『あーあ……せっかく見つけたのに』


 ベンチに座って足をぶらぶらと揺らしながら、膝の上にティッシュペーパーの包みを広げる。


『ねえ、それなあに?』


 キラキラした小さなガラス玉をコロンと転がしたような声。

 はっとした内藤が顔を上げると、点滴の下がったスタンドを片手に、内藤の会いたかったあの男の子が首を傾げながら広げたティッシュペーパーを覗き込んでいた。


『それ、なあに? 何かの葉っぱ?』

『えっと……これ、クローバー。四つ葉の』

『よつば…………葉っぱが四枚あるから?』

『う、うん。普通は三枚なんだ。だから、四枚あるのは珍しくて……』

『そうなんだ』


 男の子がティッシュペーパーの中の葉っぱをもっとよく見ようと体を屈めた。だが、点滴の管が邪魔をしてうまく屈めない。

 内藤は男の子がよく見えるようにティッシュペーパーを持つ手を少し持ち上げた。

 内藤の意図がわかったのか、男の子がにこりと内藤に笑いかける。


『――ほんとだ。四枚ある』


 すごいねと笑う男の子に「これ、あげるよ」と内藤はティッシュペーパーの包みを差し出した。


『これを持ってると願い事が叶うんだ。だから、あげるよ』

『…………?』

『ほんとは、もうひとつあったんだ。だけど俺が願い事をするのに使ったから。ひとつ余ったんだ』


 内藤が男の子の鼻先にティッシュペーパーの包みをずいと近づけると、男の子は「ありがとう」と嬉しそうにそれを受け取った。

 四つ葉のクローバーがもうひとつあったなんてもちろん嘘だ。内藤は子供なりに、男の子の前でちょっとカッコいいところを見せたかった。


 苦労して見つけた四つ葉のクローバーを男の子に渡せて良かった。

 ティッシュペーパーの中身を嬉しそうに手に取る男の子を見ていると内藤も嬉しくなってきて、二人してにこにこと笑いあった。


『真弘くん!』


 内藤と男の子が中庭のベンチで笑い合っていると、見覚えのある看護師の女性が慌てて二人のところへ駆けてきた。


『真弘くん……良かった……見つかった。すぐにおばあちゃんのところへ戻って。真弘くんのお母さんには連絡したから、急いで』

『え、なに?』

『うん……お母さんが来られた時に真弘くんがいないと心配されるでしょう? だから、ね? 行こう』


 突然慌ててやって来て、急いで祖母のところへ戻るように言われても訳がわからない。どうすればいいのかわからず内藤が戸惑っていると、隣にいた男の子が「早く行きなよ」と優しい声で内藤の背中を押した。


『あら、外に出て大丈夫なの?』


 看護士の女性が男の子の存在に気づく。


『うん。今日は調子がよくて、少しなら外に出てもいいって』

『そうなの。でもあまり無理はしないように。しばらくしたらお部屋に戻らないとダメよ。さ、真弘くんは私と一緒に行きましょう』


 あの子とまだ話したかったのに。

 内藤が看護師の女性に手を引かれながら名残惜しそうに後ろを振り返ると、ベンチの側に立つ男の子が「またね」と手を振っていた。





 看護師の女性に手を引かれ、祖母の病室のあるフロアの待合いスペースへ連れてこられると、お母さんが来るまでここにいてねと言われた。

 しばらく待合いのソファでおとなしくしていたが、なかなか母は現れない。しびれを切らせた内藤は祖母の病室へと向かった。


『……なに? これ』


 担当の看護師や、白衣を着た先生など何人もの人が祖母の病室を忙しなく出入りしている。

 内藤が邪魔にならないよう、離れた場所からそっと部屋の中を窺うと、鼻と口を透明なプラスチックのマスクで覆われた祖母が、腕に点滴の管を刺した状態でベッドに横たわっていた。


 顔色が悪い。

 あそこで寝ているのは自分の祖母じゃない。自分が別の誰かの部屋と祖母の部屋とを間違ったのだ。内藤はとっさにそう考えたが、ベッドの足元に置かれた黒いランドセルを見てへたりと床に腰を落とした。


『真弘くん? どうしたの、大丈夫?』


 祖母の担当看護師が床にへたりこんでいる内藤に気づいた。


『あの、ばあちゃん……』

『大丈夫。おばあちゃんも先生もみんな頑張ってるから。さ、真弘くんは向こうでお母さんが来るのを待ってよう?』

『…………』


 内藤はおぼつかない足どりで看護師に付き添われながら、さっきまで座っていた待合いのソファへと戻ってきた。


(ばあちゃん、ばあちゃん……)


