第三章 3 ネイダー砦

 二、三日前から、道はしだいに登りになってきていた。


 どこまでも果てしなく広がる〝海〟という想像もつかないものがあり、その水際にある〝平野〟と呼ばれる土地が多くの人々の住む場所だったという。

 紫色のガスにおおわれて以来、人は久しくそんな風景を眼にしていなかった。

 大河の流域や一部の湿地帯以外には、大陸に完全に平坦な土地というものは残されていない。

 道は登りか下りしかなく、自分の肉体を運んでいる感覚を忘れていられるのは、ほんのつかの間のことでしかない。

 しかし、高地にさしかかると、それは登る一方になる。

 植物相ががらりと変化していく。

 そして、空気の清涼感が増してくるのがわかった。


「見てみろ、マチウ」

 ゴドフロアが、ちょこちょこと小さな歩幅で身軽に歩いている子どもに声をかけ、後ろを指さした。


 道の両側からずっと頭の上にかぶさってくるようだった高い木々が、いつのまにか足の下になっている。

 その梢ごしに、はるか彼方の山々や森までが眺めわたせた。


「大陸だ」

 マチウはかすかな笑みを浮かべてうなずいた。

「まだまだはるかむこうまでつづいている。スピリチュアルがこれをぜんぶ征服するのに数百年もかかった。それくらい広大で土地の形は複雑だ。大きさのせいだけじゃない。それだけいろいろな国があり、多くの人間が抵抗して戦ってきたってことなんだ」

 マチウは小さな頭をもう一度うなずかせた。


「……だが、これはまだ大陸の半分だ。この高い山脈のむこうには、同じくらい広大な北方王国がある」

 マチウは顔をぐるりと回し、こんどは上を見上げるようにした。


 南のほうにはめったにない大きな山が、高さを競い合うようにいくつもいくつもそびえている。

 頂上にはもう白い雪が輝いていた。

 その圧倒的な存在感の前には、さらにそのむこうにまた別の世界があるなどということは、とても想像することができない。

 だが、今進んでいる道は、その山々のほうへとつづいているのだった。


 先行して斥候に出ていた若いパコが、あわてた様子で道を駆けもどってきた。

「この先に砦があるぞ」


 ゴドフロアはうなずき、後ろをふり返って無言で仲間たちに脇の木立の中に入るように指示した。

 走り寄ったマチウをさっと抱き上げる。

 マチウはすばやくゴドフロアの肩を乗り越え、背中のかごの中にもぐりこんだ。


 ゴドフロアたちは、東街道にそって北上してきた。

 途中でブランカ街道が分岐してからはずいぶんさびれた印象になったが、大陸の反対側を大河グランディルにそってのびる西街道と並んで、東街道は今も北方王国と大陸南部を結ぶ大動脈であることはまちがいない。

 不案内な者が独力で峻険な北方山脈を越えるのは不可能に近いから、東西いずれかの街道を行く以外に北方王国へ至る方法はなかった。


 全員が草や木の陰に身をひそめ、顔を半分だけ出して道のむこうをうかがった。

「ネイダー砦。北方と南を分ける要害だ」

 ダブリードが、木立の間に見えるいかめしい城砦をにらみつけながら言った。

「これがか」

 ギョロ眼のディアギールが、ゴドフロアの横に身を伏せて言った。


 道の片側は逆落としの断崖で、下は眼もくらむような絶壁だ。

 さらにその先は白い雲におおわれていて見えないが、おそらく紫色のガスまで続いているのだろう。

 遠く見渡しても何も眼に入るものはない。

 雲の水平線と空がぼんやりかすんでまじわっているばかりだ。

 ここが大陸の東の端だった。


 城砦は、山側に岩山をけずり出したような形でそびえている。

 壁は風雨にさらされてテラテラと黒ずみ、角が丸みをおびてすっかり苔むしていた。

 ケルベルク城と同じく、かつて山脈の南側を支配していた王国が何百年も昔に築いたものだ。

 道の上にそびえていた関門はとっくに崩れ落ち、断崖側には礎石が残っているだけだ。

 今砦につめている兵は、皇帝府から派遣された近衛軍の国境警備隊だろう。


「だが、思ったほど大した警戒ぶりじゃねえな」

「北方王国とはいちおう停戦協定が結ばれてるからな。大げさにするわけにはいかないのだろうさ。建前では、通行するのはいつだれであろうと自由ってことになってる。武器弾薬といった見るからに物騒なものでも運んでないかぎり、足止めをくらうことはなかろう」

