第2話 潔癖な男
下着泥棒が出没するという苦情を受けて、駅前派出所の若い巡査は白塗りの自転車でひとり深夜のパトロールに出ていた。
すでに終電も過ぎて駅前通りには人の姿はなかった。巡査は商店街から住宅街へ入る一角にある児童公園まで来ると自転車を停めた。下着泥棒の被害は、この公園の近辺に集中しているのだった。
公園の入口には一基の街灯がたっていて、薄暗い蛍光色の光の
巡査は、ごくりと唾をのみ込んだ。
街灯の明かりが明滅するその暗闇を縫って蛾や甲虫以外の得体の知れないものが、こちらを窺っているのではないだろうか。巡査は公園に着いた時から、何かが蠢く気配を感じていた。
しばらく躊躇していたものの、巡査はこわごわ闇の奥へ懐中電灯の光を向けた。
「――だ、だれかいるのか?」
まったく頼りない、弱々しい声だった。
公園の隅には二台のブランコが並んでいて、そのうちの一台が風もないのに揺れていた。
「な、なーんだ。ブランコか……」
巡査は何かしらほっとした。緊張で強張っていた頬の筋肉が、熱いお湯で戻した乾燥麺のようにもどけてゆく。
――それ以外のことは考えない。考えてはいけないのだ――
真夜中の公園の、しかも街灯の光りのとどかないところで、誰がブランコで遊んだりする? 家出した小学生、それともねぐらのない浮浪者か。いや、今、巡査が捜している下着泥棒かもしれない。
しかし、そうではなくて《得体の知れない何か》がブランコを漕いでいるとしたら……考えただけでも鳥肌が立ちぶるっと身震いしてしまうだろう。
今の世の中、原因究明よりも結果オーライである。巡査は今の自分の任務は下着泥棒を逮捕するのではなく、深夜パトロールを無事に終えることだと理解していた。
「早くパトロールを終えてしまおう……」
巡査が住宅街へ目を向けると、真っ暗な道を自転車をキコキコと漕いでくる者があった。目を凝らして見てみると、どうやら若い男で、背を丸めて一心不乱に自転車を漕いでいる。その姿には犯罪の匂いはなさそうだった。
無事に任務を完了するには、このままやり過ごすこともできるのだが……しかし、向こうから飛び込んでくるのを無理に避けるわけにもいかない。巡査は仕方がないと諦めると、またがっていた自転車を降り道の真ん中まで出て行った。
「ちょっと停まりなさい!」懐中電灯を男に向けて叫んだ。
「私ですか?」
男は巡査の前に来ると、ブレーキを軋ませて自転車を停車させた。
巡査は自分の命令におとなしく従った男に、少しばかりの安堵を覚えた。
しかしこの男、巡査に呼び止められたというのに少しも動揺した素振りを見せない。むしろ落ち着き払っている。
巡査は懐中電灯で男の顔を照らしてギョッとした。
男が青白い顔でニタリと笑ったのだ。口角をつり上げ、冷たい蔑視を含んだような視線で相手を見つめる瞳には、何かしら狂気めいたものが含まれている。
しかし巡査は、それは男が心の動揺をごまかすために無理につくった笑顔だからだと思った。
「君、無灯火じゃないか!」巡査は言った。
男は不思議そうに左右に首を傾げたが、
「いいえ。違いますよ。私はムトウカなんて名前じゃありません」真面目な顔で答える。
「いやいや、名前じゃない。深夜になぜライトを点けてないんだ!」
バカにされたようで巡査は語気を強めた。
「あ、なるほど。そういうことですか。そうですよねー。サントウカっていう詩人がいますけど、ムトウカなんていう名前は聞きませんものね」
男は感心したように一人で頷いている。
「ライトが壊れているのか?」
「いいえ、壊れてはいませんが、ライトを点けると摩擦でタイヤが重くなって漕ぐのに疲れるんです。あのー、やっぱりライトを点けていない私は逮捕されるのでしょうか?」
男は恐縮したように頭を掻いた。
「バカな! そんなことぐらいで逮捕はできないよ。真っ暗じゃ危ないだろう? 君の安全を思って言ってるんだ」
巡査は優越感に浸りながら込み上げてくる笑顔を押し殺して言った。
というのも、不審者を呼び止めれば、いつも「なんだよ、ポリ公!」と居丈高な罵声を浴びせられ、善良な市民からは協力は得られず、逆に蔑んだ白い目で見られていた。
その原因は最近の度重なる警察官の不祥事で、市民の警察に対する信頼は極度に失墜し、現場で職務の遂行にあたる警察官は非協力的な市民にいつも罵られバカにされていたのだ。
この気の弱い巡査などは制服に着替えただけで身のすくむような気持ちに沈んでしまう。
