健太の通う学校はそこそこ名の通った私立の男子校で、室内プールはもちろん各部活動の合宿などで利用できる宿泊施設も学校の敷地内に併設されている。

 今回の合宿では水泳部が利用しており、そこそこの広さのある二階建ての宿舎はプールから少し歩いた場所にあった。


「西條くん、俺ひとりで歩けるよ。だから……その」


 日中、校庭に植えられた木々から聞こえてくるセミの大合唱。そのなか健太と西條が僅かばかりに出来た日陰を選んで歩く。

 あいかわらず西條の腕は健太の腰に回されたままだ。


 百六十そこそこの、男にしては小柄な健太よりも西條は何センチか身長が高いだけで、健太の方がひょろりと細い以外、二人の体格差はあまりない。

 腰に回された西條の腕も健太の体を支えているというより、ただ添えられているだけといった感じだ。


 お互いそんな気がないのはわかっているが、こう密着されてしまうと、つい自分の腰に添えられた西條の手を意識してしまう。

 健太のことを気づかってくれているのがわかっているだけに、無下に振りほどくこともできない。

 困ったなあと健太が視線を泳がせていると、うつ向き加減で隣を歩いていた西條が突然肩を震わせた。


「……っ、くく」

「西條くん?」

「くははっ……あ、あはは……ごめん。ちょ、可笑しくって」


 堪えきれないといった風に笑いだした西條は、ちょっと待ってと言うと、お腹を抱えて健太の足元にしゃがみ込んでしまった。なかなか笑いが治まらないようで肩が小刻みに震えている。


「ご、ごめん。さっきの内藤の顔が……あははは」


 わけがわからず健太が首を傾げると、それさえも可笑しいのかさらに西條が笑い転げる。


「あんなにわかりやすいのに、本人わかってないし」

「あの、西條くん?」


 しゃがんだままの西條が顔を上げた。笑いすぎて涙目になっている。

 いきなり笑いだした西條へどう反応すれば良いのか戸惑いを隠せない健太を見て、いくぶん落ち着きを取り戻した西條がにこりと笑った。


「ほんと久米って可愛い。俺、久米のこと好きだわ」

「西條くんっ?」

「あー、違う違う。そういう意味じゃないから。久米、頑張ってるよね……俺が見てもわかるのに、あの鈍感は……ホントに見ててイライラする」


 顔は笑っているのに西條が怖い。


「久米」

「は、はいっ?」

「知ってるから。俺、久米が内藤のことどう思ってるのか。俺も似たようなもんだし……もう、鈍いヤツ見てるとイライラしてくるんだよね」


(――――え?)

 

「久米がいっぱいいっぱいなのは見ててわかるけどさ。俺の経験上、内藤みたいなヤツにはもっとグイグイいかないとダメだよ……って、久米?」


 一点を見つめたまま顔色をなくしている健太。それに気づいた西條が、大丈夫か?と慌てて立ち上がる。


「ごめん、久米が具合悪いの忘れてた。ちょっと日陰に入る? それより宿舎に行った方がいいか……あと少し歩ける?」


 具合が良くないのももちろんだが、それよりも内藤に対して抱いている健太の気持ちが西條にバレていたことに健太は呆然としてしまった。


(俺ってそんなにわかりやすかった?)


 友だち付き合いも、誰かひとりにこんなに惹かれることも、そんなことを経験するはずだった時期を病室で過ごしてきた健太にとって、高校に入ってからの出来事は何もかも全てが初めての経験ばかりだ。

 いったいどこまで自分の心のなかを表に出していいものか、いまだに健太はその加減をはかりかねている。


(もしかしたら俺、知らないうちに思ってることを口に出してた? それとも態度が不自然だった? ど、どうしよ……俺が内藤のこと特別な目で見てたことが……)


 西條にバレたということは内藤も……と、そこまで考えたところで健太は猛烈な吐き気に襲われた。


「うっ……ぐ」

「え? ちょ……久米、大丈夫っ? とりあえず日陰に座って。俺、人を呼んでくるからっ」


 西條は健太を日陰に座らせると、慌ててプールの方へと駆けて行った。


(また西條くんに迷惑かけちゃったなあ)


