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小学校に入学して間もなく、休み時間に同じクラスの友だちと運動場を駆け回っていた健太は、突然の息苦しさと胸の痛みでその場に倒れた。
いったい自分の身に何が起こったのか全くわけがわからなかったが、徐々に遠くなる意識のなか、グランドに横たわった健太の視界のはしっこに見えた桜の木の薄いピンク色と、遠くで聞こえた自分の名前を呼ぶ友だちの慌てた声は、今でも記憶のスミに残っている。
結局、健太はそのまま小学校生活の約半分を病院で過ごし、その間手術も二度受けた。
退院したのは健太が小学四年のときで、定期的な通院と多少の運動制限はあったが、日常生活をおくる上で特にこれといった問題はなかった。
だから健太も久しぶりに学校へ通えることをとても楽しみにしていた。
だが実際の学校生活は健太が思っていたものとはずいぶん違っていて、見るからに儚げな健太の見た目と長期入院をしていたことから、健太は小学校の頃はもちろん中学校に上がってからも周囲から、まるで壊れ物にでも触るような扱いをうけた。
(高校は知ってるやつのいなさそうなところにしたんだけど……やっぱり、もっと食べないとダメだよなあ)
ドアの横にある手すりにもたれ、電車に揺られながら健太は片方の手で自分の二の腕に触れた。半袖のTシャツから覗く腕は華奢で白い。
もちろん女の子のような柔らかさなんてなく、ただ細いだけ。
ちょっとは鍛えてみようと腕立て伏せに挑戦してみたりもしたが、それも二回がやっと。体を鍛えようという試みは、結局自分の非力さを痛感しただけに終わった。
(…………あー、もう。せっかくみんなで遊びに行くのに、余計なこと考えない!)
健太は窓ガラスに映る自分の姿から、顔を背けるように足元へ視線を移した。
少し伸びた前髪が目にかかる。さらりとした癖のない髪。
普段は特に髪型に気を使ったりしないのだが、今日くらいはちょっと弄ってもよかったかなと思った。
(服だって結局これだし)
二時間迷った結果、健太が今身につけているのはシンプルな白いTシャツだ。裾に青色の小さな魚が三匹泳いでいる。
これはこれで悪くはないが、いつも部活でTシャツばかりなので今日くらいは違うテイストにすればよかったなと、健太はTシャツの裾をつまんだ。
(なにもデートじゃないんだし……)
はたと健太の動きが止まる。
(デ……デートって。なに考えてんの、俺)
今日一緒に花火大会へ行くのは全員水泳部の仲間ばかりで、みんな男だ。デートの要素なんてこれっぽっちもない。
なのに健太の頭の中には自然と内藤の顔が浮かんでしまう。
頭の中に思い浮かんだことを誰かに知られているわけでもないのだが、健太はそれを打ち消すようにふるふると頭を左右に振った。顔が熱い。
(内藤は友だち……友だちだろ)
健太は顔を上げて、何気なく周りへ目を向けた。
電車の中には、花火大会に行くのだろう浴衣姿の女の子が何人かいて、華やかな浴衣の柄が健太の目の端に入った。
紺や緑、黄色にピンク。カラフルな地の色に朝顔や金魚などの模様が入っていて、健太には電車の中でそこだけぱっと花が咲いたように見えた。
健太と同年代くらいの数人の男の子らが、チラチラと横目で見ながら浴衣姿の女の子たちのことを気にしている。
健太はそんな彼らからふいっと目をそらすと、窓の方へと顔を向けた。
夏になって日が長くなったが、外はもううっすらと暗くなり始めている。健太は電車の窓に映る白いTシャツを着た自分の姿を見て、ふと自分も浴衣を着ればよかったかなと思った。
(俺が浴衣を着たって、どうせ内藤は何とも思わないんだろうけど)
女の子になりたいとか、可愛い柄の浴衣が着たいとかいうわけではない。
ほんの一瞬でいい。内藤から、ちょっぴり特別な目で見てもらえたならそれで健太は満足だった。
電車で三駅。待ち合わせ場所は健太が通う高校の近くにある河原だ。
夏休みに入る前は通学中に毎朝見ていたはずの車窓の景色が、さっきまでの見馴れたものとどこか違う。
いつもは朝日を受けて輝いている家の屋根やビルの看板。それが日の暮れた今は街全体に薄墨がかかっているようで、健太の目には少し見知らぬ場所のように映った。
(電車……乗り間違えてないよな)
間違いなく下り電車のホームへの階段を駆け上がったはずだ。だが、慌てて駅へ飛び込んだので、もしかしたら逆方向の電車に乗ってしまったのかもしれない。
妙な不安感に襲われた健太は、外の景色が本当にいつもと同じものかどうか確かめようと、電車のドアにぺたりと張り付いた。
右手が無意識にTシャツの胸元に触れる。小学校の頃からの健太の癖だ。
見知った建物がないか遠くの方まで注意深く見渡してみるが、電車に乗り込んだときよりもずいぶん外は暗くなっていて、窓に額をくっつけないと外の景色がはっきりとわからない。
