第一章 5 カナリエルがめざした地

「みんな見抜かれているじゃないか。女房といい、親友といい、おれの周りは恐ろしく頭の切れるやつばかりだ。これじゃあ、まったくおれの立つ瀬がない」

 エルンファードは頭をかきながら言ったが、その顔はすっかり晴れ晴れとした表情になっていた。


「いや、それはおぬしの人徳というものだ。だれもがおぬしに篤い信頼を置いているからこそ、心を打ち明けて相談するし、助言もする。そして黙って従いもするのだ」

「おれなんかが、そんな立派な人間であるものか」

「そういう率直なところが信頼されるのさ」

 ロッシュは、うらやましさを隠そうともせずに言った。

 照れ笑いを浮かべた友人の横顔を見る細められた眼は、心から再会の喜びにあふれていた。


 眼下に麦畑を見晴らしながら斜面を下っていくと、木立に囲まれた黒い木造の建物が現れた。

 そのむこうには、城に通じる切り通しの道があるはずだ。

 建物は木立と崖に隠れて、道からは死角になって見えない造りになっていたのだ。


 ロッシュは「森番の小屋みたいなものだよ」と謙遜するように言ったが、もともとここに接近してくる敵や不審者から城を警護する砦として造られたものだろう。

 見かけは無骨ではあるがそれなりの規模はあり、堅牢な構造で、みすぼらしい印象はまったくなかった。


 そこがロッシュの屋敷だった。

 前庭に広い木造のテラスがせり出しており、夕陽に燃え上がるような色に染まった田園の風景を一望できた。

 開放的なテラスはそのまま広い居間へとつながっている。

 ガルヌ王の滞在中には、数十人の兵が警備のためにここにつめていたにちがいなく、飾り気はないものの、むき出しの太い梁や石積みの大きな暖炉が、いかにも心地よさそうな雰囲気をかもし出していた。


 おそらく、ウォルセンをはじめとする騎士たちが集う場所にもなっているのだろう。

 フロアの中央をがっしりとした長いテーブルが占めており、一〇脚ほどの椅子が置かれている。暖炉の前の空間は、ぐるりとソファが取り巻いていた。


「そうか。おまえがちょうど折よく城に姿を現したのは、こういうわけだったんだな」

 エルンファードは苦笑した。

 ソファの一つに、白い詰め襟服の少年が丸くなってぐっすり眠りこんでいた。

 一人でブランカに旅立ったはずのナバーロだった。


「ああ。伯爵夫妻に大見得をきって出てきた手前、さすがに城には帰りにくかったのだろう。ここに泊めてやることにするよ」

「おれがアンジェリクまで送ってやろうと言ったんだ。ここが詔勅を届ける最後の場所だ。帰りは二人でのんびり行くさ。おかげで退屈を感じなくてすみそうだ」

「退屈どころか、ちょっとでも眼を離したら、どこへすっ飛んでいくかわからないぞ。首にロープでもつけておくんだな」

「そうしよう」

 二人は声を忍ばせて笑った。


 エルンファードは、あらためてロッシュの住居を見回した。

 ブランカでは、人が住んでいるとは思えないほど殺風景で、掃除だけは行き届いた寒々しい部屋に住んでいたことを知っているだけに、どことなく違和感があった。


 並んだソファには、この地方の特産とおぼしき素朴な織物が、色ちがいでそれぞれに掛けてあった。

 夜でもまだ火を入れる必要のない暖炉の上には、小さな切り子細工のガラス器に野の花が一輪、可愛らしく活けてある。

 あちこちに配置された燭台も、実用性ばかりを考えて取りそろえられたものではない。

 どれもこれも、家の主人の心を静穏に保つように心がけて、そっと品よくこの空間に添えられたもののようだ。


 スピリチュアルの結婚は、以前と変わらず、寮母の差配によってブランカで執り行われることになっている。

 結婚を希望する男女が方々の領地から集まってきて、数か月間滞在し、その間に相手を見つけるのである。

 結婚と子どもの扶養は、スピリチュアルの重要な義務の一つだから、領主も、臣下の独身の騎士が希望すれば、かならずそのための休暇をあたえなければならない決まりになっている。

 同僚の年配の騎士の娘と言い交わし、仲よく手を取り合ってブランカに結婚式を挙げに来る者さえ近頃ではいるらしい。


 ロッシュは、ベルジェンナにおもむいて以来、一度もブランカに帰郷していないから、もちろん妻はいない。

 カナリエルを失った心の傷がそう簡単に癒えるはずはなく、ペレイア伯爵としても彼に結婚を無理強いする気はないのだろうし、領地経営を軌道に乗せることに手いっぱいで、とてもそれどころではないにちがいなかった。


 しかし、エルンファードには、独身の若い騎士にはいかにもうってつけの気取らない心地よさを漂わせているこの空間が、どんな者の手によってしつらえられ、維持されているかが、実はちゃんとわかっていた。


