第五章 Dungeons in Kiel キールの巣窟
第五章 1 総督邸からの眺め
広壮な屋敷の居間にその執務室は置かれていた。
「おお、ロッシュか!」
ロッシュがツェントラーの後について入っていくと、クレギオンが机の上から顔を上げ、鋭い眼差しをたちまち懐かしそうにゆるめた。
「街道には各国軍が押し寄せて、大渋滞が起こっているそうではないか。いちばん遠くから来たくせに、よく予定どおりキールに到着できたものだな」
「べつに急いだわけではありません。なにしろわが軍は少人数で身軽なものですから、遠回りなのは承知のうえでひと気のない間道ばかり抜けてきたら、いつのまにかだいぶ追い抜いてしまっていたようです」
ロッシュはこともなげに言った。
「そうか、間道をな。いかにもおまえらしく抜け目のないことだ。しかし、長旅で疲れ果てているだろう。ツェントラー、ベルジェンナ軍の宿は用意してあるのか?」
「ご心配にはおよびません。ロッシュから連絡が来てすぐ、注文よりいくぶん上等めな宿屋を人数分予約しておきました」
「ちょっと待て。こちらの予算はギリギリなのだぞ。キールじゅうの宿屋が軒並み値上がりしているというのに、反対に値切られたりしては相手は二重に迷惑だろう」
「その必要はない。人の足元を見て値を釣り上げるような、あこぎな商売をする宿は選んでいないさ。ちゃんとおぬしらの予算内で間に合うように交渉ずみだ。それに、大人数の他国軍にわずらわされないよう、こぢんまりとして快適な宿をひとつそっくり借りきってある。フィジカル兵もゆっくりくつろげるはずだ」
ツェントラーが言うと、ロッシュはニヤリと笑った。
「ありがたい。おぬしもずいぶん世慣れて、気がきくようになったじゃないか」
「なに、大国風を吹かせて強引に割り込もうとしたり、無理やり値切ろうとするやつらがいくらでもいるからな。おぬしたちの二倍の金を払っているのに、馬小屋同然の場所に押し込められる連中の悔しそうな顔を見てみたいだけさ」
「そうか。人の悪さだけは相変わらずだな」
「騎士になったくらいで、わたしが変わると思うか」
ツェントラーは、ロッシュの皮肉にもどこ吹く風といった平然とした顔で応じた。
キールは、特殊な成り立ちのブランカをのぞけば、南部第三の大都市である。
大陸を縦断する幹線である東と西の両街道が出会い、さらに南街道へと続く要衝の地となっている。
西街道に沿って流れてくる大河グランディルの水運も合わせると、あらゆる物資はキールを経由しなければ遠方へと輸送することが不可能だった。
以前のキールは、通過する物資に大陸一高い関税をかけることで莫大な富をきずいてきた。
ものによってはキールを通しただけで値段が二倍にもはね上がることもあったが、逆にいえば、キールがどれかの城門を閉ざしてしまうと、その先にある地方の経済活動はたちまち停滞し、人々の暮らしが立ちゆかなくなることを意味した。
執務室の外の広い石造りのテラスに出ると、眼下に三方の街道筋を一望することができた。
「これは壮観ですね」
ロッシュはさわやかな秋風に顔をさらし、思わず感嘆の声を上げた。
西街道と南街道からは、無数の騎馬と歩兵が長い列をなして続いていた。
城壁に設けられたそれぞれの大門へとつながる石橋の上は、入城の順番を待つ人馬の群れでごった返している。
東街道へ通じる大門だけは、ここからさらに集結地ガラフォールへ出発しようとする各国軍が比較的整然と行進しているが、それでも隊列にはほとんど切れ目がなく、そのわずかな隙間もフィジカルの輸送業者や旅人が急ぎ足で埋めてしまう。
「船でやって来る軍もあるようだ。北方のランダールなど遠隔地の国は、そのほうが時間も費用もかからないのだろう。だいいち楽だからな」
クレギオンは片肘を石の手すりにもたれ、眼下の船着場を見下ろしながら世間話でもするように軽い口調で言った。
城壁から川にむかって何本もの船着場が突き出していて、そのすべてに大小の船が押し合うように係留されていた。
積み荷に混じって騎士だけが乗船してきたものがあるかと思えば、中には甲板いっぱいにいかめしい軍装をした者たちが鈴なりになっている大型船もあった。
船を使う軍は、ここで下船して徒歩に切り替えるのである。
「男爵は、やはり根っからの軍人でいらっしゃいますね」
