夏の空と輝くきみ

とが きみえ

 久米健太くめけんたは自室の姿見の前で、鏡に映る自分の姿を納得のいかない表情で食い入るように見つめていた。


「………………」


 胸元にあてた紺色のポロシャツと鏡の中の自分の顔を難しい表情で何度も見比べる。そうしてしばらく鏡を見つめていたかと思うと、今度は眉間にきゅっと皺を作り、胸元にあてていたポロシャツを無造作にベッドの上へと放り投げた。


「どうしよう……やっぱりさっきのシャツの方がよかったかな」


 ぼそりと呟き、ベッドの上に放り投げられた何枚もの洋服の下から、今度は薄いブルーのシャツを引っ張り出して体にあててみる。


「なんか違う。下はこれでいいとして……あんまり気合が入りすぎるのも引かれるかも……うん、ここはシンプルにあっちのTシャツの方が……」


 ボトムが決まるまで一時間。さらに、そのボトムに合わせたトップスがなかなか決まらず、姿見の前で健太が洋服をとっかえひっかえし始めてもうすぐ二時間になる。

 部活の友人らと花火大会に出かけるだけなのだが、健太の表情は真剣そのものだ。


「花火大会だし、やっぱり浴衣とか……? あ、でも俺浴衣持ってないや。近くで浴衣売ってるところってあったっけ…………」


 と、健太が何気なく本棚に置かれたデジタル時計に視線を移し、待ち合わせの時間を五分過ぎていることに目を瞠る。それと同じタイミングで、机の上に置いた携帯がブルブルと震えながら着信を知らせた。

 シャツを左手に掴んだまま、空いた手であわあわと携帯を取る。


「はっ、はいっ!」

『久米? 今どこ?』


 慌てる健太とは対照的に、携帯の向こうから聞こえる声は落ち着いている。


「――へっ!? い、いまっ!?」


 同じ水泳部の内藤真弘ないとうまさひろからの電話に思わず健太の心臓がぴょんと跳ね、声が変に裏返った。

 内藤から今どこと聞かれ、健太は携帯を耳にあてたままキョロキョロと部屋の中を見渡した。当たり前だがここが自分の部屋だと再確認するとおずおずと口を開く。


「…………ごめん……まだ家……」

『えっ、マジ?』

「うん……ごめん……」


 健太はその場へずるずるとしゃがみ込み、耳にあてた携帯を両手で掴むと肩を竦めながら背中を丸めた。

 着ていく服がなかなか決まらず、待ち合わせの時間を過ぎてしまっただなんて、とてもじゃないが恥ずかしくて言えない。


 待ち合わせの時間を過ぎてもまだ家にいるだなんて、内藤もきっと呆れているに違いない。

 今からどんなに急いでも健太の自宅から待ち合わせ場所の河原まで二十分はかかる。

 着ていく服を選ぶのに二時間もかけてしまうくらい楽しみにしていた花火大会だったが、内藤をはじめ一緒に行くはずだった他のみんなにも迷惑をかけることを思うといたたまれない。

 健太は携帯をぎゅっと握り直すと、意を決したように口を開いた。


「あの……ホントごめん。今日はもう……」

『大丈夫か?』

「え?」

『もしかして体調が悪くて寝てたとか』

「体調?」

『久米、最近すごく頑張ってただろ? 部活。具合が悪いなら無理することないから。みんなには俺から言っとくし』

「え、あ……」


 確かに健太はここ最近、とても部活を頑張っていた。

 高二になってから思いきって入部した水泳部。健太にとっては初めてのオンシーズン、特に夏休みに入ってからは、他の誰よりも早くプールに顔を出していた。


 マネージャーとしてだが。


『――それじゃあ、ゆっくり体を休めとけよ』


 内藤の中で健太はすでに具合が悪くて寝込んでいたことになっているらしい。さっさと電話を切り上げようとする内藤を引き止めるように、健太は思わず携帯に向かって叫んでいた。


「待って! 行く、行くからっ! えっと、学校の近くの河原だったよね。ちょっと遅れるけど、俺、行くからっ! 絶対行く!」

『………………』

「体も全然疲れてないし、ほんと元気だから。俺、打ち上げ花火とか近くで見たことなくて、今日すごい楽しみにしてたんだ」

『………………』


 手の中の携帯端末に向けてひとしきり叫び、少し落ち着きを取り戻した健太は、そこでやっと内藤が無言なことに気づいた。


「あ、あの……内藤?」


 たかだが友達同士で行く花火大会にこんなに必死になるなんて、もしかしなくても絶対に引かれたに違いない。

 健太が恐る恐る内藤の名前を呼ぶと、携帯越しに微かに笑う気配がした。


『わかった。待ってるよ』

「うん……うん、急いで行く!」

『花火が始まるのは暗くなってからだから急がなくても大丈夫だよ。出店も出てるし、みんな適当に時間潰してるからさ』

「わかった。でも、急いで行くから!」


 勢い込む健太の様子に内藤は一瞬黙ったが、「気をつけて」と健太を気遣う優しい声が携帯の向こうから聞こえた。


 通話を終えると、健太は床にしゃがみ込んだまま手の中の携帯をじっと見つめた。


「待ってるって。内藤、俺のこと待ってるって言った」


 耳に残る内藤の声。健太よりも低くて、落ち着きのある声で言われた「待ってる」という言葉を思い返し、健太の頬が緩む。


 たとえそれがただの友達に対して向けられた言葉だったとしても、水泳部に入部するまで内藤のことを遠くから眺めることしかできなかった健太にとって、こうやって彼から言葉をかけてもらえるだけでとても幸せな気分になる。


「――あ、時間」


 だがそれも一瞬のことで、健太は再度、本棚に置いてあるデジタル時計に目をやると、ベッドの上に放り出された洋服の中から適当に掴んだ一枚を頭から被った。


 財布と携帯だけを入れたボディバッグを肩に提げ、最寄駅に向けて自転車を飛ばす。

 内藤は急がなくてもいいと言ったが、健太の頭の中は内藤に一秒でも早く会いたいという思いでいっぱいで、自転車のペダルにかけた足に自然と力が入る。


 駅のホームへの階段を駆け上がり、発車寸前の電車に転がり込むように乗り込んだところで、健太はTシャツの胸元を押さえながら息を整えた。


(大丈夫)


 電車内はそこまで混み合っていないし冷房も効いている。なのに健太の額にじわりと汗が浮かぶ。


(大丈夫、大丈夫)


 息苦しくもないし、痛みもない。心臓もちゃんと動いている。

 健太はドア横の手すりにもたれ、窓から外を眺めた。見なれた景色が右から左へと流れていく。


 電車の窓ガラスに映る青白い顔。細い首、細い腕、うすっぺらな体。見なれた自分の姿なのに、それは周りの同年代の人たちと比べてあまりにも頼りない。


(こんなだから時間に遅れただけで寝込んだとか思われるんだろうなあ)


 内藤のように逞しい体つきにとまではいかないまでも、せめて服に着られない程度にはなりたい。


 無意識に胸元へ伸びた指先に、そこだけ僅かにほかと感触の違うところがある。もう何年も経って薄くなっているが、健太の胸の真ん中には縦に長く手術痕があった。

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