 ゴドフロアが答えた。

「それと、おれたちみたいな怪しげなやつらでなければ、か?」

 ゴールトがまぜ返すと、押し殺したふくみ笑いが一同の間に広がった。


 ダブリードがいましめるように言った。

「そのとおりだ。しかも、ここを越えてからだって、おれたちはずっと異物かじゃま者あつかいされるのかもしれん。ここまでは前に来たことがある。黒鷲団の頭領だったおやじに言われたものさ。『このむこうに足を踏み入れるにはそうとうな覚悟がいるぞ』ってな」

「北方王国っていうのは、そんなに恐ろしい場所なのか?」

 パコが引きつった表情でダブリードのほうをふり返った。


 ゴドフロアの提案を全員が受け入れて北方王国を目指すことにはしたが、だれ一人として積極的に賛成したわけではなかった。

 希望よりは不安、好奇心よりは恐怖心のほうがずっと大きかったのだ。


「さあな。行ってみなければわからん。すくなくとも、おれたち盗賊にとっては禁断の土地ってことになってた。傭兵にとってはどうだか……」

 ダブリードは気が進まないようすでつぶやいたが、ゴドフロアの決断は揺るぎそうにないし、傭兵たちももはやほかに取る方策がないことはわかっていた。


「だが、その当時は、盗賊や傭兵だってこのネイダー砦の下を通過するだけならたいした困難はなかった。停戦協定が守られているかどうか――つまり、北方から軍隊が侵入してこようとしていないかどうかを監視しているだけだったからな」

「じゃあ、今はどうなんだよ。ここにも例の〝傭兵狩り〟の通達ってやつが届いてるにしても、おれたち傭兵が北方王国へ抜けるのは、やつらにとってはやっかい払いできてかえって好都合なんじゃないのかい?」

「そう思うなら、『傭兵ですが通してください』ってかけ合ってみるか?」

 いかにも不安そうなパコにむかって、ゴドフロアがからかうように言った。

「まあ……無駄だろうな」


「だが、見たところ、警備兵はせいぜい三〇人てとこだろう。門を閉ざすこともできないんだし、いくら頑丈な城塞に立てこもって戦えるにしたって、あれじゃ北方王国軍が大挙して押し寄せたら防ぎようがねえ。ただの見張りってだけなのか?」

 ディアギールがゴドフロアにたずねた。

「いや。塔のむこうを見てみろ。斜面の上に大岩がずらりと積み上げられているだろう。たぶん、塔から延びているロープを切れば、あれがどっと崩れ落ちて道をふさぐ仕掛けだ。北方軍の主力は機動力のある騎馬軍団だからな、馬さえ通さなければいいわけだ」


 ゴドフロアが言うと、ダブリードが苦りきった顔でつづけた。

「前はあんなものはなかった。今の帝国と北方王国の関係が、緊張感をはらんでいるっていう証拠だな。ますますここを越えるのはきついぜ」

「なるほど。けどよ、逆にあれをなんとかうまく利用できないかな?」

 無謀なこととなるとかえって乗り気になる長身のランペルが、眼を輝かせて言った。

「バカ言うな。自分たちが通れなくなるか、へたすりゃこっちも生き埋めになっちまう」

 ダブリードがフンと鼻で笑って言った。


「いや、そうともかぎらんぞ……」

 ゴドフロアがつぶやいた。

「なんだと?」

「夜陰にまぎれて、見張りに立っている歩哨を倒してすばやくむこう側に駆け抜けるんだ。その後で岩を崩せばいい。やつらは追ってこれなくなるし、うまくすれば戦力を半減させられるかもしれん」


