第一章 2 皇帝の勅使
「よくぞ訪れてくれたな。このような辺境の地に――」
ベルジェンナ辺境伯ペレイアは、午後の気持ちよい陽射しに満ちた小ぢんまりとした応接室でエルンファードを迎えた。
この領地に赴いてから、貴族らしくと伸ばしはじめたらしいあごひげは、なかなか立派なものになっていたが、白いものがかなり目立った。
ペレイアは、執政こそ務めなかったものの、改革派のマドランに対して穏健派の文官を代表する大臣だった。
スピリチュアルの中では三本の指に入る由緒ある名家の出で、その育ちを体現したかのように上品で柔らかい物腰と語り口には、近く接したことのある者ならだれでも、信頼と尊敬の念を覚えずにはいられない。
年下のマドランの執政就任を機にいさぎよく引退し、妻とともにアンジェリクからブランカへと移り住んできた。
その妻がエルンファードの伯母にあたり、彼が最初の兵役からブランカに帰還してからは、何度も親しく言葉をかわしていた。
「お久しぶりでございます、閣下」
「そのようにかしこまらなくともよいではないか。すぐに茶を出させよう。さあ、そこに座って、さっそくブランカや帝都の話を聞かせてくれ」
ベルジェンナ地方は、大陸のほぼ最南端に位置している。
温暖で風光明媚な土地だが、わざわざこのカスケード城まで足を運ぶ者はめったにないのだろう。
伯爵の顔には、めずらしい客を迎えた喜びがあふれていた。
「ありがとうございます。しかし、今回わたくしは、皇帝陛下の勅使として参りました。まずはこのままで――」
ペレイアは、驚きの眼でエルンファードの顔を見上げた。
「そうか、わしとしたことが不覚だった。おぬしのその服装は、新しい近衛騎士の制服だったな。……では、わしも威儀を正して謹聴せねばならん」
「いえ。おつらければ、どうぞご無理なさらずに……」
エルンファードが手を伸ばして押しとどめようとしたが、実直なペレイアは迷わず、しかしいかにも大儀そうにひじ掛け椅子から立ち上がった。
エルンファードも形式にのっとって懐からうやうやしく詔勅状を取り出し、眼前にかかげるようにして読み上げた。
「勅令。ベルジェンナ辺境伯は、騎馬兵二〇騎、軽歩兵一五〇を編成して出兵せよ。期日は来月一〇日、集結地はヴァルム公爵領ガラフォール郊外東部の草原とする。以上」
「つつしんで承った」
書面を受け取ると、ペレイア伯はようやく緊張を解いた。
くずおれるように椅子に座り直し、深いため息をついた。
「とうとうこの日が来たか。初めての出兵命令だな。……騎馬二〇に、歩兵一五〇か。このような小国にとっては、なかなか難儀な数だ」
「人数はそれぞれで異なりますが、大変さはどこの領国にとっても似たようなものです。領土の大きさと人口を勘案して、最大限出兵可能な兵力をはじき出したものですから」
「それほどの大乱が起ころうとしているというのかね?」
伯爵は不安そうにエルンファードの長身を見上げた。
「たしかに、新体制に移行して三年めともなると、各国の実情がようやくはっきりとしてきて、領地の区割りに対する不平不満も出てきております。それに加え、以前からあった隣接する地域同士の国境紛争や水利権の争いなども、ふたたび顕在化しつつありますし。不穏な動きがあちこちから報告されていますが……」
「では、具体的にどこかに向けて戦いを仕掛けようというのではないのか」
「おそらくは。皇帝陛下や執政マドラン閣下としては、帝国のどこかの拠点に一度、できる限りの大軍を集結させておきたいとお考えなのです。それによって、この大陸全体が、壮大かつ強大な〝帝国〟というものに覆いつくされたのだという事実を、スピリチュアルかフィジカルかを問わず、すべての人民の眼に圧倒的な形で印象づけることになるはずです」
「なるほど、そういう意図か」
「ええ。フィジカルの時代に諸王国や都市国家の間で戦われたような縄張り争いていどの戦闘が恥ずかしく思えるほどに、巨大な新帝国軍の存在感は、残存する反スピリチュアル勢力から抵抗の意思を奪うことでしょう。それは、新たなスピリチュアル諸国に対しても同じです。いったん紛争を起こしたりすれば、当事者がだれとだれで、そこにどのような事情があろうとも、帝国全体に対する反乱罪に問われるのだと。そして、結局は総がかりでたたきつぶされてしまうのだと、皇帝陛下は警告を発するおつもりなのです。そのための示威的な出兵だとお考えくださってかまわぬと思います」
「そうか。では、実際の戦いにはならぬのだな。そうであってくれれば、なによりありがたい。小国とはいえ……いや、小国だからこそ、民びとは一人として欠かせぬ。ようやくわしらに馴染んで、支配を受け入れてくれるようになってきたところだ。彼らに直接関係のない争いに巻きこんで命を落とさせたりしては、今までの努力が水の泡だからな」
眉根に寄せられていた深いしわが、ひと言ごとに消えていった。
「それと、これは、近衛騎士の身分としては口にしにくいことなのですが……」
「何かね?」
「出兵には、帝国の軍事基準にのっとった装備をそろえたり、糧秣を調達するなど、相当の出費がともないましょう。負担するのは出兵する各国です。これが毎年のようにくり返されたりすれば……」
「たまらぬな。わしらの懐など、たちまち空になってしまう。そうか、皇帝府のねらいは、貴族を肥え太らせないことにもあるのか。しかし、北方王国の征服もいまだに成っておらぬというのに、早くも帝国内部の権力闘争の心配までせねばならぬとは……」
ペレイア伯爵はふたたび嘆息し、バラの花がからまる窓辺のほうに顔を向けた。
「申し遅れましたが、こちらに参る途中でご子息と出会いました。ほんの数か月見ないうちに、またずいぶんと大人らしくなられましたな」
エルンファードが話題を変えると、伯爵は、たちまち眼のまわりに無数のしわを寄せてほほ笑んだ。
「やんちゃざかりだよ。元気がよすぎて、もうわしらの手にはおえん。休みの間、半分も城の中におってくれただろうか。岩だらけの危険な谷川に飛びこむわ、フィジカルの子どもと戦争ごっこに興じるわ、馬で麦畑を踏み荒らして走りまわるわ、毎日外で遊びほうけておったよ。昨夜は、さすがに帰還の前日だから城にいてくれたが、見ると寝室が空っぽなのだ。驚いて探しまわったら、なんと厩の干し草の中で寝ておった。夏じゅう乗りまわした愛馬と別れるのがつらいのだなどと、寝ぼけながら泣きじゃくるしまつさ」
「うらやましいことです。顔つきも身ごなしも、ひと夏のうちにみちがえるように大人びて、たくましくなっていました。ブランカにずっと閉じこもって成長したわれわれには、とても考えられない変化です。それに、貴族らしさといいますか、よい意味でのふてぶてしさも身についてきたようですね。まあ……それを生意気とも言うのですが」
二人はたがいに顔を見合わせ、身内同士らしい遠慮のない声をたてて笑った。
そのとき、大広間からつづく入口のほうから、カッカッと長靴が床を踏む規則正しい音が聞こえてきた。
「おお、ちょうどよいところに現れたな」
伯爵の視線の先を追うと、開け放たれた扉のところに痩身の青年が立っていた。
「ロッシュ!」
エルンファードは眼を輝かせ、思わず声を上げた。
ロッシュのほうは、にやりと唇の端に小さな笑みを浮かべ、いつもの彼らしい落ち着いた声で「やあ、元気そうだな」と応じた。
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