健太は前髪に癖がつくのも忘れ、窓に額をくっつけた。
「あ、あった」
目を凝らして、やっと見覚えのあるカラオケ店の看板を健太が見つけたタイミングで電車がひとつめの駅に到着した。
「……たっ」
停車したと同時に電車がガクンと揺れ、その拍子に健太の額が今までくっつけていた窓に思いきりぶつかった。頭の中でゴンと鈍い音が響く。
ぶつけた額を手のひらで押さえながら健太が背後を振り向くと、立っていたのとは反対側のドアが開いて乗客が乗り込んできた。
花火大会に行くのだろう、友人同士のグループやカップルの姿が目立つ。
楽しそうな彼らの様子を見ていると、まるでひとりきりで電車に乗っているのが自分だけのような気がして、健太はまたドアの方へと向き直った。
ひとつ見知っている建物を見つけると、後はどのあたりに何があるのか大体の予想がつく。
カラオケ店の隣にコンビニ、そしてもうしばらく行くと大きな書店がある。
健太はいつもとは少し雰囲気の違う外の景色を、ひとつひとつ確かめるようにじっと見つめた。
「…………」
少し待てばすぐにひとつめの駅に到着して、自分がちゃんと目的の電車に乗っているのだとわかった。なのに、健太は小さな子どもみたいに電車の窓にべったりと貼り付いた上、その窓に思いきり額をぶつけてしまった。
(――――恥ずかしい)
別に誰に見られているわけではないが、健太はぶつけた額を隠すように前髪をくしゃっとかき混ぜ、顔を俯けた。
ふたつめの駅にも停車し、降りる駅まであとひとつ。
待ってる。と言った内藤の言葉が、気がつくと繰り返し健太の頭の中で再生されている。
携帯を通して健太の耳に直接送り込まれた内藤の声は、普段聞いている声よりも少し低く掠れていて、思い出す度に心臓がきゅっと竦む。
「あー、もう。あんなの絶対、反則だって」
ゴンと音をたてて、健太がドアに額をぶつける。
ドア付近にいた乗客がぎょっとした様に健太の方へと顔を向けたが、それどころではない。
そんなことよりも、電話越しに内藤の声を聞いただけでこんなに心の中がざわざわと落ち着かなくなるのに、本人を前に果たして自分が冷静でいられるのかという方が問題だ。
昨日も一昨日も部活はあったし、もちろん内藤もいた。
特に夏休みに入ってからは朝から夕方までと部活の時間も長くなり、自然と健太が内藤と一緒になる機会も増えてくる。
他の部員たちとはすっかり打ち解けたが、いまだに内藤を前にすると健太は緊張で固くなってしまう。
(絶対、感じが悪いと思われてるよなぁ)
内藤から話しかけられても「わかった」とか「うん」とか言うのが精一杯。ましてや健太の名前を呼んで爽やかな笑顔まで見せられた日には、舞い上がりすぎて思考回路がショートし、まともに返事を返すことも出来なくなる。
健太は窓ガラスに額をぐりぐりと擦りつけながら、これまでの自分がとった行動を思い返し、内藤に対するあまりの愛想のなさに自己嫌悪に陥ってしまった。
「…………ダメだ」
――――このままでは。
内藤に憧れて、少しでも内藤に近づきたくて水泳部に入ったのに、これでは近づくどころか呆れられて……そのうち嫌われてしまうかもしれない。
内藤がかっこよすぎるのが悪いんだと、本人が目の前にいないのをいいことに、健太が自分の不甲斐なさを全部内藤のせいにしてみる。
だがそんなことを考えてみても、一度落ちた気分がそう簡単に浮上するはずもなく、そうこうしているうちに降りる駅に到着した。
少しの緊張と、たくさんのドキドキを胸に電車を降りる。
花火大会に向かう人の流れに乗りながら改札口を抜けた健太は、駅前の人混みの中に内藤の姿を見つけて目を瞠った。
「え……っ」
目を瞠ったまま固まっている健太と内藤の目が合う。すると内藤は、手を振りながら改札口で呆然と立ちつくしている健太の方へ小走りで駆けてきた。
「久米!」
膝丈のラフなパンツに黒いTシャツを合わせた内藤は、頭に巻いた黒いタオルを後ろで結んでいる。
(――――わ)
実は健太が学校以外の場所で内藤と会うのは初めてだ。いつも目にしている制服やトレーニングウエアではない普段着姿の内藤がとても新鮮で、健太は呆然としながらもつい内藤の姿に見とれてしまった。
「久米?」
あっという間に健太のもとへやってきた内藤が、呼んでも反応のない健太の顔をひょいと覗き込む。
いつも遠くからそっと見ているだけだった憧れの人の顔が突然の目の前に現れ、我に返った健太は内藤との距離のあまりの近さに思わず後ずさってしまった。
「――――えっ? うわっ!」
慌てて後ろに下がったため、健太の踵が地面に引っかかった。
バランスの崩れた体が背中から地面に向かって傾く。とっさのことでバランスを立て直すこともできず、健太は背中と後頭部への痛みを覚悟し、ぎゅっと目を瞑った。
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