クレギオンの横顔にむかって、ロッシュはかすかな笑いを含んだ声で言った。
「こんなときくらい、男爵などという堅苦しい呼び方はやめてくれ。だが、たしかにわしもいちおう貴族の端くれに列せられてしまった身だ。もはや軍を率いて戦うことなどあるまい。なぜそんな風に思うのだ?」
「そうでしょうか。これだけ大きな都市で経済活動も活発であれば、執務室は街のもっと中心部のほうが――たとえば、盛大な入城式典が行われたフォーセイ広場の近くなどに置かれたほうが、なにかと便利なはずです」
言いながら、ロッシュは手すりごしに市街地を見下ろした。
かなり急な斜面に階段状に家屋がびっしりと建てこんでいる。
キールは小高い岩山を切り拓いてできた街であり、ロッシュが今立っているのは山頂近くのもっとも眺望の開けた場所だった。
「わがベルジェンナのカスケード城は、人里離れた旧王国の夏の離宮だったものですが、ここも以前は金持ちの別邸か何かだった建物でしょう。たしかに眺めは素晴らしいですが、それだけではありませんね。三街道とグランディル川をいちどに視界にとらえることができる。いざ敵が攻め寄せてきたときには、一刻の遅滞もなく的確な指示を出すことが可能です。そのためにここをお選びになったのでしょう?」
「まったくロッシュにはかなわんな。わしは面倒なことを全部ツェントラーやほかの騎士たちにまかせきりにして、のんびり景色でも眺めて暮らそうとここに居を定めたつもりでいたのだぞ。なのに、無意識のうちにそんなことまで考えていたかもしれんというのか」
クレギオンは豪放に笑った。
しかし、クレギオンにその意図があったことは明白だ。
キールは際立った要害の地でもある。
大河グランディルが、高い城壁に沿ってぐるりと蛇行している。
その自然の大防壁に加えて、残り半分の城壁の下を掘削して人工の広い堀割りで囲み、グランディルの流れを引き込んであった。
キールという都市は、さながら浮き島のように周囲から隔絶しているのだ。
しかも、主要三街道は付近にめぼしい迂回路がないため、どの方面からどの方面へ抜けるにも石橋を渡ってキールの城内を通過せざるをえない。
経済面では、以前は自由な交易を阻害する大きな障壁となっていたキールだったが、帝国内が一律の関税率に定められた現在では、逆に財貨や物資を円滑に流通させる機能を期待されている。
そして何より軍事面においては、最重要な関門としての存在となった。
キールが大門を閉ざすか開放するかによって、遠方への侵略も救援もその成否の大きな部分が決まってしまうのである。
また、いざキールに攻撃をしかけようとすれば、三方に過不足のない戦力を配置するだけの大軍勢が必要となる。
スピリチュアルが最後までキールを陥落させるのに手こずったのも、それが最大の理由だった。
土地も生産業も乏しいキールがフィジカル同士の弱肉強食の時代を生き抜くために構築した都市の形は、現在の帝国にとっては、大陸の中央にあって全体の運命を左右しかねない結束点となったのである。
それが安全弁の役割を果たすのか、はたまた死に至らしめる絞首台の縄となるのかは、この地を治める領主の裁量ひとつにかかっている。
責任感や良識、公平性とともに強い決断力も求められた。
「ですから、皇帝陛下は閣下を選ばれたのです。クレギオン閣下以外に、キールを治めることができるほどの人物はおりません」
ロッシュは心からそう思っている。
クレギオンには、皇帝から特別に『キール総督』という称号も冠せられていた。
それはキールの利益や治安を守るだけの役目ではない。
「まあ、それが陛下の買いかぶりでなければいいのだがな……」
苦笑しながらも、クレギオンもこんどは真摯に応じた。
「わしがこの大役を務められるのは長くてせいぜい一〇年だろう。そこまでやれば、新帝国の形もそれなりに整うはずだ。そうなったら、こんどこそ本当に引退してブランカに帰り、余生をのんびり送らせてもらうつもりでおる」
「領地を返上なさるというのですか?」
驚いて問い返したのは、ツェントラーだった。
「当然ではないか。わしは妻を病気で早くに亡くし、一人息子も戦死した。だから長年にわたって戦場暮らしを続けることもできたのだ。領地を相続する者がいないのだから、どのみちわしが死ねば没収されることになる」
