第三章 2 「わたくしをお召しかかえください!」
「お待たせしました。さあ行きましょう」
見栄えだけは立派になったラムドが髪をむぞうさになでつけながら言い、ムスタークも紅茶の残りをあおって立ち上がった。
そのとき、テラスのむこうから、男女が激しく言い争っているらしい声が聞こえてきた。
どちらも耳慣れない声だった。
「……だから、そなたでは話になりません。その汚い手を離しなさい!」
「黙れ。離せばこの手は引き金に行くぞ。女だからといって容赦しないからな!」
その物騒な言葉で、男のほうがメイガスだとわかった。
怒鳴り声どころか、ふつうの話し声さえめったに聞いたことがなかったのだ。
ただならぬ気配を感じ、ムスタークとラムドは外へ飛び出した。
前庭の芝生の上では、たがいに武器を手にした二人がにらみ合っていた。
メイガスは銃を腰だめにかまえ、女は小ぶりの弓に黒塗りの矢をつがえている。
「やめろ!」
ムスタークが大声で叫んだとたん、女が矢を射放った。
矢は、髪を短く刈りこんだメイガスの頭頂をすれすれにかすめて飛んだ。
たとえ威嚇にしても、相手がへたな動きをすれば額をつらぬいていてもおかしくないところだった。
メイガスはまばたきひとつせずに矢の軌道を見切り、微動もしなかった。
「二の矢をつがえてみろ。それを放つより早く、おれの銃弾が弓のつるごとおまえの指を吹きとばす」
「な、なんて恐ろしいことを――。銃声など聞こえてみろ、式典会場が大騒ぎになるぞ!」
ムスタークがあわてて間に割って入ると、二人はにらみ合ったまま、どちらからともなくしぶしぶ武器をおろした。
なんと、女のほうも息ひとつ乱さず平然としている。
それ以上に驚かされたのは、その格好だった。
一目で騎士のものとわかる華麗な軍装をしていたのだ。
しかも、その制服は、デザインも色づかいもベルジェンナ軍のものとはまったく違っている。
「サー・ロッシュにお会いしたい。お取り次ぎ願おう」
額にかかった銀色の短い髪をうるさそうにかき上げると、女はムスタークにむかって昂然と言い放った。
「まずは名乗られよ。ご用の向きはそれからうかがう」
年長者らしい威厳をとりつくろって、ムスタークは言い返した。
「わたくしの名はセイリン。用向きなら、もうこの無礼な殿方に伝えてある」
怒りをこめた一瞥を横に立つメイガスに向けながら、女は尊大な口調で言った。
メイガスは舌打ちせんばかりの苦り切った表情で、しぶしぶ重い口を開いた。
「騎士に雇え、とさ」
「騎士にだって?」
ラムドがすっとんきょうな声を上げた。
ムスタークも、ただでさえ大きな眼をまん丸く見開いて言った。
「ど、どこのどなたか存ぜぬが、まごうかたなきスピリチュアルのご令嬢とお見受けする。しかし、うら若き女性が騎士にしてくれとは――」
「だから、サー・ロッシュに会わせてくださいと申しているではありませんか。いったいあの方はどこにいらっしゃるのです。さっさとわたくしを案内しなさい!」
セイリンと名乗る女性は、今にも癇癪を起こしそうな口調で言いつのった。
「おや、これはこれは、セイリンお嬢さま。このようなところでお目にかかろうとは」
ちょうどテラスの下に着いた馬車の窓から、ペレイア伯が声をかけた。
領国内の全軍が初めて集結する出発式であるから、それを統率する領主は勇ましい軍装で臨むのが本来の姿だろうが、伯爵は黒い大礼服をまとっていた。
派遣軍の全権はロッシュにゆだねてあるという意思表示なのか、あるいは文官出身者の意地と誇りからなのかもしれなかった。
いずれにせよ、上品なペレイア伯の大礼服姿は威厳に満ちており、伯爵が降り立つと騎士たちはたちまち粛然として居ずまいを正した。
「伯爵さま、お久しゅうございます!」
セイリンがパッと顔を輝かせた。
思わずスカートのすそをつまんでひざを折るスピリチュアル女性の儀礼的なポーズをとろうとしかけ、軍装であることに気づいてあわててぎこちない敬礼に切り替えた。
その二人のやりとりを眼にした騎士たちは、セイリンと名乗る女性の正体がいったい何者なのだろうかと、だれもがさらに不審そうな顔になった。
「そのお姿はお国の軍の制服でしょうかな。きりりとした美しさのあなたには実によくお似合いだが……」
伯爵もにこやかな中にも当惑を隠しきれない表情で言った。
「は、はい……ええ、今日こうして参りましたのは、ぜひベルジェンナの騎士にしていただこうと思ったからですの」
「はあ、わが軍の騎士に……?」
ペレイアはぽかんと口を開いて絶句した。
馬車の後ろから馬に乗ったロッシュが現れ、セイリンにいたずらっぽく敬礼した。
「昨年の園遊会でお会いして以来ですね。カスケード城にもいつかおいでいただきたいと思っておりましたから、ようこそいらっしゃいました――と歓迎申し上げたいところですが、このことをお父上はご承知でいらっしゃるのですか?」
顔見知りのロッシュが現れてホッとした表情を浮かべたのもつかのま、いちばん聞かれたくないことを問いただされたようで、セイリンはもじもじしながら若い女性らしいすねたような口調で打ち明けた。
