第三章 5 姫君の腕前
ベルジェンナ軍の行軍は、秋の好天にめぐまれた。
同じく最南端から出発したブロークフェン軍は、一二〇〇人という大軍勢を擁し、南街道を北上していた。
街道には各国の軍がつぎつぎ合流してきており、しだいに路上をアリの行列のように一日中切れ目なく兵士が通過していくような状態になった。
街道筋の旅籠は貴族たちの宿泊所に借り上げられてたちまち満杯になったし、これだけの人数が行く先々で糧食を大量に買い求めていくのだから、あちこちで品不足が生じ、物価はどんどん高騰していった。
道中で何か問題が生じればたちまち行軍は停滞するし、その影響はつぎつぎ伝染するように後続の軍におよび、予定はどんどん狂っていく。
遠方の国から来る軍隊ほどその割りを食うことになった。
ブロークフェン軍は、まさにそういう目に遭っていた。
しかし、ベルジェンナ軍の姿は、ブロークフェン領に入ってまもなく街道から忽然と消えてしまった。
彼らは途中から道をそれ、間道に分け入ったのである。
ロッシュとムスタークには、ガラフォールまでの長い道のりを踏破しなければならない自軍の不利が、最初から痛いほどわかっていた。
大軍のブロークフェンの後塵を拝することの屈辱も、兵たちの士気にかかわる大きな問題だった。
間道は山がちで幅もせまく、路面は波打つようにでこぼこしているし、方角の見当すらわからなくなるくらい曲がりくねっていた。
きれいに整備された街道と比較すれば、けっして楽で効率のよい道筋とはいえない。
騎兵と歩兵のみで構成された身軽な小規模隊でなければ、一日に何キロも進むことができなかっただろう。
「おい、ムスターク。ほんとに道はこれでいいのか。どこかの村で行き止まりなんてことにはなるまいな」
あぶなっかしい手つきで馬の手綱をあやつりながら、ウォルセンがたずねた。
「おぬしが心配してるのは、迷ってガラフォールにたどり着けなくなることか、それとも馬から振り落とされることなのか、どっちなんだ?」
「もちろんその両方さ。これ以上急な坂道や悪路になったら、おれはさっさと馬を降りて歩くよ」
ウォルセンは、べつに恥じ入る様子もなく、正直に答えた。
「ああ、それが身のためだ。馬に乗っているおぬしが徒歩の者のじゃまになるようでは、全体の速度がまたさらに落ちてしまうからな」
「もうひとつの心配はそれだ。こんなにのろのろとした行軍で、はたして集合の期日に間に合うのか?」
「予定どおり進んでいるさ。道順もこれでまちがいない。エルンファードが勅書を届けてきてすぐ、ラムドを派遣して経路の下調べをさせたのだ。ついでに、野菜などの必要な食料が途中の村で確実に調達できるように、あらかじめ話をつけてある。たぶん、今ごろ街道筋では各軍が物資の奪い合いを演じてるだろうし、とてつもない高値になって大騒ぎになってることだろうが、遠く離れた間道沿いの村はその恩恵にはあずかれない。しかも前金で支払いをすませた。喜んで安く売ってくれたよ」
「ほう、抜け目のないことだな。さすがムスタークだ」
「見直しただろう――と言いたいところだが、発案したのはロッシュだ。行程が他国より長いうえに金のないわが軍としては、できるだけ出費はおさえなければならん」
「そうか、では〝あれ〟も倹約のためだったんだな」
ウォルセンは、あごをしゃくって進行方向にある森のほうを示した。
そちらからときおり銃声が聞こえてくる。
ウォルセンが言ったのはそのことだった。
「見ろ。右手のやぶの中――」
メイガスが木の幹に身体をあずけ、そっと銃を引き寄せて小声で言った。
「ええ。イノシシのようね」
メイガスが横によけた分、後ろのセイリンにも、眼下の窪地で低木の葉が揺れ、その陰で茶色の塊がモソモソうごめいている様子がよく見えた。
「やってみるか? ただし、逃がさないように、兵を斜面の下に展開させてからだ」
「必要ないわ。わたくし一人で十分よ」
「えらい自信だな。だが、残念ながら、ブロークフェン侯のご威光もイノシシ相手では通じやしないぞ」
メイガスが鼻で笑う。
ムッとして、セイリンはメイガスのふてぶてしい横顔をにらんだ。
「馬鹿にしないで。今の幼年学校では、女子にも本格的な戦闘技の訓練があるのよ。わたくしはどの種目でも負け知らずだった。競技会には参加させてもらえなかったけど、弓術なら殿方の中にまじったって勝てたと思うわ」
「止まった的や、当てただけで落とせる鳥なんかが相手ならそうかもしれん。だが、みごとに心臓を射抜くことができたとしても、イノシシはすぐにくたばりはしないぞ。逃げられたら元も子もなくなる」
メイガスはセイリンを無視して後ろの兵士たちをふり返り、手を振って先に斜面を下るようにうながした。
「じゃあ、見てるがいいわ」
意地を張ってそう言うがはやいか、セイリンは前に出ようとしていた兵士の肩にヒラリと跳び上がった。
頭の上を楽々と越えていく娘の姿を、肩を踏まれたフィジカルの若い兵士はポカンと口を開けて見送った。
スピリチュアルの身軽さを噂には聞いていても、ロッシュたち騎士はことさら卓越した身体能力を見せびらかすようなことはなかったから、兵たちはだれもが初めて見るその光景に驚きの眼を見はった。