「そうだ、おれがおまえの家にどうしても立ち寄らなければならなかった用件を、まず済ませてしまわないとな」

「用件?」

 ロッシュは、けげんそうにエルンファードをふり返った。

「ああ。その前に、熱いお茶でも一杯もらおうか」

「お安い御用だ」

 ロッシュは広々としたテーブルから小さな鐘を取り上げ、チリンと鳴らすと、そのまま暖炉の前にある主人用の一人がけのソファに腰を下ろした。


 鐘の音が聞こえるのを待っていたかのように、茶器をひとそろい盆にのせてかかげた女がすぐに入ってきた。

 中年にさしかかる年配のフィジカル女性だったが、すっと伸ばされた背筋が印象的だった。

 まったく飾り気がないにもかかわらずほのかな気品さえただようような清楚なたたずまいで、「いらっしゃいませ」とよく通る小声であいさつした。

 エルンファードはソファにかけようとはせず、その婦人が眼の前まで来るのを立ったままで待った。


「あなたが、イルマですね」

「えっ」

 初対面の若いスピリチュアルに突然話しかけられて、女は驚きの表情になった。

「私はエルンファード。妻のアラミクは、生命回廊で寮母陛下にお仕えしています。これは、マザー・ミランディアから、あなたに渡すようにとことづかってきたものです」

 笑顔で言いながら、エルンファードはふところから一通の手紙を取り出した。


「そうだったのか。イルマが……」

 婦人が涙を浮かべながら何度も礼を言い、受け取った手紙を押しいただくようにして勝手のほうへ下がると、ロッシュは深くため息をつきながらソファにもたれた。


「彼女はブランカで、寮母陛下の身の回りのご用を務めていたのだ」

 エルンファードの言葉に、ロッシュは小さくうなずいたが、お茶のカップを手にしたまま、黙りこくってしばらくあらぬ方へ眼を向けていた。

 だれより回転の速い頭脳の持ち主であるロッシュは、たった今判明した事実が意味することを、すっかり悟ってしまっていた。


「……イルマは、われわれが最初にここに到着して城の召使いを募集したときには、まったく姿を見せなかった。ところが、半年ほどして城の体制と運営にめどがつき、私が独立するために荒れ果てていたこの森番小屋を片づけしている最中に、近くのルヴィエという村から、雇ってもらえないかと言ってやって来た。聞けば、以前にスピリチュアルに仕えていたことがあるという。身寄りもないというので、一も二もなく住み込みで働いてもらうことにしたのだ」


「用心深いおまえが、詳しい経歴を聞こうともしなかったのか?」

 ロッシュはわずかに苦笑した。

「私も、いちおう人を見る眼はあるつもりだ。物腰、語り口、その表情……どれを取っても疑いようのない人物に思えた。有能だがけっして出しゃばることはない。なのに、いちいち指示しなくても、目ざとく気づいてどんどんやってくれる。それどころか、家のことは何でも任せてしまえる。私は、ずぼらでいられることの快適さを生まれて初めて味わっているよ。どこでだれのために働いていたのかなどということは、本人が言いにくいのならあえて詮索する必要もなかったのさ」

「まあ、マザー・ミランディアに信頼されていたほどの人だからな……」

 エルンファードは、カナリエルに話が及ぶことをさけて、それ以上言おうとしなかった。


 しかし、ロッシュは片ひざをかかえながら、さらりと言った。

「寮母の仕事は多忙をきわめる。ご自分の子育てに割く時間など、ほとんどなかったのではないかな。カナリエルが幼年学校の高学年になって寄宿舎に入るまで、彼女を育てたのは、実質的にはイルマだったのだろう」

「ロッシュ……」


 ロッシュはかまわず、さらにつづけた。

「そうとわかってみれば、いろいろなことに納得がいく。いくら頼りになりそうな相手でも、カナリエルが、顔を合わせたばかりのフィジカルの傭兵の後について、何のあてもなく旅に出たはずがない。目的地はここだったのだ。ブランカからもっとも遠く、しかも信頼できる者が住んでいる場所なのだからな。……もしかしたら、風光明媚で、温暖で、民びとの気風も穏やかなこの土地のことを、幼いカナリエルがイルマから聞いてずっとあこがれていたのかもしれない。カナリエルの自由闊達な心は、毅然としてご自分の思うところをつらぬき通すマザー・ミランディアと、そしてあのイルマの二人によって育まれたものだったのだ」


 感慨深そうにつぶやくロッシュの言葉に、エルンファードもうなずいた。

「不思議な縁……というか、運命だな。カナリエルが遠くあこがれて目指した土地に、おまえが今こうしてやって来ている。そして、カナリエルを密かに迎えるはずだったイルマが、今はなにくれとなくおまえの世話を焼いてくれていることになる」

「うむ。私は、結果的にカナリエルを死地に追いつめてしまったというのに……そんな私を、マザー・ミランディアはどう思っていらっしゃるのだろう。おそらく、私の任地がベルジェンナだと知って、イルマに私のことを頼んでくれたにちがいない。あの方は、それほどにも広大無辺な慈悲の心をお持ちだということなのか……」


 友を迎えた喜びとともに、その夜のロッシュは、なんとも言い表しがたい謎めいた幸福感に包まれて過ごした。


 翌朝、夜明けと同時に、二人はふたたびカスケード城におもむいた。

 エルンファードは伯爵夫人から心づくしの弁当とかさばらないようにと見つくろった土産をいくつももらい、伯爵とは固く抱擁して別れの挨拶をかわした。


 頭上には澄みわたった高い空が広がっていた。

 大陸の最南端にもようやく秋が訪れようとしているのだ。

 きのうと同じ経路をたどって森番小屋にもどると、テラスの上で身支度をすっかりととのえたナバーロが手を振って待っているのが見えた。

 その後ろにはイルマがそっと寄り添い、ナバーロの弁当と荷物を持って立っている。


 テラスの二人に声が届かないうちに、ロッシュはエルンファードにむかって言った。

「私も、もうすぐ出発するぞ」

「ああ。ガラフォールで会おう」

「いや、私が目指すのはさらにその先だ」

「どういうことだ?」

「帝国さ。辺境の小国から出発して、いつか帝国のすべてをつかむ――」


 エルンファードは、驚いてロッシュのほうを見た。

 朝焼けに染まったロッシュの顔には、新たな野望をたたえた二つの眼が輝いていた。

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