 ダブリードは首をひねった。

「いい考えだ……と言いたいところだが、そんなに都合よくいくかな。だいいち、どうやって塔の上までたどり着いてロープを切るんだ? それに、たとえそれに成功したって、そいつは敵の真っただ中に取り残されることになるんだぜ」

「おれに考えがある。なあに、大丈夫さ。やるのはおれとおまえだからな」

 ゴドフロアがニヤリと笑って言うと、ダブリードは舌打ちした。

「ちぇっ。やっぱりそういうことか」


「おい、ちょっと待てよ。……あれを見ろ!」

 パコの声が裏返った。


 小さな人影が、砦のほうにむかってちょこちょこと歩いていた。

 足音を忍ばせるような様子もなければ、恐る恐る近づいているようでもない。

 ためらいのない軽い足取りだった。


 ゴドフロアが脇に下ろしておいたかごが、いつの間にか空っぽになっている。

「マチウのやつだぜ!」

「シッ――声をたてるな」

 ゴドフロアがパコの頭を押さえつけた。


 マチウは難なく砦の真下まで行き着いた。

 銃を手にした数人の歩哨たちが警戒しているのは北に延びる道のほうだけで、後方にはまったく注意をはらっていなかった。

 塔の上の見張りにも変わった動きはない。


 マチウがすぐ横を通り過ぎてしまってから、歩哨の一人がようやく気がついた。

「おい、何だ、この子どもは?」

 歩哨は仲間たちに呼びかけ、キョロキョロとあたりを見回した。

 子どもが一人で来られるような距離に集落はない。

 当然連れがいるはずだと思って探しているのだ。

 そのむこうにいた別の歩哨が、近づいてくる子どもを通せんぼしようと薄笑いしながら両手を広げた。

 マチウはスルリとその腕の下をかいくぐり、さらに先へ歩いていく。

 三人めはさすがに真顔になって、マチウを捕まえようと腰を落として待ちかまえた。


 すると、マチウは横に逃げ、崖に飛びついてするするとそこを登りはじめたのだ。

「おい、待て。怖がらなくてもいい。何もしやしないぞ」

 男たちは崖の下に集まり、上を見上げてなだめすかすように声をかけた。


 マチウはちょっと顔をふり向けて下を見たが、そのまままた岩の突起をさぐって登っていく。

 その様子は、捕まるのを恐れるあまり危険に気づく余裕もなく、すこしでも遠くへ逃げようとしているように見えた。

 自分たちのせいで幼い子どもに大怪我をさせてしまったりすれば、けっして気分のいいものではない。

 歩哨は一人、二人とマチウの後を追って崖に取りついた。


 しかし、垂直に近く切り立ったこの崖登りがスピリチュアルの身体能力をもってしても決して容易なものでないことに、彼らもすぐに気づいた。

 ましてやフィジカルの子どもにやすやすとできることであるはずがないのだが、実際に眼の前でそれを見せつけられては、不審に思うひまさえなかった。

 なんとしても追いついて捕まえるしかない。

 そうしている間にも距離はどんどん開いていき、歩哨たちは今や本気を通り越してあせりはじめていた。


「す、すげえなあ、マチウのやつ!」

 パコが眼をまん丸くして驚きの声を上げた。

「バカ、感心してる場合かよ。どうすんだ、大将? すぐに助けに行かないと……」

 ゴールトが後ろからだみ声で言う。


「それよりさっさと自分の荷物と武器を持て」

「え――」

 ゴドフロアはまったく動揺した様子を見せず、空のマチウのかごを悠然と背負った。

「夜にする予定がちょっとばかり早まったってだけのことだ。歩哨がマチウに気を取られている隙に、おまえたちは砦の前を駆け抜けるんだ。マチウのことはかまわなくていい。抵抗してくるやつだけ倒せ。さあ、行け!」

 ゴドフロアは、ランペルとパコの背中をドンと道のほうへ突き飛ばした。


「ダブリード、おれについて来い」

 いっせいに駆けだした仲間を見送ってからゴドフロアが別の方向にそっと移動しはじめると、ダブリードはしぶしぶ地面に突き立てた剣にすがって立ち上がった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る