だから男の権力に従順そうな態度に、巡査になって二年このかた経験したことのない優越感についうれしくなってくるのだった。
「なーんだ。そうなんですか。逮捕されないんですか。じゃあ、ほっといてください!」
男は、巡査の淡い優越感などわからない。逮捕されないとわかると、とたんに横柄な態度で自転車を漕ぎ出そうとする。
「ちょちょちょ、ちょっと待ちなさい! まだすんでない! 前カゴの物は何だね?」
「紙袋です」男は何だ紙袋も知らないのか、というような顔で答える。
巡査は少しむっとしたが、感情的になると涙声になってしまう自分の性格を知っているので、一息ついてから威厳めかして尋ねた。
「――中身は何だ、と尋ねておるんだ」
「言わないとダメなんですか?」
「公務で質問しておるのだ」
「ああ、いわゆる職務質問というやつですね」
「そうだ」
「すると、突然私が逃げ出せば公務執行妨害罪ということになるんですね。あなたは公然と拳銃で私を撃つことができる」
何だ? こいつは――。やっぱり頭が少しおかしいのじゃないか、そう思った巡査は、ちょっと試してみたくなった。
「そんなことするはずないだろう。警官にとって拳銃とは、善良な市民にとっての覚醒剤と同じようなものなんだからね。そうだろう?」
すると男はしばらく右手を顎に押し当てて考え込んでいたが、
「……ほう、なるほど。うってはいけない。そうでしょう? 洒落のわかるおまわりさんでよかった。それじゃどうぞ調べてください。私は避難しますから――」
冷静に答えた男は自転車を降りてスタンドを立てた。
逆に巡査の方が、男の最後の言葉に動揺した。
「えっ? ちょっとどうしたんだ? おい、避難するってどういうことだ。いったい中身は何なんだ!」
とうわずりながら二、三歩後ずさった。
「――下着ですよ。爆弾だとでも思ったのですか」
「な、なんだ。下着かー。……何! 下着だと? きさまが下着泥棒か!」
巡査は素早く腰の特殊警棒に手をかけて、身構えた。
「自分のですよ。でも汚れているから、ガスが充満しているかもしれないのでね」
「ふざけたことを言うな! 君が中のものを出しなさい!」
男が取り出したのは糞尿まみれの白いブリ……いや、白かったであろうブリーフ。
巡査は鼻をつまんで顔をそむけた。
まさかこんなものは盗むまい。それに被害届のあったのはすべて女性の下着である。
この男、怪しいのは甚だ怪しいが、昨今出没している下着泥棒ではないらしい。
「そんなものを持ってどこへ行くんだ?」
「洗濯です。下着がこんなに汚れるとは思ってもいなかったんでね」
「君は、洗濯機を持ってないのか?」
「ありますけどね。何だか洗濯機が汚れてしまいそうで嫌なんです」
「コインランドリーなら、あそこにあるじゃないか」
男がやってきた道筋に、煌々と明かりを放つ店がある。
「ええ、でもまぶしくって堪えられないんです。だから、川へ洗濯に行くんですよ」
「何? 川へだと……」
ちくしょう! 完全になぶられているじゃないか、と憤った巡査だったが、よく見ると前カゴには洗剤の箱も入っている。どうやら、川へ洗濯に行くのはでたらめではなさそうだった。
「桃太郎のおばあさんか君は……変わった奴だ。ところで免許証? ちょっと見せて」
「持ってません」
「じゃあ、何か身分を証明するも、ない? 社員証とか……」
「会社をリストラされて名刺もないんです」
「困ったなあ」
「何も困ることはありませんよ。私の名前と住所が知りたいんでしょう?」
待ってましたとばかりに男は微笑し、すらすらと住所氏名を話した。
巡査は、男から聞いた住所氏名を手帳に記入して、とりあえずその夜は男を帰した。不審人物には違いないが、下着泥棒ではないと判断したのだった。
「このアパートですよ」
翌朝、巡査は上司の巡査長とともに男のアパートを訪れた。報告を受けた巡査長が、経験から犯罪の匂いを嗅ぎ取ったのだ。
ポストの一つには、確かに男の名前があった。といって、それが昨夜の男であるとは断言できない。何かで知ったここの住所と名前を言っただけかもしれないのだ。
見ると、ポストに新聞が二部、無造作に突っ込んである。今日の朝刊と昨日の夕刊――。
ということは、昨夜の男がそうであるならば、彼は早いうちにアパートを出ていたのではないのだろうか。夕刊の配達前にはアパートを出ていて、深夜に巡査と出会い、そのあと川へむかったのだろう。そして新聞がそのままだということは、まだ帰宅していない、ということになる。
いったい男は何をしているのだろう?