 祖母にいったい何があったのか。今日、内藤が病院へやって来たときは……と考えて、内藤は今日はまだ祖母の顔を見ていなかったことに気づき愕然となった。

 あの子に四つ葉のクローバーを渡すことばかりを考えていて、祖母の病室へはランドセルを放り込みに立ち寄っただけだ。


 あのとき内藤が祖母の顔をちゃんと見て具合がよくないことに早く気づいていれば、もしかしたら祖母はあんな状態にはなっていなかったかもしれない。


『どうしよう……俺のせいでばあちゃんが……』


 膝の上で作った小さな握りこぶしがカタカタと震える。

 ソファにじっと座っていても落ち着かなくて、内藤はもう一度祖母の病室の前まで行った。


(ばあちゃん)


 慌ただしく出入りする看護師らの姿はなくなっていたが、相変わらず祖母の目は閉じたままだ。 このまま祖母の目が二度と開かなかったら、と考えると不安に押し潰されそうになる。

 病院の廊下で独りでいることに耐えられない。

 だが祖母のベッドの側へ行くことも怖くて出来ない。


 身動きがとれず、ただ病室のドアの前で立ち尽くすことしか出来ない内藤の手を誰かがきゅっと握った。

 内藤よりも小さな手。

 だが、しっかりと握って離さないその小さな手から伝わる温かさに、内藤の心の中にあった不安な気持ちがゆっくりと解けていった。


『大丈夫だよ』


 幼いがしっかりとした声に内藤が隣へ顔を向けると、内藤よりもずっと低い位置にあの男の子の顔があった。


『僕、さっき君がくれた四つ葉のクローバーにお願いしたんだ。おばあちゃんが早くよくなりますようにって。だから、大丈夫』


 ね?と言って男の子が点滴の管が刺さった方の手で、ティッシュペーパーの包みを見せる。そこには少しだけ萎れた四つ葉のクローバーがちょこんと乗っていた。


『二人でお祈りしよう?』

『うん』


 小さな手の平に乗せられた白い包みを見ていると内藤も大丈夫な気がしてきて、二人はしっかりと手をつないだまま病室のドアの前で祖母のことを見守った。


『真弘』


 いつの間にやって来ていたのか、内藤は母から病室の中へ入るように言われた。

 内藤が恐る恐る祖母の病室を覗くと、ベッドに横たわる祖母の手が微かに動くのが見えた。


 早く祖母の元へ行きたいと思うのに、自分のせいで祖母の容態が悪くなったという後ろめたさから内藤の足は石のように固まったままピクリとも動かない。

 男の子と繋いでいる内藤の手に無意識に力が入る。


『行きなよ。おばあちゃん、待ってるよ』


 内藤の不安な気持ちを見透かしたように、とても優しい声で男の子が内藤に祖母の元へ行くよう促す。


『大丈夫。四つ葉のクローバーがお願いを叶えてくれたんだよ』

『……っ、ばあちゃ……』


 目に涙をいっぱい溜めて祖母のところへ駆け寄った内藤は、その背後で男の子が崩れるように床に倒れたことには気づかなかった。




※※※※※




「久米、あのときはありがとう。それと、ごめんな」


 健太の隣に座った内藤がぽつりと言った。


「内藤」

「俺、あのとき久米がかなり無理してたことに気づけなかった。いつの間にか久米がいなくなってて、後から具合が悪くなったことを教えてもらったんだ。すぐにお前のところに行ったんだけど、面会謝絶になってて会えなかった」

「…………」

「その後も、久米が倒れたのが俺のせいだと思うと怖くて会いに行けなかった。しばらくして久米が大きな病院に移ったことを知って……」


 花火大会へ向かう人の流れをじっと見ていた内藤は、ふと言葉を切ると健太の方へ顔を向けた。


「高校で久米のことを初めて見たときすぐにあの時の子だってわかって、元気そうにしててすごく嬉しかった。あの子はどうなったんだろうって、ずっと気になってたんだ。あのときは一緒にいてくれてありがとうって、言いたかった」

「内藤……」

「何度だって言うよ。ありがとう、久米。それと元気な姿が見られて良かった」


 内藤の腕が健太の肩に触れた。

 触れた場所からじんと内藤の熱が伝わってくる。


「…………」


 なんと言えばいいのか、言葉を詰まらせる健太を横目に内藤が再び顔を正面に向ける。


「久米、花火だ」

「――え?」

「ほら、あっち」


 前方にあるビルとビルの間から、 大輪の花火の欠片が夜空に溶けるのが見えた。


「さすがにここからだと仕掛け花火は見えないな」

「うん。でもすごくきれいだね、花火。初めて見た」


 今いる場所からは花火は少しだけしか見えなかったが、健太にとって生まれて初めて見る打ち上げ花火はとてもきれいで、内藤と一緒にこの瞬間を過ごせたことがとても幸せだった。

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