8
合宿四日目の午後の練習中、健太はプールサイドで選手のタイムを計りながら軽い目眩を覚えた。
熱気のこもった室内プールにいるせいもあるかもしれないが、若干呼吸が苦しい。
朝起きたときは特に体調がよくないだとか思わなかったが、合宿が始まってから少し無理をしていたようだ。
しかも今日は弁当の手配をし、その後、宿舎の片付けをしているうちに午後の練習時間になってしまい、昼の薬を飲みそびれてしまっている。
「久米? 大丈夫?」
健太の隣にいた西條が異変に気づいた。
「……ん。たいしたことないんだけど……ちょっとだけ座っててもいいかな?」
「こっちは平気だから座ってなよ。ストップウォッチ貸して」
「ごめん」
本当はもうちょっと頑張りたかったが、健太はいよいよ立っているのも辛くなってきたため、西條へストップウォッチを渡すとパイプ椅子へ倒れ込むように座った。
やっと普通の学校へ通えるようにはなったが、健太にはまだあまり無理ができない。
「気にしないでいいって、去年は俺ひとりでやってたんだから。そこから俺の華麗なストップウォッチ捌きを見てな」
そう言って、西條が両手に持ったストップウォッチを健太へ掲げて見せる。
練習途中で健太が休んでしまったことを気に病まないよう、わざとふざけてみせる西條の気づかいが嬉しい。
今回のところは西條に甘えることにして、健太はパイプ椅子に座ったまま、ぼんやりと練習中のプールを眺めた。
いつもは放課後に練習をしているため、室内は明かりがともされている。
だが今はまだ昼下がりの明るい時間帯だ。室内プールの壁上方にある明かり取りの窓から入る陽光が練習中の室内を明るく照らしている。
波立つ水面が日の光を受けてキラキラと輝く。
プール底面の薄い青色も普段見るよりもずっと鮮やかで、一瞬、健太は自分が今いる所がどこか知らない別の場所なのではないかと錯覚した。
「三、二、一、用意……」
西條の合図とともに飛び込み台の軋む音が聞こえ、ザッとひと際勢いよく水しぶきがあがる。
何人かが一度にスタートを切った。
プールサイドに座っている健太にまで選手らが足で水を打つ振動が伝わってくる。
白い水飛沫が立つなか、一人の選手が頭ひとつ分飛び出した。
(――――わ)
内藤だ。
目を閉じれば指先の動きまでくっきりと思い出せるくらいに何度も見た内藤の泳ぐ姿を、健太は食い入るように見つめた。
飛び散る水の粒がキラキラ輝き、その光の粒のなかをしなやかに鍛え上げられた内藤の体が水面を跳ぶように移動する。
(すごい)
胸が痛くなる。
どうやったらこんなに綺麗な動きが出来るのだろうか。
健太の手が無意識にTシャツの胸元を掴む。
泳ぎ終わるまでほんの三十秒足らず。内藤がゴールすると健太は詰めていた息をほうっと吐き出した。
去年初めて内藤の泳ぐ姿を目にしたが、水のなかで鱗を輝かせながら自在に跳ねる魚のようなその姿は、何度見ても健太の心臓をドキドキと落ち着かせなくする。
今だって内藤はとっくに泳ぎ終わったというのに健太の鼓動は速いままで、一向に落ち着く気配がない。
健太はパイプ椅子の上で上体を倒すようにして、なかなか治まらない胸の内を静めようと胸元を掴んだままゆっくりと深呼吸した。
「久米!」
焦ったように自分を呼ぶ声に、健太が体を倒したまま顔だけを上げる。
すると、慌ててプールから上がった内藤がゴーグルとキャップを脱ぎながら健太のもとへ駆け寄って来るのが見えた。
「内藤?」
「久米! どうした? どこか苦しいのかっ?」
パイプ椅子に座る健太の足元に膝をついた内藤が、心配そうな表情で健太の顔を下から覗き上げる。
「…………」
「久米?」
突然のことに驚き、言葉を失っている健太のことをどう思ったのか、内藤が苦しそうに眉を寄せた。
「顔が赤い。もしかして熱があるんじゃないのか?」
濡れた手も構わず内藤の手が健太の額に伸びる。健太は反射的に身を仰け反らせ、額に伸びてきた手を避けてしまった。
「久米?」
内藤が訝しげな顔をする。
「あ…………」
「はいはーい、内藤はちょっと久米から離れて。久米は大丈夫だよ。ちょっと暑さにバテただけだから」
健太と内藤の間に西條が割って入った。
「暑さにバテただけじゃないだろ? だって久米の顔、こんなに赤くなってるじゃないか。熱があるかもしれない」
「熱はないって……ホント鈍いよなあ内藤は。稲木先輩、久米が具合悪そうなんで宿舎に連れて行きますねー。斎藤、もう泳ぎ終わったよね? はい、これ。タイム計っといて」
西條がプールから上がったばかりの斎藤へストップウォッチをポイと放り投げる。
「西條。久米なら俺が連れて行く」
「何言ってんの? 内藤まだ練習中だろ? お前が練習終わるまで久米をこのまま待たせとく気?」
西條からぴしゃりと言われ、内藤はバツが悪そうに口を閉じた。
「ほら、みんなもまだ練習が終わってないだろ? みんな俺がいないからってサボっちゃダメだよー!」
「おい、西條!」
「何? まだ何かある?」
健太が椅子から立ち上がるのを手助けしながら、西條がチラリと内藤のことを睨みつけた。内藤が怯んだように言葉を詰まらせる。
「それじゃ、俺行くねー。あ、稲木先輩、すみません後はよろしく。久米、大丈夫? 歩ける?」
「う、うん」
納得のいかない顔で憮然としている内藤へ見せつけるように、西條が健太の背中へ手を添えた。
「あ、あの……西條くん、俺、大丈夫。ひとりで歩けるから」
さらに健太の腰へ手を回して歩くのを助けようとする西條へ、健太が遠慮がちに声をかける。
「そう? 無理しなくていいよ?」
「うん。ありがとう」
健太にはことさら優しい声で話しかける西條。
呆然としている部員らに「サボっちゃダメだよ!」と西條はもう一度言い置くと、健太と連れだってプールを出て行った。
「…………こえー……」
「久々に見たな。機嫌悪いときの西條の笑顔」
「あれには絶対逆らったらダメだ……去年あれに逆らったヤツが……」
「おい、言うな!」
何やらこそこそと話す二、三年生と、わけがわからず呆然としたままの一年生。そのなかで内藤だけが険しい顔のまま、健太と西條が出て行ったドアをじっと見つめていた。
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