第一章 4 英雄エルンファードの迷い
エルンファードは、馬を横に並べて歩きながら、ぽつりと言った。
「おまえが元気そうでよかった」
「辺境の地で、しょんぼり泣き暮らしているとでも思ったのか」
「そういうわけではないが……」
エルンファードは、新制度が施行される直前の混乱と喧噪のことを思い出さずにはいられなかった。
まず、貴族に列せられることに決まった者に、爵位と領地割りが内示された。
それはそれで悲喜こもごもの反応を呼び起こしたが、それ以上に大変だったのは、二万人の帝国軍人の中から、騎士として召しかかえる者を選抜する作業だった。
貴族たちは、将来の腹心となるにふさわしい者を必死で探し求め、有能な若者を奪い合うようなことも起こった。
兵士のほうからの売り込みは禁じられたものの、貴族と騎士の契約にあたっては、おたがいの自由意志を第一に尊重すべしということだったから、場合によっては何人もの貴族から熱心な誘いを受けて迷う者もいた。
エルンファードは、引く手あまたの兵士の一人だった。
戦役では同年代を代表する勇士の一人として聞こえていたが、なにより、カナリエル奪還作戦で盗賊団をほぼ全滅に追いこんだ武勲が大きかった。
現役の指揮官の立場でもなければ、将校や兵士がどれほど勇敢で有能かを判断する手立てはなかなかない。
あてにならない評判や、受けた勲章の名や数などを根拠にするしかないのが実情だった。
しかし、カナリエルの奪還戦は、まさに貴族となる資格を有した者の多くがブランカに集結しているさなかに、そのすぐ間近で起こった。
飛空艦を飛ばしての派手な追跡劇となり、貴族となる者たちの注目を集めたばかりか、ブランカじゅうの人々を熱狂させ、強烈な印象をあたえたのだった。
先頭に立って盗賊の群れと戦ったエルンファードの評価と人気は、一躍信じがたいほどに高まった。
カナリエルを失って政略結婚のもくろみがついえた皇帝府としては、キール入城式典の際の代わりの目玉とすべく、エルンファードを急遽キールへ呼び寄せ、華々しく上級勲章を授与したほどだった。
しかし、エルンファードは、新貴族たちからの三〇以上の誘いをことごとく断ってしまった。
結婚したばかりの新妻のアラミクが――まだほんの一部の者にしか知られていないことだったが――マザー・ミランディアの後継者として将来の寮母に内定しており、ブランカから離れられないという事情を抱えていたためである。
エルンファードは唯一、皇帝からの強い要請に応じ、近衛兵となることになった。
その際、ブランカにできるだけとどまれるようにご高配いただきたいとの希望を申し添えたのだが、それは意外なことにすんなりと認められた。
エルンファードの決断は、事情を知らないおおかたの者には驚きをもたらし、無欲と受け取られたものだった。
どこからも誘いのないような兵士でも、最大の人員を擁することになる近衛軍の騎士団に自動的に繰り入れられることになっていたし、平穏であることが当然のブランカにとどまることは、戦士の技量をもっとも評価されたエルンファードとしては、戦功をたてる機会をみずから放棄したも同然だったからである。
「ところが、だ」
と、エルンファードは馬の背に揺られながら苦笑した。
「やっぱり、のんびりと幼年学校の教官などをやってるわけにはいかなかったよ」
ブランカは、新制度が発表された御前会議の際のマザー・ミランディアの強い主張に配慮して、名目上の主権者を生命回廊の寮母とすることに決まった。
しかし、政略結婚の失敗と、新制度の施行にともなって帝国軍が解体されて南部諸地方に分散してしまうという状況のもとでは、北方王国へのにらみをきかせるために、地理的に最前線にあたるブランカにまとまった戦力を集結させておく必要があった。
そこで、帝国軍の中枢たる近衛軍の四分の一が常時ブランカに駐屯することも、同時に決定されたのだった。
したがって、近衛騎士となったエルンファードが引きつづきブランカに在住することには、何の障害もなかったのである。
「三か月もしないうちに旧保安部にあたるブランカ軍司令部に引き上げられ、またすぐにアンジェリクに呼びつけられて、こんどは巡検使などという役職をおおせつかった」
「巡検使だって?」
「諸国をめぐって、国情を視察する役目ということになっているが、言ってみれば密偵だな。どこの領国もまだ基盤がしっかり定まっていないし、いろいろ問題もかかえている。皇帝府に知られたくないことだって、そろそろ出はじめるころだ。他領をひそかに侵略することが手っ取り早い解決方法だという場合もあるしな」
「では、今回の勅使というのも、表向きの顔ということか」
「まあな。だが、おもしろい仕事であることもたしかなのだ。つねに帝国全体を自分の眼で見て、国というものの生命力というか、一瞬も止まらない大きな脈動を肌でじかに感じることができる。それに、やっぱりおれは外で動いているのが好きなんだ。ブランカには一年の三分の一くらいしかいられないが、アラミクもそれで満足してくれている。ときどきは子どもの顔も見られるしな」