箒とちりとりを持った爺さんが顔を出したので、巡査は尋ねてみた。背格好、顔の特徴、話し方など、確かに昨夜の男とアパートの住人は一致した。
さらに話好きの管理人は、男は真面目で几帳面であるとほめながら、しかし人付き合いが極端に苦手で、その上病的な潔癖症であるため友人もできず、訪ねてくる者もいなかった、と男のネクラで偏執的な性格を憂いだ。そして、最近の男の落ち込みようから、何かしでかすんじゃないかと気にかけていたということだった。
巡査と巡査長の二人は、とりあえず男の部屋を訪ねてみることにした。
まず、巡査が男の部屋をノックした。
返事がないのでドアを引いてみると、あっさりと外側へ開いた。
今も廊下の隅からこちらを覗いている管理人の話では、男は几帳面であるということだった。その几帳面な男が鍵もかけずに出かけるだろうか……。
きれいに掃き清められた玄関のたたきには、サンダルが外向きにそろえてあった。それ以外に履物はなかったが、手を伸ばして脇の下駄箱を開けてみると、ぴかぴかに磨き上げられた黒色の短靴と茶色のハーフブーツが並んでいて、上の段には運動靴が一足そろえてあった。隅の傘立てには男物の黒い傘と透明のビニール傘が、きちんと巻いた状態で立ててあった。
玄関と、そこから見える限りでは部屋の中はきれいに片づいている。とても男の一人暮らしの部屋であるとは思えなかった。
巡査は中に向かって声をかけてみた。が、返事はなかった。
いわゆる1DKというやつである。玄関を入るとダイニングキッチンになっていて、障子の向こうに一部屋続いている。バスとトイレは玄関の横で、もし入っているのであれば、こちらの声は聞こえるだろうし、それらしい気配は感じられなかった。
が、静寂に打ち沈んだ空気の奥でコトリと物音がしたような気がした。
「いま、中で音がしませんでしたか?」
巡査は上司に尋ねた。
「いや、俺は何も聞こえなかったが……」
二人は顔を見合わせたが、どうすることもできない。捜査令状もないのに勝手に上がり込むわけにはいかなかった。
「どうやら俺の見込み違いだったようだな」
巡査長はポンと巡査の肩を叩いて、帰るように促した。
そのときまた奥の部屋からコトリと物音がした。
「聞きましたか?」
「今度は聞こえた」
二人は部屋に上がり込んだ。
先にたった巡査が障子を左右に開け放った。カーテンの隙間から縦に細長い日が差し込んでいる。
そして、洗いたての白いブリーフが部屋の中に干してあった。
――いや、そうではなくて、昨夜の男が下着姿で後ろ向きに天井からぶらさがっていたのだ。
「何やってるんだ?」
若い巡査には、それが何を意味しているのか、すぐには判断できなかった。しかし、
「おい!」
と怒鳴る巡査長の声で、ことの重大さを理解した。
「ほ、本署に連絡します!」
「まあ待て! その前に事実関係を正確につかんでおかなければ報告してもバカにされるだけだ」
巡査長は冷静だった。
巡査は向こうへ回って男の顔を確かめた。垂れた瞼で閉じられた眼は穏やかに眠っているようにも見えるが、弛緩した舌がだらしなく口からはみ出している。
しかし、まぎれもなく昨夜の男だった。そうしてすでに死んでいるのは確実だった。
部屋の中を見回してみても、きちんと整理整頓されていて、誰かと争った形跡は見当たらない。まず自殺と見て間違いなかった。
「変わった奴だとは思いましたが、自殺するようには見えなかった」
「これが今の世相だよ。簡単に死にやがる」
「でも、ほんとうに潔癖症だったみたいですね。汚れた下着を洗濯してから自殺するなんて……。それも部屋には洗濯機があるのに、それが汚れるのが嫌でわざわざ川まで行って洗濯するんですから……」
若い巡査は薄笑いを浮かべて上司に言った。
ところが巡査長は、顎を手で撫でながら考え込んでいる。
「――おい、ちょっとおかしいぞ」
「何がです?」
「俺は一度縊死を見たことがあるが、下着は糞尿で汚れているものなんだがなあ……」
「だから洗濯してからぶらさがったんですよ」
巡査は言ってから、青ざめた。
「――で、でもそんなバカな……」
「考えられんこともない。男は潔癖症だった。いざ首を吊ってみると垂れ流しだ。彼にはそれが堪えられなかった。幽霊となりながらも彼は、とりあえず川で洗濯しようと出かけてみて偶然君と出会った。彼にとっては願ってもなかった。我々はまんまとはめられたんだよ」
「ど、どういうことです?」
「我々は男に導かれたんだよ。この暑さじゃ二、三日もありゃ腐ってしまう。しかるべき人間に見つけてほしかったんだろう」
上司は窓際へ行ってカーテンを開けた。薄暗い部屋がサッと真夏の明るい光で満たされる。
そのまぶしさに振り返った二人の警官は声も出なかった。
いつの間にか死体は、窓に背を向けてぶらぶらと揺れていた。
(了)
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