張り出した枝で反動をつけてさらに高く飛翔したときには、セイリンはすでに矢をつがえて弓のつるを引きしぼっていた。
ヒュン、ヒュン――
小気味のいい風切り音がたて続けに森の空気を打った。
空中にある間に楽々と矢を二本射放つと、標的のすぐ横に降り立つ寸前にも三本めを命中させた。
男たちはセイリンを追い、急いで斜面の草地をすべり降りた。
「どう、こんなものよ……と言いたいところだけど、残念ながらまだ小さかったわ」
指さしたのは、三本の矢を背中に生えさせた、もうピクリとも動かないイノシシの子どもだった。
口調とは裏腹に、セイリンのきりりとした端正な横顔には、うっすらと得意そうな微笑が浮かんでいた。
「セイリン、後ろだ!」
遅れて降りてきたメイガスが、いきなり叫んだ。
「え――?」
ふり返りかけたセイリンは、後方から飛び出してきた親イノシシに体当たりされ、横に大きくはね飛ばされた。
そちらに向かっていた兵士たちが顔色を一変させ、イノシシの突進を避けようとあわてて左右の草やぶに散る。
イノシシは、眼の前に開けた空間を弾丸のような速度で直進してくる。
その先には、銃を構えたメイガスがただ一人立ちはだかっていた。
ズキュウウン――
至近距離まで引きつけておいて一発撃ち放つと、イノシシの牙に突き刺される寸前でメイガスが飛鳥のように跳躍した。
イノシシは、殴りつけられたように顔を横にそむけた。
しかし、眉間から血を噴き上げながら草の中をさらに一〇メートル以上も疾走し、木立に激しく衝突してようやく倒れこんだ。
頭上の枝に片手でぶら下がったメイガスが飛び降りてくると、兵士たちはセイリンのとき以上の驚嘆のまなざしでその平然とした様子を見つめた。
「おお、今日は大猟だな!」
丸太に吊るした二頭のイノシシの親子をかついだ狩猟隊が進路の前方に見えてくると、ムスタークが声を上げた。
「なるほど、うまいこと考えたものだ。ああやって無料の食糧を確保しながら進めば、行軍の経費はかなり浮くわけだからな。しかも毎日新鮮でうまいものが食える。おぬしのケチぶりも、ここまで徹底すればなかなか気がきいているじゃないか」
ウォルセンは、にやにやしながらムスタークに言った。
「それでほめてるつもりか。これも苦肉の策なのだ。なんとかやりくりしながらやっていかないと……おや、メイガスが背負っているのは〝姫君〟じゃないか!」
ムスタークがあわてて馬を降り、草やぶから現れたメイガスのところへ駆け寄った。
騒ぎを聞きつけて、最後尾からロッシュも馬を急がせてやって来た。
「どうしたのだ、メイガス?」
「イノシシにはね飛ばされて気を失ってるだけだ。怪我はない」
ロッシュの問いに、メイガスは例によってぶっきらぼうな口調で答えた。
「大切な賓客だからな、万が一のことがあってはならない。今夜はあそこの丘の上で野営することにしよう。セイリンは私が運ぶ。救護班をよこしてくれ」
ロッシュはムスタークに言い、メイガスの背中からそっとセイリンの身体を受けとめて横抱きにすると、丘のほうへむかって歩きだした。
その後ろ姿を見送って、ムスタークが安堵のため息をついた。
「どうやら打ち身くらいですんだようだな。メイガス、姫のあつかいには気をつけてくれよ。あれでも大事な預かり物……というか、貴重な人質だ」
「人質? そうだったのか」
「当然だろう。ブロークフェン侯オリアスの息女だぞ。彼女の身柄がこちらの手中にあるかぎり、ブロークフェン軍だって下手な手出しや嫌がらせはできない道理じゃないか」
「だが、ロッシュがおれに鍛えてやってくれと言ったから、狩りに連れていったのだぞ。本気で騎士にするつもりなのかと思っていた」
メイガスは、言い訳するような雰囲気はまったくなく、いかにも心外そうに言った。
「われわれも、姫君のとんでもない技量と身軽さを見せつけられましたよ」
口の重いメイガスに代わって、後ろにいた歩兵のハーロウが言った。
ハーロウは、個人教授を請いに森番小屋にロッシュを訪ねていったこともある、弓好きの若者である。
ハーロウが狩りの様子を熱っぽい口調で再現すると、ムスタークとウォルセンは驚きの表情でたがいの顔を見合わせた。
「少々無鉄砲だが、たしかに筋はいい」
ひかえめな言い方だったが、同じく的を射抜く技に秀でた、しかも無愛想なメイガスがほめるのだから、セイリンの腕は相当なものにちがいなかった。
「それに……どこかカナリエルに似ていると思わないか?」
女のことになどまるで関心がなさそうなウォルセンがポツリと言うと、ムスタークはハッとした。
「そういえば、カナリエルも活発なので有名だった。けっしてあんな風に人当たりのきつい娘ではなかったが、ブランカから逃亡しようとしたくらいだ、意志の強い性格だったことは確かだな。もしかして、ロッシュは……」
ロッシュが草地に娘を横たえているのが見えた。
むこう側から射す夕陽に照らされて、表情は影になってわからなかった。
救護班が駆け登っていくまでの間、ロッシュは彫像のように微動もせず、横たわったセイリンをじっと見下ろして立ちつくしていた。
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