「父は……いいえ。だって、わたくしがどうしても騎士になりたいと言っても、ぜんぜんまともに取り合ってくれないんですもの。『だったらベルジェンナへでも行って頼むがいい』と、まるで冗談のように言って笑うばかりで。わたくし、もうがまんできなくなって、黙って飛び出してきたんです。伯爵さま、どうかわたくしをお召しかかえください!」
するとそこに、やはり真新しい軍装に身を固めたペデルが、式典会場のほうからあたふたと坂道を駆け上がってきた。
「ああ、よかった。みなさまお集まりですね。下ではベルジェンナ軍全軍と、国じゅうの人々がやって来たんじゃないかと思うくらいの大群衆が、今か今かと出兵式の開始を待ちかまえています。どうかお急ぎ……あれっ、きみは?」
ペデルは、勢ぞろいしたお歴々の真ん中にセイリンの姿を見つけ、きょとんとした表情になった。
「おまえ、もしかしてこの女……いや、女性の知り合いか?」
ラムドが驚いてペデルのほうをふり返り、声をひそめてたずねた。
「え、ええ。この春まで、ブランカでずっと幼年学校の同級だったんです。学制が変わって、幼年学校も男女共学になったんですよ。なにしろおてんば……いや、男まさりで……あ、いやいや、とても活発なことで有名な方でしたから。さすが、現役の将軍のご息女はちがうもんだなあと、同級生のだれもが……」
「では、そのお父上というのは――」
ムスタークは、途中まで言いかけたところで真実をさとった。
ペデルは周囲の空気が一変するのを感じ、何かまずいことでも口にしてしまったのかと恐縮しながら、消え入るような小声で言った。
「……はあ、ブロークフェン侯でいらっしゃいます」
あらためて声にならない驚きがその場に広がった。
すべての視線を浴びたセイリンは、居心地悪そうに顔を伏せた。
「うーむ。どうしたものかな。出兵でみなが出はらってしまうと、カスケード城はさみしくなる。姫にゆっくり滞在していただければ妻も喜ぶのだが、しかし、それでは姫ご自身のお気持ちがすまぬであろうし……のう、ロッシュ」
伯爵は困惑した表情で馬上のロッシュを見上げた。
「そうですね。セイリンどののご希望をかなえてさしあげるにしても、とにかくオリアス侯のご承諾をいただかないことには……。では、こうしましょう。とりあえず、姫にはわが軍にご同行いただきます。ブロークフェン軍とは行軍の経路が異なりますから、集結地のガラフォールに到着したところで、あらためてお父上のご陣中にお願いに上がるということでいかがでしょうか。もちろん、私も微力ながらお口添えさせていただきます」
いつもながらに、ロッシュは落ち着きはらった口調で、たちまち適切で妥当な解決策をひねり出した。
「まあ、ありがとうございます、サー・ロッシュ!」
「ただし、わが軍の騎士はひどい人手不足なのです。われわれといらっしゃる間は、ちゃんと騎士の仕事を分担していただきますが、それでもよろしいですか?」
ロッシュが秀麗な顔にわずかに笑みを浮かべながらセイリンの顔をのぞきこんで言うと、彼女は喜びを満面に表して何度も大きくうなずいた。
「ええ、ええ、もちろんですとも。それこそわたくしの望むところです。斥候でも旗手でも、何でもお申しつけください」
「いやいや、使い走りや馬の世話などになるかもしれませんよ、レディ・セイリン」
「かまいません。それと、そんな堅苦しい敬称や、女だからと特別あつかいもやめてください。わたくしはもう貴族の姫でも令嬢でもありません。一人の騎士のつもりですから!」
セイリンが頰を紅潮させながらきっぱり言い切ると、ペレイア伯がいかにも人のよさそうな満面の笑みをたたえて拍手した。
それにつられて、周りの者たちもつぎつぎと拍手の輪に加わった。
美しくてうら若い女性を思いがけなく軍に迎えることになったうれしさや妙な照れ臭さももちろんあるが、その女性がベルジェンナの隣国である大国ブロークフェンの姫君であるという驚き、そしてそのことが今回の出兵にもたらすかもしれない影響に対する不安など、それは複雑に交錯する感情を押し隠す拍手でもあった。
(やれやれ、また大変なお荷物をかかえこんでしまったな。せっかく工面したなけなしの騎士の手当てなど、たまちまち吹っ飛んでしまいそうだ……)
ムスタークは、こっそり口をへの字に曲げたうちの一人だった。
朝霧がすっかり晴れ上がったとき、ベルジェンナ軍のガラフォール派遣隊は全員整列して群衆の前に姿を現した。
中にただ一人、色違いの制服をまとった見慣れない女騎士が混じっていたが、その初々しい美しさもあって、賛嘆や好奇の眼を向ける者はあっても異議の声を上げる者は皆無だった。
人数の点で派遣隊はどうしても迫力不足を感じさせる陣容だったから、一点華をそえるような女性の存在は、むしろそれを埋め合わせてあまりあるほどにたちまち歓迎されたのだった。
長年にわたって戦争などとは無縁に過ごしてきた平和なベルジェンナの国びとは、こうして初めての〝わが軍〟の出兵を温かい拍手と歓声で見送った。
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