「…………っ」


 だが、覚悟した痛みはいつまで経っても訪れない。健太は固く閉じた目を恐る恐る開き、そして息を飲んだ。


「おい、大丈夫か?」

「…………」


 健太の耳元で携帯越しではない内藤の声が聞こえた。

 耳に直接送り込まれる内藤の生の声が彼の吐く息とともに健太の耳朶をくすぐり、地面に激突するはずだった背中には内藤の逞しい腕が回されている。


 怖いくらいに忙しなく健太の心臓が早鐘を打っている。このままでは心臓が止まってしまうかもしれない。

 健太はTシャツの胸元をぎゅっと握りしめ、心を落ち着かせようとゆっくり呼吸した。


「……久米?」

「あ、ありがとう……えっと、大丈夫だから、その……」


 何度か深呼吸をしてようやく少しだけ落ち着きを取り戻したが、至近距離にある内藤の顔はさすがにまだ直視できない。

 健太は内藤から顔を逸らしたまま、すぐ目の前にある逞しい胸を両手でやんわりと押し返した。


 内藤の腕が健太の背中から離れる。

 だいたい半歩くらい。健太と内藤の間にできた「友だち」の距離に、健太はほっとしながらちょっぴり寂しくも感じた。


「久米、大丈夫なのか?」


 どうやら内藤は本気で健太の体調が良くないと思っているらしい。

 微妙に顔を逸らしていても、健太は内藤からの気づかうような視線を頬に感じる。


 実際のところ具合なんて悪くない。

 健太が待ち合わせの時間に遅れたのは、初デート前の女の子のように鏡の前で服をとっかえひっかえしていたのが原因だ。


「あの、ま、待ち合わせたのって河原じゃなかったっけ?」


 内藤から心配されることが後ろめたくて、どうにもいたたまれなくなってしまった健太は、大丈夫だと言うかわりにわざと明るい声でどうして内藤がここにいるのかと訊ねた。ちょっと噛んでしまったが仕方ない。


「――――暗くなってきたし、人も増えてきたから。河原って言っても広いからさ。多分お前、俺たちのこと見つけらんないだろうってなって」

「……そうなんだ」


 きっと健太を迎えに行くのにジャンケンかなにかをして、内藤が負けたのだろう。

 そうでなければ内藤がここまで来てくれるわけがない。


 実は頭のすみでは、もしかしたら健太に会いたくて内藤がわざわざ迎えに来てくれたのかも、なんて想像していた。ちょっと浮かれかけていただけに、現実を目の当たりにすると、浮かれてしまった分、落胆もそれなりに大きい。


