第2話 モンローウォーク
あなたはごくありふれたサラリーマンだ。
朝8時25分にはデスクに着いて、夕方5時35分には退社する。
小さな商社の経理課長が今現在のあなたの肩書きだが、部下はパートのおばさんが
ひとりいるだけ。
しかもそのおばさん、あなたより入社日が一年早く年齢も三つ年上、それで少しや
りにくい。
つい先ほども、
「あら、そうなの。いいわねぇ~。シャネルっていうの……」
明らかに私用電話、それを聞こえよがしに話すのである。
しかし、あなたは上司だからといって、
「無駄話は止して仕事をしなさい!」
とは強く怒れない。
だって、あなたも会社のパソコンでこっそりデイトレードしているのだから――。
「では、お先に失礼します」
と、事務所のみんなに聞こえるように言ってから、
「14日、楽しみにしていますね……」
と、あなたの耳元でそっとささやくおばさん――。
えっ! 何のことだ? と首をひねって、
「あっ、なるほど……そうだったのか。はいはい、わかりましたよ」
と心の中でうなづくあなた――。
バレンタインデーに心ばかりのチョコレートをいただいた。
お返しはシルクのハンカチーフと考えていたのだが、どうやらそれでは済まなく
なったようだ。
それというのも去年の忘年会が――思い出しては悔やまれる。
あなたは念願の一戸建てを持った喜びから、ついつい飲みすぎて酔ってしまった。
気がついたときはパートのおばさんと、ホテルのベッドの中だった。
「いいわよ。誰にも言わないし、これで最後にしてあげるから……ね、だからもう
一度、お願い!――」
今でも自分から誘ったのではないと思うけれども、少なくとも一度は抱いたのだ。
その日以来、あなたは彼女に引け目を感じている。
事務所の時計が5時35分をさした。
「お先です!」
あなたは会社を出ると、その足でデパートへ。
おっと、忘れるところだった。携帯を取り出して、
「あ、おれ。一時間ほど遅れるから夕食先に済ませていいよ……」
この気遣いが夫婦円満の秘訣である。
デパートの香水売場に着いて、
あら? なんだったかな……。肝心の香水の名前が思い出せない。
じゃあ、あの女優だ、あの、あの……これも思い出せない。
「えっ~と、なんていう名前だったかな~、そう、歩くとお尻がクリンクリンする
ハリウッドの女優なんだけど…………」
知っている筈なのに、マリリン・モンローという名前を思い出すのに一苦労した。
「だったらシャネル№5ですね」
店員は笑顔だったが、あなたは冷や汗ものだった。
「そうそう、それを二つください!」
もちろん一つは女房へのお返しだ。
ブランドの紙袋を提げ、駅に着いたのは7時30分過ぎ。
さっそくいつものように、あなたは売店で新聞と缶ビールを買う。
今日は小腹が空いていたので、
「それからあと肉まん一つね」。
缶ビールはやっぱり350ミリ。それ以下では物足りないしロング缶では多すぎ
る。
受け取った熱々の肉まんにかぶりついて、
「あっ、売り切れちゃうぞ!」
小走りで自動券売機に並び、特急指定券を買う。
誰にもじゃまされず座席に腰かけ、新聞を読みながらビールを飲む。
この贅沢を一度でも経験してしまえば、もうぎゅうづめの急行に乗ることなんてで
きない。
新聞に目を通しビールも飲んでしまえば、あとは降車駅まで軽く目を閉じている。
そうして自分の人生などを振り返ってみたりする。
現在、あなたは四十歳。
論語でいうところの「不惑」の歳だ。
つまり、
「人生に惑うな! 確信を持って突き進め!」
ということらしい。
だからあなたは去年の秋に、郊外の丘陵地に一戸建てを購入したのだ。
70歳までのローンを組んだが、とにかく65歳の定年まで働いて残りは退職金で
まかなえるだろう。
だから住宅ローンの心配はない。
むしろ心配なのはデイトレードのほうだ。
日経は爆騰げでも、あなたの持っている新興株は今日も下落し、含み損がまたどー
んと増えた。
しかし、それも地合がよくなれば利益にもなるだろうと、あなたはポジティブに考
える。
「そうさ、惑わされてはいけないんだ」
