第五章 2 娼婦ジョルジュ
「キールのもうひとつの呼び名を知っているか? 〝巣窟都市〟というのだ。腹黒い連中が巣食い、悪だくみが横行し、裏で大金が動く――そういう象徴的な意味もある。だが、文字通りの意味でもあるのだ」
ツェントラーは気をもたせるような言い方をした。
「どういうことだ?」
「キールは城壁と川に囲まれ、余分な土地というものがない。手狭になった居場所を拡張する手っ取り早い方法は、地下に穴を掘ることさ。キールでは急な斜面にどの家もめり込むように建っている。裏の壁を崩して家を奥へ掘り広げることも可能だ」
「そうか。あちこち巣穴だらけだから巣窟都市と呼ばれるわけか」
「それだけではない。人は自然、暗闇に閉ざされた巣窟を、人に見られたくないことをする場所か、人の眼に触れさせたくないものを隠すのに使うだろう。悪の温床にもなる」
「なるほど」
「そして、そうやって何代にもわたってあちこちに穴が掘り進められると、どういうことが起こると思う。まったく意外な場所同士が結ばれてしまうのさ。意図的な場合もあれば、偶然ぶつかることもある。その出会いが、表のたたずまいからは想像もつかないような裏の顔や関係をつくることにもなる。キールには、公共の地下通路も含めて、そうした秘密の地下道が四通八達しているのだ」
「まるでアリの巣だな」
「巣窟をもっともうまく活用した者が莫大な財を成す。それがキールだ。そしておまえが会いたがっている相手こそ、そういう人間なのだ。皮肉なことに、そいつは今、囚われの身となって地中深くの牢獄に押し込まれている。そこに案内しよう」
そう言うと、ツェントラーは最後の石段を足早に下りきった。
とたんに広い通りに出た。
キールの城壁のすぐ内側をぐるりと周回する大通りだった。
通りの途中には東大門、南大門、西大門の三つの大門が高々とそびえ、それぞれが東、南、西の三街道に通じる橋にむかって開いている。
彼らの視界には、一対の尖塔を持つ西大門がとらえられた。
そこからいかめしいいくさ装束の騎馬兵が引き連れた大軍が、威風堂々と入城してくるところだった。
「戦争する気満々で来た物騒な連中もいるらしい。おう、あれはドミニオスではないか?」
ツェントラーが笑いながら指さした。
甲冑を着込んだひときわ広い背中は、まちがいなく地熱発電所の隊長をつとめていたドミニオスだった。
大軍を引率する仰々しい武者姿が、フィジカルの軍人以上に似合っている。
「ということは、クリムセルド公国か。さすがに大国だけあって壮観だな。帝国軍の面影などどこにもない。どこぞのフィジカルの精鋭軍と見まがいそうだ」
するとそこに、南大門のほうから進んできた派手な赤い肩マントの隊列が通りかかった。
「やあ、ブランカ保安部が誇る切れ者ご両所の再会か」
馬上から呼びかける者がいた。
「ああ、バルトランか……久しぶりだな」
ロッシュは驚いて声の主を見上げた。
「殿下と呼べよ、ロッシュ。今やおれはモーランド伯爵家の王太子だぞ」
ツェントラーが無表情な顔で、吐き捨てるように言った。
「そうか、名家の御曹司だったからな。おぬしが照れくさくなければ、いくらでも呼んでやるさ。――バルトラン殿下、ご機嫌うるわしゅう」
「そう、その調子だ。おれも最近はそのほうがしっくりくる気がしてきた。じゃあな」
バルトランは似合いの赤マントをあざやかにひるがえすと、すぐに隊列にもどっていった。
二人はその後をゆっくりと歩きだした。
グランディル川に面した側は低い胸壁がつづいており、その前には雑多な品物や新鮮な魚介類や果物を山と盛り上げて並べた露天商がひしめくように店ひろげしている。
道の反対側には、天井からさまざまな地方の特産品を吊るした商店や、兵士や旅人でにぎわう宿屋とか食堂、重厚な扉を備えた金融業者までがきらびやかに軒を連ねていた。
「わずか三年と半年ばかりであの変わりようか。スピリチュアルの誇りとかいうものは、いったいどこに行ったのかな」
ロッシュが正直につぶやくのに、ツェントラーがうなずいた。
「しょせん、スピリチュアルも人間ということさ。フィジカルと同じだ。環境と立場しだいでいかようにも変わる。だれもが例外ではありえない。変わらない者がいるとしたら、それは世を捨てたか、進歩を拒んだ者か、いずれにせよ脱落者に過ぎん」
「相変わらず手厳しいな」
「他人はどうでもいい。わたしだってそれなりに変わったのさ。その一端も見せてやる」
ツェントラーはとある小路へと角を曲がった。
足を踏み入れたとたん、雑然とした道の上に漂う空気が、むせかえるように濃密なものになった。
タバコの煙、きつい香料、化粧の粉と油、そして鼻をつくすえたような酒の匂いが混然としている。
