「久米、返事は?」

「へ、え? 返事? あ……返事って、これどうやって」

「その下のところ。四角で囲ったところがあるだろ? そこにメッセージを入れてみて。で、その横の三角のところを……」

「あれ? 西條くん、なんか途中で送っちゃったみたいなんだけど。あ、既読って……どうしよう、内藤、変に思ったよね」


 メッセージの途中で送信ボタンを押してしまい、中途半端なところでメッセージを送ってしまった。

 オロオロと慌てる健太に西條が背後から「落ち着いて」と、声をかける。


「大丈夫だよ。もう一度、最初からやってみなよ」

「うん」


 健太が慣れない手つきでメッセージを入力している間、内藤から返信はない。まるで健太が文字を打ち終わるのをじっと待ってくれているようだ。


「久米、愛されてるね」

「へ? なに?」

「何でもない。入力できた? なら、その三角のボタン押して」

「うん……あ、できた! 西條くん、ありがとう」


 内藤から「内緒な」と送られてきていたが、すでに内藤とのことは西條に知られてしまった。なので健太は『ごめん、西條くんに教えてしまいました』と返信した。

 健太がメッセージを一通送るのにあれだけ時間がかかったというのに、内藤からはすぐに返事がくる。

 『えー、マジか』という言葉と微妙な顔をしたネコの絵が、ポンと健太の携帯の液晶画面に現れた。


「わ、すごい! 絵も送れるんだ。ねえ西條くん、これどうやったらできるのかな……西條くん?」


 返答がないので健太が西條の方へ顔を向けると、さっきまで健太の肩に顎を乗せていた西條は額を健太の肩にくっつけて顔を俯けていた。


「西條くん、どうかした?」

「よかった……久米、よかったなあ」

「西條くん」

「久米、ほんとにいい子だし、俺……久米のこと大好きだし、内藤とうまくいってほしいと思ってたから」


 健太の腰に回された西條の手に力が入る。


 よかったという西條の声が本当に嬉しそうで、健太も胸がいっぱいになる。


「久米も内藤も男だし、だけど俺、久米の気持ちが痛いほどわかるから。だから久米が悲しむようなことにならなくて本当によかった……」

「西條くん」

「俺も頑張ってみようかな。このまま黙って引退するのを見てるだけって、後から絶対に後悔しそうだし」


 西條の言っていることが今ひとつよくわからなくて、健太が首を傾げる。


「ところで久米、あのことは内藤に言ったのか?」


 顔を上げた西條が、また健太の肩へ顎を乗せた。腕は健太の腰に巻きついたままだ。


「…………ううん。まだ言ってない」

「そっか。どうせわかることだから、早めに久米の口からちゃんと伝えた方がいいよ?」

「うん」


 健太には内藤に言っていないことがある。

 最初、水泳部のマネージャーをすることは、健太の体調のことを心配した両親から反対されていた。だけど、どうしても健太は水泳部に入りたいと両親に訴えて、結局、健太の熱意に両親が折れた形で一年間の期限つきでマネージャーとして水泳部へ入ることを許してもらったのだ。


 このことは顧問の先生と、あとは同じマネージャー仲間の西條しか知らない。

 本当は告白された時に、水泳部は今年だけなんだと内藤へ伝えるべきだったのだが、あの時の健太は内藤の告白を受け入れるだけでいっぱいいっぱいで、そんな余裕などなかった。


 それに健太自身、まさか内藤とこんなことになるなんて夢にも思っておらず、水泳部に入部した当初は内藤の姿をひと目近くで見ることができればそれでいいと思っていた。


(今年だけしかいないんだって、そんな今さら言いにくいよ)


「久米? もしかして、今さら言いにくいとか思ってる?」

「…………え」


 西條から心の中を見透かされて、健太が目を見開く。


「マネージャーを辞めても、学校を辞めるわけじゃないんだから。サクッと言ってしまった方がスッキリするって。俺もこれからちょっと頑張ってみようと思ってるし」

「う、うん」


 確かに西條の言う通りで、水泳部のマネージャーを辞めたからといって、内藤との接点が全くなくなるわけではない。それどころか、ただ遠くから見ていることしかできなかった時よりも健太と内藤との距離は近くなっている。

 健太はそうだねと、曖昧に答えながら、水泳部に入部する際に両親が出したもうひとつの条件について思いを馳せた。

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