第一章 3 辺境伯領の立場

 エルンファードは、伯母の伯爵夫人が引き止めるのを苦労して断った。

 翌朝の出発前にはかならず別れの挨拶に訪れ、夫人の手作りの弁当をもらい受けることを約束し、ロッシュとともにカスケード城を辞した。


「おまえはてっきり城に住んでいるものとばかり思っていたぞ」

 谷川にかかるアーチの石橋を馬で渡りながら、エルンファードは前を行くロッシュにむかって言った。

 ロッシュが別に屋敷をかまえていると知って、エルンファードが城に泊まっていくと思いこんで歓待の支度にかかっていた伯母に、あわてて予定の変更を伝えたのだった。


 ロッシュはすぐには答えず、橋を渡りきったところで初めて口を開いた。

「最初はそうしたさ。だが、カスケード城は特殊な場所だ。あそこに住んでいては、世の中のことがわからなくなる」

 エルンファードはうなずき、石橋ごしに背後の美しい城をふり返った。

 ロッシュが答えなかったのは、城の者の耳をはばかったからだった。


「それは言える。カスケード城はもともと、南部で隆盛を誇ったガルヌ王家の夏の離宮だったそうだな。つまり、別荘にすぎなかったってことだ。ナバーロが夏休みを過ごしにくるのと同じだ。ここで暮らしている間は、フィジカルの王も俗世間のことは忘れていたかったのだろう。人里離れていて当然か」

「ああ。政庁はスミルデの街に置いた。物産の集散地で、この国ではいちばんにぎやかな街だ。防御する城壁もないが、曲がりなりにも国の中心だ。私は一週間のうち三日はあちらにおもむいて、煩瑣な事務仕事や交渉事をこなしたり、さまざまな指示を出している。そうしないと国が立ちゆかないのだ。旧ガルヌ王国は、今はブロークフェン侯爵領と、このベルジェンナ辺境伯領に分割されている。しかし、面積の比率はおよそ九対一。ガルヌ王国の時代にも、ベルジェンナ地方は王国の辺境だったのだ。おまけに大陸の南のはずれときている。侯爵領を通過させてもらわなければ、どこに行くこともできない不便さだ」

 ロッシュは淡々と語ったが、それが意味することはエルンファードにもよくわかった。


「伯父上――おまえの主人であるベルジェンナ伯は、『早くも権力闘争を心配せねばならぬのか』と言っていたが、ご自身に割り当てられた領地こそ、最初から大国ブロークフェン侯国に併呑される危険にさらされているのだ。文官などをやっていた好人物の伯父上は、いまいちそういう生臭いことにはうといのかな」

 エルンファードは、先刻の会見を思い出しながら言った。

「おぬしは、侯国の都シャンティエールで、ブロークフェン侯にも直接面会して勅令を伝えてきたのだろう。やはりそのような意図は感じたのか?」

 ロッシュは、興味深そうに尋ねた。


 ブロークフェン侯オリアスは、明らかに最南部一帯ににらみをきかせるために皇帝から選ばれた人物である。

 旧帝国軍では第二師団を統率していた猛将で、第三師団の将軍クレギオンとは〝帝国の双璧〟と並び称されていた。


「ブロークフェン侯は、伯父上とはまるで正反対の尊大な性格だ。帝都アンジェリクからは僻遠の土地をあたえられたわけだが、ほとんど他の貴族の所領に取り囲まれていない分、面倒な駆け引きにわずらわされることはない。となれば、自然にその眼はまず、もともと同国だったベルジェンナのほうに向くさ。彼の性格からしても、背中で虫がモゾモゾ動いているのを、黙って我慢するつもりはないだろう」

 エルンファードは答えた。

「私の見立てと同じだな。昨年、シャンティエール城で近隣の諸侯や名士、大地主、大商人などを集めた園遊会が催された。そのとき、私もペレイア伯に随行していって、オリアス侯に拝謁したのだ。秀でたワシ鼻の精力的な顔つきと、豊かな銀色の髪が印象的だった。軍人というより、むしろすでに強大な権力者の風貌だったな。そうか、あの方にとってはわれわれはノミのようなものか」

 ロッシュは、愉快そうにカラカラと笑った。


 二人は城の対岸の坂道をゆっくりと登り、エルンファードが最初にカスケード城を眼にした崖の上までやって来た。

 ロッシュはそこから道をそれ、まばらな木々の間を馬を進めた。

 やがて視界が開けてきて、丘の頂上に出たことがわかった。

 このあたりではいちばん高い場所である。

 エルンファードがたどって来た道筋がゆるやかに起伏する丘陵をぬうようにつづいているのが、手に取るように見渡せた。

 点在するいくつかの森以外は一面の麦畑だった。

 オリアスならずとも、他国の支配者が欲しがるのは無理もない、豊かな実りを約束された土地である。


「これだけの収穫があれば、国庫も十分うるおうだろう。以前ならガルヌ王国に搾取されっぱなしだっただろうが、今ならそっくりおまえたちのものになるはずだ」

「理屈ではそうだな。しかし、場所が大陸の南端では、売りさばける場所も相手も限られる。多くの人手と時間をかけてやっとシャンティエールまで運び、そこの穀物問屋にいいように買いたたかれてしまっているのが現状だ。わが国の収入は、まだまだ下から数えたほうがずっと早いのさ」

