第一章 Southward Bound 南国の晩夏

第一章 1 カスケード城への道

 北方の山岳地帯を出発したときには、もうはっきりと秋の気配が感じられていたというのに、ここにはまだ汗ばむほどの夏が居座っている。

 花の色の鮮やかさも、陽射しの強さも、まるきり異国のもののようだった。


 方角の目印になりそうな高い山がまったく見えない。

 一面の麦の穂におおわれた丘をひとつ越えると、またそのむこうに同じような高さの同じ風景の丘が現れる。

 どこまで行ってもそのくり返しだった。


 退屈を通り越して、男はなんとなく落ち着かない気持ちになってきた。

 不安というほどではないが、はたしてこの道がほんとうに目的地に通じているのかどうか、どこかでうっかり正しい道をそれてしまったのではないかと、つい疑わずにはいられない。

 眼を落としてみても、そこにはいかにも農道らしく形のふぞろいな石積みに縁どられたせまいでこぼこ道が、心細そうにのたくりながらつづいているだけである。


 ようやく耳にした小鳥の鳴き声以外の物音にふと眼を上げると、前方の丘の上に農作業用のものらしい小さな荷馬車が見えた。

 救われた気持ちになり、道を尋ね直すために途中の井戸のそばで馬を止め、水を飲ませながらそれが近づくのを待った。


「すまぬが、教えてもらいたい。カスケード城へ行く道は――」


 男が御者にむかって声をかけたとき、てっきり空かと思われた荷台から、いきなり何かがムクッと起き上がった。


「エルンファード!」

 かん高く叫んだと思うと、小さな人影がすばやく跳躍した。

 御者の肩を軽く踏んで勢いをつけ、虚空でくるりと身をひるがえした。

 見上げた太陽のまぶしさにエルンファードが一瞬まばたきしたすきに、その影は頭上を飛び越え、肩にすがりついて彼の馬の背にスタッとまたがった。

「ナバーロか? すっかり見違えたぞ。ひと夏会わないうちにまた背が伸びたな」

 首をふり向けた男にニッコリ笑顔を返したのは、一〇歳くらいの少年だった。


「エルンファードは変わらないな。声を聞いてすぐおぬしだとわかったよ。かわいい奥さんは元気か? それとも、喧嘩して追い出されてしまったんで、こんな田舎までのこのこ逃げてきたってわけ?」

「口まで達者になりおって。ところで、おまえ、その格好は――」

「ああ、これか……チェッ」

 少年は小さく舌打ちし、するりと身軽に馬から飛び降りた。

「もう夏の休暇が終わるんだ。これからブランカにもどるところさ」

 ナバーロは、いやなことでも思い出したように口をとがらせ、肩掛けマントをじゃまくさそうに背中にはらうと、白い詰め襟の服のほこりを乱暴にはたいた。

 それは、スピリチュアルの幼年学校の制服だった。


「そうか。おまえにとっては、さぞ残念でたまらないことだろうな」

 エルンファードがからかうような口調で言うと、ナバーロはうらめしげな上目づかいで正直にうなずいた。

「だが、たった一人で行くのか? 貴族の跡取り息子だったら、道中の付き添いくらいつけるものだろう」

 御者台に座ってニコニコ愛想笑いしているフィジカルの中年の男は、日焼けした顔つきや服装からして、どう見ても近隣の村の農夫だった。


「スミルデの町まで乗せてってもらうだけさ。宿屋に一泊して、明日の朝一番の駅馬車に乗るんだ。ブロークフェン侯爵領の都城にたどり着けば、あそこには同級生とかが何人かいるからね。いっしょにアンジェリクまで旅することになってる。あとは迎えの飛空艦でブランカまでヒュッとひとっ飛びさ。……父上も母上もお年だし、ほかの者はみんな忙しいんだ。もう小さな子どもじゃないしね、今回からは一人で行くことにしたんだよ」

 少年は早口にまくしたてたが、その口調にはどこかさみしそうなものが感じられた。

「それはえらいな」

 エルンファードはナバーロにむかってうなずいた。


 北方王国との関係をはばかってか、キール入城式典では発表されなかったが、皇帝と執政マドランの既定の方針どおり、その直後に貴族制の採用が正式に公示された。

 そして翌年の年頭にはさっそく新制度が施行され、爵位を授かった新貴族たちはそれぞれの領地へとあわただしく出発した。

 それに先立って帝国軍は解体され、スピリチュアルの兵士たちも新たに貴族と騎士として契約を結び、主君を守るように麗々しい隊列を組んで随行していった。

 帝国の姿はまさに一新されたのである。


 しかし、変わらなかったこともある。

 もっとも大きな点は、皇女カナリエルの死によって政略結婚が不首尾に終わり、北方王国だけが帝国の版図の外に手つかずのまま残ったことである。

 封建制をとることの最大の眼目は、一気に北方王国をも併呑して支配下に組み入れてしまうことだったから、北方王国が形式上は臣下の礼をとっているとはいえ、実質的な〝完全支配〟は達成されていなかった。