まだ夕暮れにも間があるというのに、路地に引き出されたテーブルには、すでに男たちが酒杯をかかえこんで赤い顔をしていた。
まだまともな意識のある眼は、明らかにスピリチュアルとわかる若い二人組の男を警戒するように細められた。
あちこちに立つ化粧の濃い女たちは、豊かな胸を見せつけるように身体を反らしながら、とっておきの流し眼を送ってくる。
ツェントラーはその注目の中を悠然と歩き、店とも住居ともつかない奇妙な建物に入った。
「女将、ジョルジュを呼んでくれ。いつもの部屋へ」
織りに金糸を編みこんだ艶然としたドレス姿の中年の女が応対に出てくると、ツェントラーは命じるように言って、臆する風もなく悠然とした足取りで廊下を進んだ。
「承知しました。総督府の騎士方はいちばん大切なお客さまです。お連れの方にも相手をご用意しましょう。気立てがよくて、きっとお気に召しますわ」
女主人は心得顔でうなずき、先に立って階段を上った。
いちばん奥まった部屋の扉を開け、優雅なしぐさで二人を中に招じ入れた。
「娼館か。驚いたな、おぬしがこのような店のなじみとは――」
女が扉を閉めて去ると、ロッシュは、贅沢な調度品であふれた部屋を見回して言った。
続き部屋には、光沢のあるシルクの上掛けがかかった大きなベッドも見える。
ロッシュが泊まったことのあるどの宿屋や旅籠と比べても、段違いに豪華で一種蠱惑的で妖しげな雰囲気だ。
「そうかな。わたしとクレギオン閣下は、キールにはびこっていた複雑で根の深い搾取の仕組みを苦労して一掃した。この店の場合なら、裏で出資していた大金持ちの全財産を没収して、売上の半分以上もかすめ取るようなあこぎな支配から解放してやったし、店の治安を守ってやると称して金をたかりに来るヤクザ者たちはまとめて追放した。正当な稼ぎと安全を保障してやったのだぞ。最高のもてなしを受けて当然だろうが」
ツェントラーは表情も変えずに答えた。
「いや、そういう意味ではない。なんというか……男女が欲望のままにふるまうような自堕落な場所に出入りするのは、いかにもおぬしらしくないと言っているのさ」
「なんだ、そういうことか」
ツェントラーはそれでようやくわずかに苦笑を浮かべた。
そのとき、小さなノックの音がして、薄衣をまとった女性が、飲み物をのせた銀の盆を手に艶めいた身のこなしで部屋に入ってきた。
「まあ、これはこれは。いらっしゃいませ。スピリチュアルの殿方はいい男ぞろいで知られていますけど、ツェントラーさまのお仲間は、中でもまたとびっきりの美男でいらっしゃいますわね!」
派手な化粧を通してもはっきりときわだった美しさのわかる若い女が、大きな眼で射すくめるようにロッシュを見つめて言った。
「ロッシュなど連れて来るんではなかったな。ここでのわたしの株が下がってしまう」
ツェントラーはまんざら冗談でもなさそうに言ったが、女は同時に人の気をそらさない妖艶なしぐさでソファにかけたツェントラーの頬になれなれしく手をはわせ、するりとすべりこむようにその膝の上に身体をあずけた。
「ところで、だれかもう一人来るのじゃなかったのか?」
「あら、あたし一人じゃご不満? たっぷり楽しませてさしあげるのに。……いいえ、もちろん隣の部屋にシェイラを控えさせていますよ。こちらに連れてまいりましょうか?」
「いや、いい。彼女には、適当に時間をつぶしているようにと言ってくれ」
「まあ、うれしいことを!」
女はぴょんと跳び上がり、そそくさと部屋を出ていった。
「ツェントラー、何を考えているのだ! 私が会いたいと言った相手は娼婦などではないぞ。しかも、男女三人でなど……」
ロッシュは当惑してツェントラーに食ってかかった。
「そうか? せっかくおぬしのためにと思って連れてきたのだ。ジョルジュほどの女はスピリチュアルにもめったにいないぞ。堅いことを言わずに楽しめ」
ツェントラーは面白そうに謎めいた笑みを浮かべた。
その表情からは前言をひるがえすつもりなどまったくなさそうだった。
「お待たせしました。すぐ用意できますからね」
女はもどってくると後手で器用に扉に内鍵を掛け、続き部屋に入っていった。
すぐに衣ずれの音がして、女が手早く衣装を脱いでいるのがわかった。
「私は外で待つ」
言って、ロッシュが立ち上がろうとすると、続き部屋から女が呼びかけた。
「どうぞ、お二人とも奥へいらっしゃいな」
「敵にはもちろんだが、女にも弱みを見せるものじゃない。さあ、来い!」
ツェントラーはロッシュの手首をつかむと、強引に奥へ引き立てた。
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