 ロッシュは嘆息しながらいい、気を取り直して遠くを指さした。

「ほら、おもしろいものが見えるぞ」


 ただひとつ、全体がこんもりと森に覆われている丘があった。

 エルンファードが眼をこらすと、頂上部分が切り開かれていて、広場のようになっていた。そこにいくつかの人影が見える。

「何をしているんだ?」

「軍事教練さ。今は小麦の収穫前で、ちょうどひまな時期だ。近隣の村から若い連中を集めて、いろいろ教えこんでいるのだ」


「うーん。しかし、軍事教練にしては、武器らしきものは手にしていないし、格闘しているようでもない。いったい何を教えているんだ?」

 エルンファードの抜群の視力をもってしても、それ以上のことは見てとることができなかった。

「たぶん、二〇〇〇の兵で一万の大軍を打ち破る方法でも、伝授しているのだろう」

「二〇〇〇だと? 冗談だろう。皇帝府からベルジェンナに出兵要求されている兵力は、その一〇分の一以下だぞ。伯父上は、それだけ出すのも大変だと言っているのに」

 エルンファードの言葉に、ロッシュも苦笑した。


「いや、冗談ではない。なにしろ、教官はあのウォルセンだからな」

「なるほど。あいつなら、そんな途方もないホラを吹きかねんな」

 ロッシュはエルンファードと同じ大隊に配属されて知り合った。ウォルセンはその大隊の名物士官だった。

「そう馬鹿にしたものでもないぞ。おぬしは一度もちゃんとウォルセンの話に耳をかたむけたことがないだろう」

「当然さ。自分で自分の身を守ることも知らない男じゃないか」

「軍隊に必要なのは、戦闘で活躍する者ばかりではないぞ。その証拠に、ウォルセンの軍事教練が始まってからというもの、われわれスピリチュアルを白い眼で見るばかりで、まともに口をきこうともしなかったフィジカルの男たちが、三人、五人と、しだいにあの丘に集まってくるようになったのだ」


「ふん。あいつでも、野良仕事しか知らないフィジカルをだまくらかすくらいのことはできるんだろうさ。適当におもしろおかしい話をして、調子よく煙に巻いているにちがいない」

「私も実はそう思った。だから、一度フィジカルの若者たちの後ろに立って、ウォルセンの講義を聞いてみた。なんと彼は、私にするのと同じ話を、まったく同じ熱っぽい口調で本気になって語りかけていたよ」

「そうか。考えてみれば、相手に合わせて話の程度を上げ下げするなんていう芸当こそ、あいつにはまったく似つかわしくないな」


「そうなんだ。ウォルセンは、私がすこしは支配者らしい格好をしろと言っても、スピリチュアルの制服などいっさい着やしない。いつもフィジカルと同じ野良着姿でいる。夜はきまって、村の酒場でフィジカルの男たちと最後まで飲んだくれている。思うに、彼には、スピリチュアルとフィジカルの区別だとか、支配者と被支配者の区別だとかいうものは、面倒なだけのことなのかもしれない」

「なるほど。しかし、ウォルセンの講義がいくら人気があっても、それだけでは軍隊は編成できまい。指揮官ばかりずらりとそろえてもしょうがないだろう」

 エルンファードは皮肉っぽい笑みを浮かべた。


「そう思うだろう。ところが、戦場全体を見渡すものの見方――つまり、戦略を考えることに眼を開かされた者には、戦争というもののおもしろさがわかる。どのように弓箭隊が機能してほしいか、騎馬隊がどれだけの速度でどう動いてほしいか、歩兵がかかげる槍の角度はどのくらいが効果的で、どのくらい密集している必要があるのかと、どんどん見たこともない具体的な戦場の姿が想像されてくるのだろう。そういう者たちに、各自の役割を振り当てていくわけだ。すると、弓矢をあやつる自分がどれほどの技量と腕力が必要か、言われなくても自覚するようになる」

「うむ。それは道理だな」

「強制的にやらされる訓練ではなく、自分が必要と思う鍛錬を、兵のほうが自発的にやるようになるのさ。厳しい統制やきつい訓練ばかりが軍を強くするわけではないということだ」

「たしかにそうだ」


「しかし、弓や銃のあつかい方は、やはりわれわれスピリチュアルの騎士に聞かなければならない。雨で農作業に出られなくなったある日、一人の若者が弓をかついで私の屋敷に教えを請いに現れたときは、ほんとうに驚いたし感激したよ」

「そいつはすごい!」

「そうだろう。来週には小麦の収穫が始まる。若者たちはみな、刈り取りが終わって広々とした畑で実戦訓練ができるのを心待ちにしているよ。騎馬隊に選ばれた者たちは、今年はまだろくに馬を駆けさせていないものだから、毎日のようにあの丘にある軍馬の厩舎に集まっては、自分の馬を宝石のように磨き上げて準備しているらしい」

 ロッシュが眼を輝かせて言うと、エルンファードはそんな友の横顔をうれしそうに見つめた。


「ベルジェンナ隊の活躍が楽しみだな」

「私もだ。小さいながらも、自分たちの手で一から育てた軍隊を持ち、それを思う存分指揮することができるのだからな」

「ただ、大隊は近隣諸国で編成されることになる。たがいに協力し合うことで親交を深めるようにするための配慮なのだが、おまえたちは、どうしてもブロークフェン軍に編入される形になるだろう。割を食うことにならなければいいが」

「わかっているさ」


 ロッシュは彼らしい万事心得た冷静な表情でうなずき、ふたたび馬を進めた。

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