5
※※※※※
『真弘、真弘どこ行ったの?』
内藤が小学二年生になって間もなく、母方の祖母が入院した。
当時、内藤の自宅近くに住んでいた祖母は普段から元気のかたまりのような人で、そんな祖母が入院したと聞いたときは内藤も本当に驚いた。
おばあちゃん子だった内藤は大好きな祖母のことが心配で、ちょうど小学校の帰り道にあった祖母の入院する病院へ、毎日のように立ち寄っていた。
『まあちゃんも退屈なんだよ。病院の中なら大丈夫でしょ』
『そうだけど……あの子、元気がよすぎるから。よそさまに迷惑かけてないといいんだけど』
『あの子はいい子だよ』
祖母が病室の入口をちらりと見て微笑んだ。
入口ドアの陰に隠れて母と祖母の様子を窺っていた内藤と祖母の目が合う。
目を瞠る内藤に祖母は、きゅっと口の端を僅かに上げると目線で「行っておいで」と合図を送ってくれた。
内藤が小さく頷いてドアから離れる。
そのまま足音を忍ばせて祖母のいる病室から離れ、廊下の端まで行くと、辺りに人がいないのを確認して、そばにあった非常階段を駆け下りた。
病院はエレベーターを使う人がほとんどで、非常階段を使う人はめったにいない。
人気のない階段に内藤のテンポのよい軽い足音が響く。
最初は調子よく階段を駆け下りていた内藤だったが、誰もいない階段で思いの外響く自分の足音を聞いているうちに、なぜだか心細くなってきた。だんだんと足どりがゆっくりしたものになる。
(ばあちゃん、いつ家に帰れるんだろ)
ほとほとと階段を下りていた内藤は、ベッドで半身を起こしていた祖母の姿を思い出し足を止めた。
いつもの元気はなかったが、普段と変わらずにこにこと微笑む祖母は、内藤の目には病を患っている風には見えなかった。
病床の祖母のことを考えていると病院内を探検する気もすっかり失せてしまい、内藤は階段の途中に腰をおろした。
『……っ………っく、う』
(――――ん?)
内藤がいる四階と五階の間よりずっと下の方から、誰かの声が聞こえる。どうやら子供で、泣いているようだ。
『ひっ……っ、うっ』
一生懸命に泣くのを堪えているようで、その声は耳を凝らさないとよく聞こえないくらいに小さい。
内藤の知っている入院患者はみな大人ばかりだし、祖母に会いに病院を訪れても子供の姿はほとんど見かけない。
そんなところで子供がいるという物珍しさも手伝って、内藤は泣き声の聞こえてくる階下へそろそろと移動した。
『ひ……っく、うっ……あ』
泣き声の主は一階の階段の隅っこにいた。
青色のパジャマを着ているところをみると男の子らしい。それに内藤のクラスにいる一番小柄な子よりもずっと体が小さいので、どうやら内藤よりも年下のようだ。
その子はパジャマ姿の小さな体を階段の隅で目一杯丸めていて、折れそうなくらいに痩せた腕から伸びたチューブが、滑車のついた帽子かけのようなスタンドに下がった点滴とつながっていた。
(あの子も入院してるのかな)
何となく話しかけづらい雰囲気で、内藤は二階の踊り場からこっそりと泣いている子の様子を窺った。
きっと泣いているところを誰にも知られたくないのだろう。踞るように膝を抱え、鳴き声が外に漏れないように必死で顔を伏せている。
(どこか痛いのかな……気分が悪いのかな……)
なかなか男の子が泣き止まないので内藤もだんだんと心配になってきた。
たが内藤が話しかけたところで、おそらく男の子は何も答えてはくれないだろう。どこかそんな必死さがその子にはあった。
内藤が二階の踊り場にうつ伏せになり、階段の手すりの隙間から顔を半分だけ出す。
男の子のことがどうしても放っておけなくて、内藤は彼が泣き止むまで見守ることに決めた。
『…………っう、く』
『…………』
『……っ』
『…………』
どのくらい経っただろうか。
しゃくり上げる度に揺れていた小さな背中が、ゆっくりとした呼吸に合わせて微かに上下している。それに、漏れ聞こえないよう懸命に堪えていた泣き声も、いつの間にか止んでいた。
内藤が踊り場から体を乗り出して男の子の様子を窺う。
その子は一度だけ大きく鼻を啜って膝から顔を上げた。
目元が真っ赤になっている。
涙と鼻水を拭って濡れたパジャマの袖口はシワが寄ってよれよれだし、真っ赤に腫れた目元は、誰が見ても今まで泣いていたのだと丸わかりだ。
だがその男の子はしっかりと顔を上げ、点滴の下がったスタンドを片手で押しながら何事もなかったように階段スペースから出て行った。
『――あいつ、すげえ』
内藤よりも全然小さくて弱々しいのに、 ものすごく強い。
きっと泣くほど辛い何かがあったのだと思うが、泣いているところを絶対に誰にも見せないという強い意思を、内藤は素直にかっこいいと思った。
祖母の担当の看護師さんに『子供も入院するの?』と聞いたら、祖母のいる病棟と中庭を挟んだ向かい側にある建物が小児科の病棟だと教えてくれた。
さっそく教わった建物まで探検エリアを広げた内藤は、すぐに階段のところで見かけた男の子を見つけた。
『あ、いた』
内藤が中庭の木の陰にさっと身を隠す。
その子はたいてい、入院している部屋なのだろう二階の窓から外を眺めていて、最初内藤はあの子が泣いたりしてないだろうかと心配で、病院を訪れる度に様子を見に行っていた。
だが毎日のように男の子の姿を確かめに通ううち、窓から見える男の子にしては可愛らしい小造な顔を一目見るのが、いつしか内藤の楽しみになっていた。
どうしてあの子、しかも男の子のことがこんなにも気になるのか。
あと十年、歳をとっていたなら。内藤があの子にどうしようもなく惹かれるわけが、戸惑いながらもおぼろげに理解できたかもしれない。
だが、まだ小学二年生の内藤にそんな複雑な心情が理解できるわけもなく、ただあの子の顔が見たいという一心で内藤はせっせと病院に通い続けた。
その日もいつものように学校帰りに病院へ寄ると、祖母の病室へ着くなりベッドの足元にランドセルを放り投げ、そのまますぐに中庭へ向かった。
(――――あ)
二階の窓にあの子の姿がない。
毎日必ずあの子が窓際にいるとは限らない。それは内藤にもわかってはいたが、今日に限ってはどうしてもあの男の子に会いたかった。
『…………』
内藤が自分の手元にある白い包みへ視線を落とす。
ティッシュペーパーにふんわりと包まれた四つ葉のクローバー。休み時間に内藤が校庭の隅で見つけたものだ。
クラスの女子が願い事が叶うと言っていたので、休み時間になると内藤は校庭に出て四つ葉のクローバーを探し回った。これを渡せば、もしかしたらあの子が早く元気になるんじゃないかと思ったのだ。
頑張って見つけてきたが、本人がいないのでは仕方がない。
内藤はがっくりと肩を落として、中庭のベンチにストンと座った。
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