 変わらなかったことのもう一つは、寮母の強い主張により、幼年学校がアンジェリクに移されず、ブランカに存続することになったことだった。

 子どもは誕生するとまもなく新婚の両親に連れられて方々の領地に行ってしまうが、三年後には幼年学校に入学するためにもどって来る。

 それから幼年学校を終えるまで――すなわち成人に達するまでの期間は、以前と同じくスピリチュアルの故地ブランカで学び、成長するのである。


 だが、皇帝の提案が完全にしりぞけられたわけではなく、「親子の関係を深め、広く世界を知る必要がある」という点にはマザー・ミランディアも同意を示し、夏季の三か月の長期休暇と、新年をはさんだ三週間の休暇を生徒たちに与えることを認めた。

 新制度の施行以前にすでに幼年学校に入っていたナバーロは、これで三回めの夏季休暇を伯爵である親の元で過ごし、ブランカへ帰還する途中だったのである。


「おまえがこの道をやって来たということは、カスケード城へはこのまま進んで行けばいいんだな」

「そうだよ、一本道だ。いい大人が迷子になんかなりっこないさ」

 ナバーロは、顔をそむけたまま、ぶっきらぼうに答えた。

「ふーん、それは残念。おれは、おまえに道案内してもらおうと思ったんだが」

 エルンファードが言うと、ナバーロは驚いて眼を上げた。


「おれは、ここに一泊させてもらって、明日にはもう帰る予定だ。道はおまえと同じだが、自分の馬がある。おまえさえよければ、アンジェリクまで送ってやってもいいんだぞ」

 一瞬、少年は輝くような笑顔になったが、それはたちまちしぼむように消えてしまった。

「……いや、おぬしの好意はありがたいが、遠慮しとくよ。一人で大丈夫だって、父上と母上に言い張って出てきたんだ。おめおめともどるわけにはいかないよ。じゃあな」

 そう言うと、ふたたび馬車の荷台に跳び乗り、二度とふり返ろうとしなかった。

 エルンファードは、荷台に立ったまま揺られていく小さな背中をしばらく見送った後、ゆっくりと馬の首をめぐらせた。


 森を抜けるすこし前から聞こえていた音は、崖を流れ落ちていく水音だった。

「これがカスケード城か……」

 エルンファードは、感嘆のおももちでその光景を見下ろした。


 地の裂け目のような深い谷間の底を、急流が白く泡立ちながら流れている。

 そして、対岸の高い台地は湿地になっているのか、こぼれ落ちる幾筋もの滝が絶壁を濡らし、レースのカーテンのようにゆっくりと風に揺れていた。

 その分け目に、城は、崖の途中にテラス状に張り出した岩場を前庭にして、絶壁の中に半分身をひそめるように建っている。

 エルンファードの背後から射す陽光を受けて、城の姿を夢幻のように淡くかすませて落ちかかる水しぶきに、きれいな虹がかかっているのが眺められた。


 皇帝の命を受けて、今回の旅でエルンファードはいくつもの城をへめぐってきた。

 それらはすべて、もともとはフィジカルの諸王国の王城や、城塞都市だったものである。

 比較的辺鄙なところに建つものでも、隣国ににらみをきかすための、いわばかつてのケルベルク城のような砦だった城で、四囲を睥睨するように丘の上に建設され、いかめしい塔が何本もそびえ立っていたり、攻め寄せる敵をはねつける高い城壁に囲まれているのがふつうだった。


 ところが、このカスケード城には、そんな無粋さはどこを探しても見つからない。

 壁面は、固い石ではなく、暖かみのある色とりどりの焼きレンガを積み上げたものであり、そこにびっしりと濃い緑色のツタがからまっている。

 手入れの行き届いた芝生の前庭には、あちこちに花々が咲きほこり、中央の大理石のテーブルの上にはこんもりとした藤棚が涼しげな影をさしかけていた。

 庭を囲む石積みは、明らかに防御のためのものではなく、優雅な散策を楽しむ途中で、滝にとり巻かれたこの谷間の絶景を眺めるためにもたれかかる手すりだった。


 たしかに、この城は、守りによけいな気を配る必要はないにちがいなかった。

 横と背後を滝と絶壁に囲まれ、対岸からは矢も銃弾もまっすぐ届かない距離にある。

 唯一外界と通じているアーチ型の石橋のたもとの門さえピタリと閉ざしてしまえば、たちまち難攻不落の城砦と化してしまうのだ。


 しかし、いくら守るに堅固な城だとしても、それだけでは王城にふさわしいとはいえない。

 なぜかといえば、王城とは、民の上に君臨すると同時に、その民に誇らしく仰ぎ見られ、彼らのすぐ背後にあって外敵から守ってくれるという安心感をあたえる象徴でもなければならないのである。

 そういう意味では、人里離れた谷間にひっそり隠れ棲むようにたたずむカスケード城には、〝王城〟を称する資格がまったく欠けていた。


 カスケード城が特異な存在であるのには、それなりの理由があった。

 エルンファードはもちろんとっくにそれを承知している。

 承知しているからこそ、本来は感傷とは無縁な性格であるはずの彼の眼に、おとぎ話の挿し絵のような城はよけいに美しく、はかなげなものに映ったのである。

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