 たくさんのセミの輪唱が、辺りに響き渡る。

 健太はぼんやりとした視界のなか、西條が駆けて行った方を眺めながら、自分の抱いている気持ちが内藤にバレてしまったのなら、もう部活には来れないなあ、などとひとり考えた。


(合宿もこのまま帰った方がいいのかなあ……あ、でも最後に一度、内藤の顔が見たかったなあ)


 健太の思いがとうとう幻まで見せるようになったのだろうか。

 ぐらぐらと揺れる視界に、水着にスニーカー姿の内藤が慌てて駆け寄って来るのが見える。

 水着にスニーカーはないよなあ。でもやっぱり内藤はかっこいいなあ……と思ったところで、健太は意識を手放した。






 ゆらゆら、ふわふわと体が浮かんでいる。

 朦朧とした意識のなか、時おり薄く瞼を開くと水色の光が目に入ってくる。

 それがあまりにも眩しくて、すぐにきゅっと瞼を閉じるのだが、またしばらくすると薄く瞼を開く。

 そんなことを繰り返しているうちに、ここはいったいどこなんだろうと、ふと健太は思った。



 水滴がポタリと健太の頬に落ちる。

 それは頬を撫でるように流れ落ち、耳朶をそっと擽ると健太の髪に吸い込まれた。


 ふわふわと浮かんでいて、水色の光が見えて、そして頬に落ちた水の粒。

 ああ、ここはプールの中なのかと一人納得した健太は、心地よい揺れのなかにゆっくりと意識を沈めた。







 目を開けると健太は保健室のベッドの中にいた。

 まだぼんやりとした視界に入るのは、眩しい水色の光ではなくて落ち着いた色味の白い天井だ。


(……なんだ)


 もうプールから上がってしまったのか。せっかく気持ちよかったのに。

 まだ覚醒しきれていない健太は、夢と現実の狭間で自分がベッドに寝かされていることを残念に思った。


「久米?」


 ふいに名前を呼ばれて、声のした方に健太がゆっくりと顔を動かす。そこには心配そうななかにも安堵の表情を滲ませた内藤がいた。


(Tシャツ、着てる)


 確か内藤は水着姿でスニーカーを履いていたはずだ。それなのに、ベッドの傍らに座って健太の様子を窺う内藤はTシャツを着ている。


(ああ、そうか。これってまだ夢の中なんだ)


