第二章 5 盟約という名の陰謀

「ええ、マルリイの盟約のことです」


 若者は、得々として公爵にうなずき返した。

「『揺るぎない支配体制をきずく』というのは、あくまでも盟約をかわした仲間内での合意であることを忘れてはいけません。全体の安定をはかるにせよ、まずわれわれ自身のたがいの安全を保障し合うのが前提です。どれかの盟約国が危険にさらされるような事態になった場合には、遠い近いにかかわらず、ただちにその国への支持を表明し、早急に兵を派遣すること――これに異論はありませんね?」

「ない……というか、それ以外に取れる道はあるまい。一方的に守ってもらうことだけを期待することはできない。それ相応に果たすべき義務がともなうであろう」

 答えて、ボルフィンは深いため息をついた。

 いや応なく戦いに巻きこまれていくことの不安と負担感は、彼の心に重くのしかかった。


「ですが、これは、公爵にとってけっして悪い話にはなりません」

「どういうことかね?」

「どのような場合でも、われわれが貧乏くじを引くことにはならないということです。戦いの形勢が悪くなれば、近衛軍が介入して助けてくれるでしょう。つまり、われわれはつねに不敗であり、裁定においても、かならず有利な立場にいられるということです。極端に言えば、明らかな侵略行為をおこなったとしても、それは認められてしまうのですよ」


「どうしてそんなことが可能なのだ?」

「マルリイの盟約があるからです。皇帝自身が、そもそも盟約を結んだ者たちの意向によって帝位を得たのですよ。傀儡とは言いませんが、いわば彼は盟約の執行者なのです。貴族制を採用したのもわれわれの意が反映された結果だし、彼がそれをうまく運用してわれわれを利するのは、当然のことではありませんか」

 若者は、勝ち誇るように朗らかな声で言い放った。


 くらり、と視界が揺らめくような感覚がボルフィンを襲った。

 一瞬、何が原因で何が結果なのか、何が正しく何が誤りなのか、何が信ずべきことで何が偽りなのか、まったくわからなくなった。


 いや――

 そうではない。若者に指摘されたとおり、公爵がわかっていながら〝気づかないふりをし、気づいていることを認めようとせず、認めることを恐れ〟ていただけなのだ。


 マルリイの盟約が結ばれ、オルダインが皇帝に推戴されてから、その果実が実って平和が訪れるまで一七年もの年月を要した。

 盟約に名を連ねたことがまちがいではなかったとようやく胸をなでおろしたときに、公爵自身の意見を具現化するかのように貴族制が採用された。

 ボルフィンが誇らしい気持ちにならなかったと言ったら嘘になるだろう。

 だが、盟約を結んだ者たちの意図がそれだけにとどまるものでないことも、同時に気づいていたのだ。


 長い間心の中に秘め隠していたものがつぎつぎとあふれ出てきて、激しいめまいとむかつくような胸苦しさにとらえられた。

「大丈夫ですか、公爵? お顔の色がすぐれませんが」

「うむ……」

「ショックを受けられたようですね。無理もない。公爵のような公明正大でお優しい心根の方には、いささか毒気の強いお話だったかもしれませんな。しかし、お気に病む必要はありません。そもそも何がスピリチュアルにとって大切だったかといえば、長い戦争状態から解放されることだったはずです。公爵はそれに大いに寄与されてきた。理想の帝国像が実現するまで、あともう少しのところです。それはマルリイの盟友の協力によって成しとげられるのです」

