第五章 3 地下迷宮の妖女

 窓のない暗い部屋の中に、女は火を灯したロウソクをかかげて立っていた。


 予想していた光景とはまったく違っていた。

 女は裸ではなく、それどころか作業着のようなツナギ服をまとい、装飾的に盛り上げていた長い髪も無造作にまとめて後ろに束ねている。


「ジョルジュの娼館へようこそいらっしゃいました、ロッシュさま。そして、キールの地下迷宮へ……」

 言いながら、女が芝居がかったしぐさで壁ぎわの厚いカーテンを引き開けると、そのむこうにはむき出しの岩の壁に囲まれた洞窟が漆黒の闇をたたえていた。


「驚いたな。まさか娼館の二階からこんなところへ入れようとは……」


 スピリチュアルの眼にはロウソクのとぼしい光で十分だった。

 人ひとりがやっと通れる曲がりくねった手掘りの穴ぐらが、えんえんと続いている。


「驚くのはまだ早い。この先にはもっととんでもない光景がいくつも待っている」

 ツェントラーはこともなげに言い、女のすぐ後ろをためらいのない足取りで歩いていく。


「いや、そういうことを言ってるんじゃない。おぬしの言うとおりなら、巣窟へ入る道はほかにいくらでもあったはずだ。私をわざと娼館などへ誘って、動揺したところを見て笑うつもりだったのだろう。おぬしの根性がねじくれているのは筋金入りだな」

 いつもどおり冷静なロッシュの声に、わずかながら怒りの色が混じった。

「残念だが、それだけではないな」

 ツェントラーの声は相変わらず笑いを含んでいた。


「あたしがご説明しますわ、ロッシュさま」

 ジョルジュが口をはさんだ。


「まず一つめは、あたし以上に地下迷宮のあらゆる道筋に詳しい者は、キール中に何人もいないからなのです」

「君が?」

「巣窟は果てがないと言っていいくらい深く、いったん迷ってしまったら二度と同じところにもどれないほど複雑なのです。落ちてしまえば自力ではい上がれない竪穴とか、すっかり水浸しになっている危険な穴があちこちにあります。不気味なアヘン窟や、秘密の倉庫代わりの横穴の前に獰猛な番犬をつないであるところもありますしね。案内人なしでは、とても目的地へたどり着くことはできません」


「なるほど……しかし、どうして君のような人が?」

 ロッシュは、不審の眼であらためてジョルジュを見た。

 男の気を誘う妖艶な娼婦の印象はすっかり消え、いかにも育ちの良さそうな利発で美しい女性の相貌に変わっている。


「もうすぐわかりますわ」

〝すぐ〟という割には、別の方向からのずいぶん古びてすえたような匂いのする横穴と合流したり、もどり道としか思えない方向へ続くレンガ壁で縁取られた穴に入りこんだりした。

 どこからか気味の悪い巨獣の唸り声が聞こえたときは、ジョルジュは慎重に別の経路を選んだし、とくにかすかでも人の声や笑い声がしたときは、遠回りだとわかっていてもいったん分かれ道まで後退し、わざとのようにひと気のない狭苦しい通路にもぐりこんだ。


 そのうえ、しばしば扉や鉄格子が立ちはだかって行く手をふさいだ。

 壁の小さなへこみに隠された鍵を探さなければならなかったり、カラクリのように扉の上の板を決まった順番に動かしていくとようやく開く仕組みのものまであった。

 たしかに、案内人は不可欠だった。


 堅固な石の扉は、ジョルジュが自分のポケットから出した鍵束で開けた。

 彼女が持つロウソクの火がフワリとなびいたと思うと、突然大きな空間に出た。

 円形に造られた平坦な石敷きの床に太い円柱が等間隔に立ち並び、見上げるほどの高い天井を支えていた。


「ここは何だ?」

「たぶん、大昔に闘技場か何かとして使われていたものでしょう」

 ジョルジュがロウソクをぐるりと回すと、列柱の影が不気味に石壁の上を動いた。


「わざわざこんな地底に造られたのだ、何と何が闘わされていたかは神のみぞ知るだがな。それを見物するのは、たぶん金持ちや上流階級だけに許された道楽だったのさ。敷石の溝にはおぞましい血が今でもこびりついていそうだ」

 ツェントラーが興味深そうに眼を輝かせて言うと、声は思いがけなく大きく反響した。


「ええ。でも、最後はあたしの家のものでした」

「君の家の?」

「あたしの家は、少し前までキールでもっとも広範囲にわたる洞窟の所有者でした。小さな頃からこっそり家人の眼を盗んで毎日洞窟の中にもぐりこんで遊んでいたんです。このホールは巣窟のほぼ中心に位置していますから、表立っては会えない商売相手との秘密の会合などに使われていたようです。あたしはここからどこへでも行くことができました」


「わかるか、ロッシュ。このホールは大陸の結節点であるキールの、さらに結節点なのだ。堅牢な石壁で囲まれていて、外から容易に入りこむことはできない。ここの扉からはどこにでも行けるが、ここを通らなければとんでもない遠回りをするしかないのだ。ジョルジュはその道を知りつくしている」

 それぞれの列柱の間に重そうな石の扉が一つずつ見えている。

「なるほどな」


 ジョルジュはその一つに歩み寄ると、また鍵束を取り出して扉を開いた。

 その先には、狭くて古い石段がさらに地底にむかって延びていた。

 湿気を帯びてひんやりとした岩壁に手をつきながら、三人は慎重にそこを降りて行った。


「この経路をとった二番めの理由は、おぬしにこれから会わせる相手が地底の牢獄にいるということだ。騎士のわたしが政庁の地下から入って尋問するのは簡単だが、それでは公式なことになって記録が残ってしまう。他国の騎士のおぬしを同伴したことは知られたくないのだ。ホールを抜けた先の洞窟は、その牢獄に反対側から入る通路につながっている。内密で面会するにはこうするしかない」

「そういうわけか」


「ああ。それと……」

 ツェントラーは言いかけて、わずかなためらいを見せた。

 それに気づいて、ジョルジュがロウソクをかかげてふり返った。


「かまいませんわ、サー・ツェントラー。ほかならぬあたしが案内しなければならない三つめの理由は、あなたがお会いになろうとしている罪人が、デュバリという男だということです。武器商人として大陸中に名を知られたキールの豪商の一人であり、傭兵たちを各地の戦場に送りこんでいた周旋屋の元締めでもあったデュバリは、あたしの実の父親なのです」


 ジョルジュの声がわずかに震えたが、それを断ち切るように彼女の手元で扉が解鍵される音がカチャリと聞こえた。

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