と思うあなたは現在四十歳、孔子先生言うところの不惑の歳――。
子供にはまだ恵まれてはいないが、夫婦仲は良い方だ。
ただ、友達は言う。
「犬なんか飼ってるから、いつまでたっても子供ができないんだよ」
日曜日には夫婦揃って買い物に行き、年に一度は温泉旅行へ行ったりもする。
もちろん犬の「ナンジャモンジャ」はその友達に預けていく。
あなたたち夫婦は近所でも評判の仲のよい夫婦。
ただ、ひとつ気がかりといえば……やっぱりパートのおばさんか――。
今年に入って、協議離婚が成立したと言ってはニンマリと笑う。
まだまだ四十三歳、女としては熟れた盛りだ。
そのおばさんからは熱い視線を感じるのだが……。
別段、態度や言葉遣いに変化はなく、あなたは自分の思い過ごしであると考えてい
る。
いや、待てよ……。
さっき「14日、楽しみにしています……」と耳元で囁やかれたときに、最後に熱
い息を吹きかけられたような気もするが――。
降車駅で普通電車に乗り換えて最寄り駅に着いたのは、午後9時を少し回ったころ
だった。
9時を過ぎると、もう循環バスもない郊外。
タクシー乗り場へ走るには、四十歳は若くない。
あなたが駆けつけた頃には、もうすでに二、三十代の若者が十人ばかり並んでい
る。
「まあいいさ……」
メタボリックシンドロームも気になる歳だし、ウォーキングは体に良い。
テクテクとあなたは駅前を歩き出した。
1キロほど線路沿いに歩くと、丘陵地を上へと昇る。
この丘陵地を20分登ると、見晴らしのよい頂に出る。
そこから新築の一戸建てが見えるのだ。
「あれ?」
───見えるはずの我が家が見えない!───
道を間違えたのかもしれない。
下草を踏み分けて、あなたは崖の縁にまで行ってみる。
崖っぷちの平たい岩の上に立って、崖下を見渡してみたが、家々の窓明かりさえ見
えない。
しかし、漆黒の闇の向こうに拡がる白い樹海――。
ふと、あなたは天を仰いだ。
青白く降りそそぐ、月のしずく。
そよ風に乗って運ばれてくるのか……甘く、艶かしい女性の歌声。
あなたは気づいた。
「マリリン・モンローの歌声だ……」
映画『ナイアガラ』で、マリリン・モンローがリクエストし、自らも歌った『KIS
S』という歌。
「そうか!」
あなたは、もう一度崖下を覗いてみた。
青白い月のしずくに洗われているのは、まさしく水が砕け散ったあとに沸き立つ白
波だった。
「そうか! ここはナイヤガラの滝なのか」
あなたの脳裡に、映画の場面がフラッシュバックする。
マリリン・モンローとジョセフ・コットンが夫婦だった。
モンローが若者と不倫関係になり、その若者が夫を滝つぼへ落として殺そうとす
る。
不倫の、三角関係のストーリーだったと思うのだが……。
最後は……。
たしか最後は、若者を返り討ちにした夫が妻をも殺し、そして殺人者となった彼は
滝つぼへ――。
「最後はみんな死んでしまうんだ」
言いながら、あなたは自分と妻と部下のおばさんの相関図を頭に描いていた。
「だ、だめだ……」
一度頭に思い描くと、打ち消そうにも簡単には消えてくれない。
どうしたわけか、あなたはどんどん足の力が抜けていく。
崖っぷちの岩の上で、あなたは恐るおそる足を運ぶ。
踏み出した左足が、急にカクンと折れて膝から崩れ落ちそうになる。
が、踏ん張って出した右足でかろうじて身体を支える。
続いて出した左足は……やっぱりカクンと折れて崩れ落ちそうになる。
だから、体を支えるように、あなたは右足を踏み出さなければならない。
まるで不恰好なモンロー・ウォークだ。
歩けば歩くほど、左側へ弧を描いていく。
それが何を意味するのか、あなたにはわかっている。
この調子で歩き続ければ、ナイヤガラの滝つぼへ落下してしまうということを
――。
でも、歩みを止めることはできなかった。
青白く降りそそぐ月のしずくと、そよ風に乗って運ばれてくる甘く艶かしい女性の
歌声が、しっかりとあなたを捕らえて放そうとしないのだ――。
(了)
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