「おぬしの選択は、たぶんまちがっていないよ。そうか、そうだったのか……」
ロッシュは、何ごとか納得したように深くうなずいた。
「おまえのほうはどうなんだ、ロッシュ。今の境遇に満足しているのか?」
自分の現況を正直に説明したことで、エルンファードはひとつ肩の荷をおろしたような気持ちになり、率直にロッシュに尋ねた。
「ああ。おぬしのおかげでな」
「おれの? 何のことを言っているんだ」
「とぼけなくてもいい。引き受け手のまったくなかった私を、ペレイア伯に推薦してくれただろう」
「なんでそう思う。だって、どこからも誘いがなければ、おまえは結局おれと同じ近衛騎士の仲間になれたんだぞ。どうしてわざわざそんなことをする必要がある」
「同じ近衛騎士とはいっても、おぬしがすぐに昇進することは十分予想できたことだ。私のほうは、何千人といる近衛騎士のいちばん下っ端で、いつまでもくすぶっていなければならなかっただろう。なにしろ、皇女の逃亡の原因を作り、彼女を生きて連れもどせなかったことで、結果的に北方王国との関係もこじらせた。その張本人を、皇帝がおいそれと引き立ててくれるはずがないからな」
「ロッシュ……」
エルンファードには、返す言葉が見つからなかった。
「さっきも言ったように、このベルジェンナに来たことで、なかなか楽しい経験をしている。おそらく、別の大貴族にやとわれて、並みいる多数の騎士たちと張り合いながら出世を競うより、小さいながらも自分の手でなんとか切り盛りしていくしかない国をまるごと任せられたことのほうが、私にはずっと性に合っていると思う」
「それは本心か?」
「そうだ。近ごろでは、むしろ確信になってきたと言ってもいい」
ロッシュはきっぱりと断言した。
そもそものきっかけは、ペレイアからエルンファードが相談を受けたことだった。
ペレイアが文官を引退した理由は、考え方の相容れないマドランの下で働くことをいさぎよしとしなかったこともあるが、戦役で二人の息子を数年とおかずにあいついで失ってしまった失意のためだった。
余生を過ごそうとブランカへもどったが、息子たちの死からなかなか立ち直れない妻を哀れに思い、老齢にさしかかる身に不安を覚えながらも、新しい子どもをもうけることを決断した。
そんな二人に寮母がさずけてくれたのがナバーロである。
ナバーロが成長して独り立ちするまでは、同じブランカで親子三人水入らずで暮らせるはずだし、ペレイアも妻もまだ達者でいられるだろうという見込みだった。
ところが、彼らをとり巻く状況のほうが、いきなり劇的に変化した。
家柄と功績によって選帝官となっていたペレイアは、当然貴族に列せられる立場にあった。
しかし、今さら領主として国家経営の先頭に立つことなど思いもよらなかったし、ペレイアにはすでにその体力も気力もなかった。
なのに、補佐してくれる後継者どころか、その逆に、庇護してやらなければならない幼いナバーロをかかえていた。
受爵を辞退した場合、貴族や騎士であることがなによりものをいう新制度の中で、こんどはナバーロのほうが、地位も財産もなく老い先短い両親をかかえることになってしまう。
「北のブランカからはもっとも遠く離れた、しかもほんの小さな領地らしいのだ。召しかかえることのできる騎士は、せいぜい五人ほどにすぎないだろう。このような老骨が、はたして領主などつとまるものだろうか。年端もゆかない息子をブランカに置いていくだけでも耐えがたいというのに……」
それが、ペレイアがエルンファードに訴えた言葉だった。
エルンファードは、自分が近衛騎士となってブランカに残るという選択には、まったく迷いがなかった。
その決意をアラミクに伝えたとき、しかし、ペレイア伯父の悩みをどうしてやったらいいのかについては、まだ結論を出せずにいた。
「でも、あなたには、それを解決する案がもう頭の中にあるのでしょう?」
「あることはまあ……あるんだがな。しかし、最善の策なのかどうかとなると、おれにはまったく確信が持てないのさ」
「心配ないわ、エルンファード。あなたは、親友として、みずからの意志で生き方を選ぶことのできる機会をあたえてあげられるのよ。決めるのはあの方ご自身。どんなに大変な運命を背負うことになったとしても、あの方なら、けっしてあなたを恨むようなことはなさらないわ。いいえ、ご自分の決断を後悔なさることもないでしょう」
「おいおい、いったい何のことを言っているんだ、アラミク?」
「ごまかさなくていいわ。もちろん、ロッシュさまのことよ。伯父さまとナバーロのことは、あの方に託しなさい」
アラミクは、澄んだ瞳でエルンファードをまっすぐ見すえて言った。
エルンファードは、驚いてアラミクを見つめ返した。
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