ロッシュも真顔で反論した。
「それでは無責任と謗られましょう。たとえ一〇年経ったとしても、キールの重要性に変わりがあるはずがありません。すくなくとも、閣下が信頼に値する継承者を指名して、後を継がせるように道をつけるのが筋というものではありませんか」
「わかっておる……わかっておるさ。だから、それ以上言わせるな……」
クレギオンはうなずき、さみしそうに横顔を向けた。
「閣下は、今でもおぬしを騎士に取り立てられなかったことを悔やんでいるのだ」
ツェントラーが、散乱した汚物をよけて歩きながら言った。
クレギオンの公邸を辞すると、馬車で登ってきたゆるやかな敷石道のほうではなく、ツェントラーはわきにつけられた急な石段へと足を踏み入れた。
瀟洒な公邸のすぐ下からもう薄汚れた狭苦しい建物がごみごみと密集していて、道は小さな庭とも境界ともつかない建物の隙間を抜けてさらに別の石段へと続いている。
馬車から見た敷石道の両側には、車寄せをそなえていたり鬱蒼とした木立ちに囲まれたりしている立派な門がまえの邸宅がゆったりと敷地をとって並んでいたというのに、一歩裏側に入っただけでキールの街の様相はこのようにも一変する。
洗濯物を干しに出てきた太った女が驚いて立ちすくむのにニッコリ笑いかけると、ロッシュはツェントラーの言葉を引き取った。
「閣下のお立場からすれば、それはできないことだったろう。しかし、私でなくともおぬしがいるではないか。閣下ほどの信頼と実績があれば、おぬしを養子という形で皇帝府に承認してもらうことも不可能ではあるまい。ましてやキール総督という要職の最適な後継者となれば、欲得ずくの話ではないのだからな」
「わたしに支配者の資質が決定的に欠けていることは、おぬしがいちばんよく知っているはずだ。参謀としても、クレギオン閣下だからこそ、わたしの辛辣な意見や奇抜な提案の価値を評価してもらえているのだ。他の無能な者が上司であれば、わたしは非協力的で冷ややかな身内の批判者にしか思えぬだろう。閣下が身を引くときが来れば、わたしもやめるさ。騎士などという身分にいささかの未練もない」
「やはりそうか……」
「ただし――」
「ただし?」
「わたしを必要とする者がいれば別かもしれん」
ツェントラーは謎めかした言い方をした。
彼は公平な批評家というより、むしろ私欲のない陰謀家というべき資質の持ち主である。
親交や因縁が深いからといって、まどわされるような人間では決してない。
ロッシュはそのことをだれよりもよく知っている。
ロッシュの野望を見抜いているツェントラーは、それに加担することが自分の才覚を思う存分に発揮できることだと言っているのだ。
「クレギオン閣下の意に反することになってもか?」
ロッシュは慎重に問い返した。
「体制がこのようにも大きく変わった。軍人は勝つことが任務だ。勇将皇帝オルダインを勝たせることが、閣下にとって長らく疑いのない使命だった。そしてそれは誠実に果たされた。しかし、その結果出来上がった、皇帝を権力の頂点とする貴族制が、帝国の最終の理想形だなどということはありえない」
ツェントラーの言葉に、ロッシュは無言でうなずいた。
「むしろ火種は四方にばらまかれたのだ。どこからどういう火の手が上がるのか、予測はつかぬ。キールの、つまりクレギオン閣下の新たな役割は、その火をここで食い止めることだ。キールには大軍の襲来を撃退するような武力はない。だが、その火を別の方向に変えるとか、くすぶらせて別のもっと大きな力に変えることはできる」
「たしかに、それがキールの持つ最大の力だ」
「そういうことだ。閣下が忠誠を誓う相手は、もはやオルダイン皇帝ではない。帝国という存在そのものなのだ。帝国の未来にとって何を選択するのが正しいかとなったとき、閣下は最善を願って選択するだろう。わたしは最大の悪事が成されるのを期待して選択するというだけのことだ。どちらにしたところで、閣下とわたしが選ぶものは同じになるだろうさ――」
ツェントラーは石段の途中に立ち止まり、ロッシュにむかって悪魔のような不敵な笑みを浮かべてみせた。
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