10

 西條が出て行き、保健室には健太と内藤が残った。

 室内は冷房が効いているため窓も閉めきっている。しんと静まり返った室内で、エアコンの吹き出し口から出てくる冷風の静かな音だけが健太の耳に入ってくる。


 内藤も健太もあまりおしゃべりな方ではない。なので西條がいなくなってしまうと、どちらかが積極的に話を振らないと全くといっていいほど会話がなくなってしまう。

 ベッドの上で体を起こしたまま、健太は遠慮がちに内藤の様子を窺った。

 内藤はベッド脇に置かれたパイプ椅子に座ってじっと窓の方を見ている。

 保健室の窓は磨りガラスになっていて外の景色は見えない。なのに、じっと窓の方へ顔を向けたままの内藤を見ているうちに、健太はふと嫌な考えに思い当たった。


(内藤はもしかしたら俺の顔も見たくないほど呆れてしまっているのかもしれない)


 マネージャーとは名ばかりで、いつも仕事は西條に頼ってばかり。しかも体調を悪くして大切な練習を中断させてしまった。

 さらには気を失った健太を内藤に保健室まで運ばせるなど、どう考えても健太は合宿の邪魔をしているようにしか思えない。これでは内藤から呆れられても仕方がない。


 色々と考えているうちに、健太は何だか内藤に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまった。

 どうしてもひと言、内藤に「ごめん」と謝りたい。健太は思いきって内藤ヘ話しかけた。


「 な、内藤。ごめ……」

「久米」


 二人同時に口を開き、驚いたように目を見合わせる。

 内藤と正面から目が合った。たったそれだけのことなのに、健太は頭の中が真っ白になってしまって続く言葉が出てこない。

 ほんのりと頬を染め、目を泳がせる健太の様子を見て内藤が目を細める。


「久米、もう大丈夫なのか?」

「え……あ、うん。少し寝たせいかな、だいぶん調子いいみたい」

「そうか。よかった」


 そう言っている間も内藤が健太のことをじっと見ている。

 さっきまで窓の方ばかりを見て、内藤が自分の方を向いてくれないことに不安を感じていたというのに、じっと正面から見つめられると、何だかとてもいたたまれない気分になってしまう。

 健太は堪らず、内藤の視線から逃れるように顔を下に向けた。


(………………あ)


 俯いた先、健太の着ていた半袖のパーカーのファスナーが胸元まで下げられている。

 露わになった手術痕を見た健太の顔色が変わった。


 下されたファスナーを見て動きを止めた健太へ、内藤が慌てたように言い添える。


「や、あ、悪い。寝てて苦しそうだったから開けたんだ。その……変なこととかしてないから。あ、男同士で変なことって、おかしいか」


 内藤にしては珍しく焦った様子で話しているが、健太には内藤の台詞など耳に入っていない。

 健太の中では今、中学生の時に言われたクラスメイトからの心ない言葉が思い出されていた。


『なんだこれ、気持ち悪い』

『特殊メイクかなんか?』


 もちろん冗談半分で言われた言葉だと、当時の健太も頭の中ではわかっていた。だがその時に向けられたクラスメイトたちの目に、明らかな嫌悪感が含まれていたのもしっかりと感じ取っていた。


(こんなの、内藤に見られたら)


 内藤からあの中学の時のクラスメイトらのような目を向けられたらと思うと、考えただけで泣きそうになる。

 健太は胸元を隠すようにぎゅっとパーカーの布地を握りしめた。


「久米? また気分が悪くなったのか?」


 心配そうに気づかう声とともに健太の方へ内藤の手が伸びる。

 健太は反射的に内藤の手を払いのけると、胸元を握りしめたまま、立てた膝へ顔を埋めた。


「久米」


 手を払いのけられても内藤の声は優しくて、健太の目がじわりと潤む。


「…………ごめん、内藤。俺……」


 中学の時はクラスメイトの言葉に何も返すことができなかった。だけど内藤には、内容はどうであれちゃんと思っていることを言葉で伝えたい。


「これ、胸の傷あと、小さい時に受けた手術の痕なんだ。同じ場所を二回切ったから、見た目が……ちょっと。でも、これでもだいぶん薄くなったんだ。だから……えっと、ごめん。気持ち悪いもの見せて」