「えっと、わざわざごめん。ありがとう」

「…………」

「内藤?」


 健太がぺこりと頭をさげると、内藤は一瞬変な顔をしたが「気にすんな」と言って健太の頭をくしゃっと撫でた。


「――ん? 久米、これどうした? ここ赤くなってる」


 何かに気づいた内藤が、おもむろに健太の前髪をかき上げた。

 健太の額が全開になる。


「え、うわっ! ちょっと何っ?」

「どこかにぶつけたのか? コブには……なってないようだな。冷やすか?」


 健太の額がちょうど内藤の目の高さにあるため、額の中央が赤くなっていることに気づいたようだ。

 内藤の指先が健太の額を優しく撫でるように触れる。額を中心にじわじわと首から上へ熱が集まるのがわかり、健太は内藤の手を振り切るようにさっと顔を俯けた。

 ただの友だちに額を触られたくらいで顔を赤くするだなんて、絶対に変に思われる。


「久米」

「ごめん。大丈夫、だから」

「――久米」

「ぜ、全然痛くないし……」

「……俺、久米に何かした?」

「え?」


 内藤の言葉に健太が思わず顔を上げると、口調と同じ真剣な顔をした内藤が健太のことをじっと見ていた。


「内藤?」

「久米……俺のこと避けてない? 俺、考えなしなところがあるから。もしかして久米を怒らせるようなことでも言った? だとしたら謝りたいんだ」

「あの、内藤。俺別に怒ってないから」

「でも久米、普段から俺のことちょっと避けてるところあるだろ? 他のやつには普通にしてるのに、俺とは話すのもイヤそうだし」


 イヤだなんてあるはずがない。内藤がいるから健太は水泳部に入ったのに。

 話しかけられると嬉しすぎて言葉が出なくなってしまうなんて、本人を前に言えるわけがない。


「な、内藤の気のせいだって。今だってほら、普通に喋ってるし」


 健太自身が不甲斐ないのが悪いのだが、それでも自分が内藤のことを嫌っているなんて誤解をされたままなのはイヤだ。


「俺、内藤のこと避けてないよ」

「…………」


 な?と健太は頑張って笑顔を作り、内藤に笑いかけた。

 だが、健太から避けてないと言われても内藤は納得がいかないようで、その表情は固いままだ。

 どうやら健太が内藤のことを嫌っているという誤解は解けていないらしい。

 これから一緒に花火大会に行くのに、このままでは気まずすぎる。健太は何とか内藤の誤解を解こうとさらに言葉を続けた。


「本当だって! 避けてないし、嫌ってもないよ。だって俺、内藤がいたから水泳部に入ったんだし――――」

「え?」


 内藤が目を見開く。


「――――えっ……あ、いや、そうじゃなくて」

「久米、俺がいたから水泳部に入ったのか?」

「ち、違っ……」

「違う?」

「違わない、けど」


 内藤の誤解を解こうと言い募るうちに、つい健太の口が滑ってしまった。

 出てしまった言葉を今さら「嘘でした」なんて取り消すことなどできない。それによくよく考えてみると、君がいたから部活に入っただなんて、まるで健太が内藤に告白でもしているようにも受け取れる。


「久米?」


 顔が熱い。

 健太はたまらず熱くなった顔を俯け、ぎゅっと目を閉じた。


(ど、どうしよう……俺、なんてこと言ってるんだよ)


 やっと落ち着きかけていた健太の心臓が、また忙しなく動き出した。

 俯く健太の耳に、駅前の雑踏に紛れて自分の心臓の音がうるさいくらいに響く。


「わかった」


 雑踏に混じって、内藤の声が健太の耳にぽつりと落ちてきた


「――――え」


 内藤の声におずおずと顔を上げた健太の目の前には、先ほどとは違って優しげに微笑む内藤がいた。


「久米が俺のこと避けたわけじゃなかったって。それと他にもいろいろ……ごめんな、久米」

「え?」


  内藤の様子から、健太が内藤のことを避けてはいないのだとわかってもらえたようだ。だが健太には内藤から謝られる覚えがない。


「内藤? なんで内藤が俺に謝るの?」


 謝られるようなことなんて何もないのにと健太が聞くと、内藤はちょっと気まずそうな顔をした。


「俺、久米に変なこと言ったから。久米が誰かのことを嫌うとかないのに……明日から合宿も始まるし、ちょっと焦ってた」

「そんな……」


 そもそも健太が内藤のことを変に意識したのが一番悪いのに。


「……内藤、俺こそごめん」


 謝る理由を聞かれたら困るが、謝らずにはいられない。

 夕方の駅前。花火大会に行く人たちで賑わう中、二人してごめん、悪かったと頭を下げあっていると、突然内藤が笑いだした。


「内藤?」

「いや、悪い。こんなところで俺たち何やってんだと思ったら笑えてきた」


 そう言いながらも、笑いが込み上げてくるのか内藤がくつくつと笑う。そんな様子を見ていると、何だか健太もおかしくなってきて、つい吹き出してしまった。


 誤解が解けたことへの安堵、そして内藤とこうやって一緒に笑っていられる嬉しさから、健太のなかからも自然と笑いが込み上げてくる。

 ひとしきり笑っているうちに、内藤を前に緊張していた健太の肩から力が抜けた。


 ようやく落ち着いた健太が、笑い過ぎて目尻に浮かんだ涙を指で拭いながら顔を上げた。

 内藤と目が合う。


「…………内藤?」


 健太の心臓がトクンと鳴った。

 とっくに笑い止んでいた内藤が、楽しそうに笑う健太のことをじっと見ていた。


「久米が笑ってるの、いいな」

「な……っ、な、なに変なこと言ってるんだよ!」

「うん。いつも他のヤツとはそうやって楽しそうにしてるのにって、実はちょっと面白くなかった」

「…………ごめ……」

「そろそろ行こうか? みんな待ってる」


 内藤がくるりと健太に背中を向けた。

 気のせいだろうか、内藤の耳が少し赤くなっているように見える。


(内藤?)


 足早に先を行く内藤の背中を、健太は見失わないように小走りで追いかけた。

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