「おい、久米。大丈夫か? まだ気分が悪い?」


 内藤の大きな手が健太の頬に触れた。

 それは少しひんやりとしていて、健太はまだ火照りの残る頬を無意識に内藤の手のひらへ擦りよせた。

 さらりとした手のひらが気持ちいい。


「……ん」

「く、久米っ? ちょ……寝ぼけてんのかっ?」


 手のひらへ気持ち良さそうに頬を擦り寄せる様は、まるでゴロゴロと喉を鳴らして甘えるネコのようだ。


「久米起きたー?」

「へっ? あ、うわ……っ」


 保健室の扉が開く音と西條の声に、内藤が健太の頬に添えた手を慌てて引っ込める。


「なにやってんの?」

「え、なにって……別になにもしてないけど」

「内藤、顔が赤いよ」

「そっ、そうか? 気のせいじゃないのか?」


 西條は怪訝な顔で内藤を一瞥し、健太が休んでいるベッドへ近づいた。


「久米、起きてる? 気分はどう?」


 西條が声をかけるが、健太はぼんやりとしたまま何も答えない。薄く開いた目もどこを見ているのか焦点が合っていない。


「久米、くーめ。ほら、ちゃんと目を覚まして」


 何度も名前を呼びながら西條が健太の頬をぺちぺちと叩く。

 すると徐々に目が覚めてきたのか、ようやく健太が西條の存在に気づいた。


「…………西條、くん?」

「うん、そうだよ。気分は? もう平気? 軽い熱中症だって」


 熱はないみたいだねと、西條の手が今度は健太の頬を優しく撫でた。

 それを見た内藤の眉が僅かに寄る。


「西條くんだったんだ」

「何が?」

「ええっと、内藤が水着でスニーカーを履いてて、俺がプールに浮かんでて……それで手が、冷たくて。でもそれは西條くんで……」


 ぶつぶつと呟きながら、横になっていた健太が体を起こそうとベッドに肘をついた。とっさに内藤の腕が伸びる。

 だが内藤の手が健太へ届く前に、側にいた西條の手が当然のように健太の背中へ添えられた。


「ありがと」


 行き場を失った内藤の手が宙を泳ぐ。


「まだ寝ぼけてるだろ。ほら、これ飲んで」


 そう言って西條が健太の手によく冷えたポーツドリンクのペットボトルを握らせた。


「……ん。ごめん」

「気にしなくていいよ。今日はゆっくり休むようにって、有吾から」

「え、でも」

「俺のことなら心配いらないよ。暇そうなやつに手伝わせるし。久米はしっかり休んで、明日からまたよろしく」


 西條がニッと笑う。


「それと久米のこと、内藤がここまで運んでくれたから」


 口元に意味深な笑みを浮かべている西條の視線の先を健太が目で追う。そしてそこに不機嫌そうに顔をしかめた内藤の姿を見つけると、健太は飲みかけのスポーツドリンクを吹き出しかけた。


「な、内藤っ?」


 ついさっきまで見ていた夢が健太の脳裏をよぎる。

 あれは夢ではなくて現実の出来事だったのかと健太は目を瞠った。

 自分に都合のいい夢だとばかり思っていて、この際だからと健太は内藤の手に思いきり甘えてしまったのだ。

 内藤の手のひらが触れたところへ熱が集まるのがわかる。

 健太はそれを隠すように両手で自分の頬を包み込んだ。


「あの、内藤……」


 保健室まで運んでくれた内藤へ、ひと言お礼を言おうとおずおずと健太が口を開く。

 そんな健太の緊張を察したのか、西條が健太の背中を大丈夫だよという風に軽く叩いた。


「西條くん」


 振り返った健太と西條と目が合い、西條からにこりと微笑まれると健太もつられたように安堵の表情を浮かべた。

 

「――――もう大丈夫みたいだな。それじゃ、俺は戻るから」

「えっ、内藤?」


 どことなく内藤の態度が素っ気ない。声にもどこか冷たさを感じる。

 もしかして健太の気づかないうちに、内藤の気に障ることでもしてしまったのだろうか。


「内藤」


 焦った健太は、そのまま保健室を出ていこうとする内藤へ思わず声をかけてしまった。だが「なに?」と冷たくあしらわれてしまう。

 まさか内藤からそんな態度をとられてしまうとは思わなくて、健太は内藤へ伸ばしかけていた手をそろそろと下ろした。


「おい、内藤。ちょっと待てって」


 少し気まずくなった健太と内藤の間へ、割って入るように西條が口を挟む。西條の顔を見て内藤が眉をしかめる。


「だから、なに?」

「夕方の練習まで時間あるだろ? 俺、有吾から買い出し頼まれてるんだ。買い出しから戻るまで久米についててやってよ」


 西條の台詞に健太が目を瞠る。


「久米のことだから、ちょっと目を離した隙にプールに戻るかもしれないし。だからここで久米のこと見張っててよ」

「そんな、いいよ。ついててもらわなくても、ちゃんとじっとしてるから」

「…………ふうん」


 西條から疑いの目を向けられ、健太はバツが悪そうに目を泳がせた。

 西條の言う通りだ。さっきより気分もいいし、健太はこのままプールに戻って何か手伝えることがあれば手伝おうと思っていた。


「ダメだからね。安静にしておかないと、今度は夜中に具合が悪くなるよ」

「でも……」

「ダメだ」


 黙って健太と西條のことを見ていた内藤が口を開く。


「軽くても熱中症は馬鹿にできない。せっかく具合がよくなったのなら、ここで無理はしないほうがいいと思う。西條、俺はここにいるから、さっさと買い出しに行ってこいよ」

「ありがと。それじゃあ、久米のこと頼むね。久米、ちゃんと寝てないとダメだからね!」

「え……西條っ? ちょっと待っ……」


 西條はもう一度「よろしく」と内藤に言うと、健太へ意味深な笑顔を残して保健室から出て行った。

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