「久米」


 やや強い調子で内藤に名前を呼ばれて、健太の背中が強張る。

 だがそんな強い調子とは反対に、とても優しい手つきで健太の背中へ内藤の手のひらが触れた。


「久米、顔を上げて」


 口調は優しいが、有無を言わせない内藤の台詞に健太がおずおずと顔を上げる。


「大丈夫。ちっとも気持ち悪くなんてない」

「内藤」

「だって、それって久米が二回も手術を頑張って乗り越えた証拠だろ?」

「…………っ」

「小さい久米がそうやって頑張ったから、今こうやって高校生の久米がここにいるわけだし」


 健太の目の前で内藤が微笑んでいる。

 何よりも内藤からかけられた言葉がとても温かくて、堪えきれなくて溢れた涙がぽたぽたと白いシーツの上に落ちて小さな染みを作った。

 内藤が健太の目元を手のひらで拭いながら「見てもいい?」と健太に訊ねる。


「え……」


 突然言われた内藤の言葉に健太は戸惑い、目を見開いた。

 内藤は大丈夫。わかってはいても、やはり自分ら胸元を開いて見せるのには抵抗がある。

 健太のことをじっと見つめる内藤からは、嫌悪感はもちろん、興味本位で面白がっている様子など微塵も感じない。それにもしここで健太が嫌だと言っても、内藤はそうかと言って何事もなかったように笑って済ませてくれるだろう。


「久米?」


 再度、内藤が健太の名前を呼ぶ。

 健太はこくりと息を飲み、ゆっくりと頷いた。






 パーカーの前を全て開き、ベッドの上に座った状態で健太が眼を閉じる。

 大丈夫だとは思っていても、健太の胸元を見た内藤が少しでも嫌そうなそぶりを見せたらと思うと少し怖い。


 やがてベッドの端が僅かに沈み、内藤がそこへ座ったのだとわかった。

 目を閉じていても胸元に内藤の視線を痛いほど感じて、健太の閉じた瞼にきゅっと力が入る。

 ただ見られているだけなのに、健太の胸の内側が怖いくらいにドキドキと早鐘を打つ。

 きっと内藤には健太の緊張など手に取るようにわかっているだろう。


「久米」


 ふいに内藤から呼ばれて、健太はひゅっと息を飲んだ。

 シーツを握る手がカタカタと震える。

 名前を呼んだきり内藤が何も言わない。大丈夫だと言ってはいたが、やっぱり実際に見てみるとあまりの健太の肌の醜さに内藤は引いてしまったのかもしれない。


「久米、触ってもいいか?」


 だが、かけられた言葉は健太の想像していたものとは全く違っていて、一瞬何を言われたのかわからず呆然としてしまった健太の胸元へ内藤の手が触れた。

 健太が驚きに思わず目を見開く。

 目の前ではすぐ側に座った内藤が、優しげに目を細めて健太の胸元に手を当てている。


「なっ、内藤?」

「うん」

「あの……何を、して」

「久米? これ、手術の痕、全然気持ち悪くなんてないよ」


 そう言いながら、内藤がそこだけ肌の色が他と違っていて、いびつに盛り上がっている部分を上から下へと指先でそっとなぞる。

 健太はふるりと体を震わせ、涙で潤んだ目を内藤へ向けた。


「そんな目で見ないでよ」


 内藤は少し困ったように笑うと、健太の目元を手のひらで隠した。

 健太の視界が暗くなる。同時に胸元へ何か柔らかな感触があった。

 それは手や指とはまた違ったもので、手術の痕をなぞるように何度も優しく触れてくる。

 内藤の髪が健太の顎先をくすぐり、その柔らかな感触の正体を察した健太の肌が、それとわかるくらいにさっと赤く染まった。


「久米が悪い」

「え――――」


 それは一体どういう意味なんだろう?内藤へ訊ねようとした健太の言葉は、唇と一緒にさっきまで胸元にあった柔らかなもので塞がれた。

 いくら視界を遮られていても、今、内藤から何をされているのかくらいはさすがの健太にもわかる。


 初めてのキス、しかも相手は密かに想いを寄せている内藤だ。

 ただ呆然とするしかない健太の目元から内藤の手が離れた。

 至近距離にいる内藤が、少し熱のはらんだ目でじっと健太のことを見つめている。


「――――――ごめん。嫌だった?」


 体を固くして言葉を失っている健太へ、内藤が決まり悪そうに言う。

 嫌ではない。むしろ今、自分の身に起こったことがもしかしたら健太にとって都合のいい夢なのではないのかと信じられないくらいだ。


 最近になってやっとまともな人付き合いができるようになった健太に、こんな時どう答えたらいいのかなんてわかるはずがない。

 それでもキスをされて嫌ではなかったことは内藤に伝えたくて、健太は内藤の目を見つめたまま首を横に振った。


「久米、好き」


 内藤の長い腕が健太の体を抱きしめた。

 華奢な健太の体など内藤の広い胸にすっぽりと収まってしまう。

 内藤の逞しい胸に抱き寄せられて、これまで経験したことがないくらいの勢いで健太の心臓が早鐘を打っている。

 体が熱い、呼吸が苦しい。高鳴る胸の鼓動に健太の体がついていかない。

 だけどそんな苦しささえ今の健太にとっては嬉しくて、幸せで、健太は言葉では表せない気持ちが少しでも彼へ伝わるようにと内藤の体へ腕を回し、Tシャツの背中をきゅっと掴んだ。

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