 若者はなぐさめるような口調を装って言った。


「あなたたちの陰謀に、どこまでも加担しつづけなければならないというのか」

「〝陰謀〟というのはいささか聞こえのよくない喩えですが、すべては、マルリイの盟約に集った仲間たちが等しく富み栄える未来のためなのです」


 公爵は両手で頭をかかえ、悩ましげに首を左右に振った。

「もう、やめてくれ。これ以上そのような話を聞くことには耐えられぬ……」

「そういうわけにはいきませんね。公爵にはぜひともご協力いただかなければならないことがあります。そのためにこうして遠路はるばるお訪ねしたのですから」

「いや、たとえどのようなことであろうと、私にはとうてい同意できそうにない……どうか、このままお引き取り願いたい」

 拒絶するというより、むしろ懇願するように公爵は若者にむかって声をしぼり出した。


「そうですか。どうしても耳をお貸しいただけないというのなら……」

 若者はジャケットの懐に手を入れ、いきなりスッと短剣を抜き出した。

 ほの暗いロウソクの光を集めた鋭利な刃が、ギラリとまがまがしい輝きを放った。

「な、何を――」

 ボルフィン公爵が眼をむいて思わず腰を浮かせた。

 若者は答えず、抜き身の短剣をコトリと円卓の上に横たえると、反対側の懐からこんどは折りたたんだ古い皮革紙を取り出して広げた。


「これに見憶えがおありでしょう」

 見まちがえるはずがなかった。

 数条の主文の後に十数名の署名と黒ずんだ血判がつづいている。

『マルリイの盟約』だった。


「公爵はお父上の代理で出席されていたとおっしゃったが、ここにははっきりとボルフィン公ご自身のお名前が記されていますよ」

 そうだった――

『これはあくまでも個人の意思表明ですので』と内密の仲介役をつとめていたマドランに耳打ちされ、病床の父親にも了承を得ないまま署名した。

 選帝官のお歴々と並んで若造の自分がいっぱしの家長のような扱いを受け、えらく誇らしい気持ちになったものだった。


「祖父がいかにも大切そうに秘密の手文庫から取り出して、わたしに託したものです。ですが、この書類を一見しただけでことの本質を見抜き、問題視する者がいるとしたら、その当時に選帝会議を厳正に仕切る役目をおびていた文官のペレイアとか、今なら石頭のクレギオンくらいのものでしょうね。しかし、ここに署名された方々にとっては、けっして無視することができないものであるはずです」

 そう言いながら、若者は円卓の端から公爵の書物用のペン立てを引き寄せた。


「何をするのだ――」

「なに、ちょっとしたいたずら書きです」

 公爵が当惑の表情で見守るうちに、若者は署名の筆頭にある祖父の名前に勢いよく線を引いて消し、下にサラサラと自分の名を書き添えた。

 それから短剣の刃に親指の腹を当て、血玉が盛り上がってくるのを確かめると、なんのためらいもなく名前の末尾に押しつけた。

「こんな書き変えが有効かどうかわかりませんが、すくなくともわたしの意思の表明にはなるでしょう」

 若者は、ヒラヒラとむぞうさに皮革紙を振ってインクと血を乾かしながら、いかにも愉快そうな笑みを浮かべて言った。


「でも、加盟者が欠けていけば、マルリイの盟約の効力はどんどん弱まっていきます。当時もう高齢だった何人かが亡くなっていますが、遺族がこのことを伝え聞いていて更新を望むのなら、書き変えにはもちろん快く応じるつもりです。これからも代替わりするところがあれば、わたしはどこへでも出向きますよ。だれもが喜んで署名することでしょう。安全と繁栄が確実に約束されるのですからね」

 ボルフィン公爵は、できることなら皮革紙を奪い取って暖炉の火に投げ入れてしまいたかった。

 だが、自分がそれに署名し、血判まで押したという事実の重みは、公爵をそのような蛮行に走らせることをけっして許しはしなかった。

 いったんは感情的になったものの、盟約書を眼前に突きつけられては、それ以上抵抗することは不可能だった。


 若者は皮革紙をゆっくりとたたんで懐に収めると、公爵をふたたび鋭いまなざしで見据えながら言った。

「わたしはなにも、無理難題を押しつけようというのではない。それどころか、公爵のおためを思って申し上げるのです。マルリイの盟約が許しがたい特権のように思われるかもしれませんが、しかし、情勢がさらに変わっていけばどうでしょう。国がどんどん淘汰されていくと、ついにはマルリイの盟邦同士が相争うような事態になるかもしれません」

「まさか……」

「いや、単なる可能性の問題ではありません。いずれはマルリイの盟約は堅固な攻守同盟と化していき、皇帝府と対峙するところまで立ち至ることになります」


「なぜそのようなことになるのだ?」

「皇帝府と近衛騎士団が巨大すぎるからです。力のある者は、必然的に同等の力を持つ相手の出現を恐れ、抑えこもうとするものでしょう。それが敵か味方かにかかわらず」

 一見飛躍したその論理を実感として理解できる者は、まさに公爵をおいてほかにいないだろう。

 遥かな権力闘争の歴史をふり返れば、それは明らかなことだった。

 そのことを鋭く洞察している若い野望家に、公爵はあらためて舌を巻いた。


「ですから、マルリイ同盟は揺るぎのない一枚岩でなければなりません。力のない、あるいは弱腰のところや、勝手に突出しようとするところは容赦なく切り捨てられます。淘汰は加速していき、ついには盟約国にまで及ぶのですよ」

 公爵は呆然として、恐るべき未来の到来を予言する言葉を聞いていた。


「が、しかし、帝国内が一気に乱れてしまうような状態になっては元も子もない。変化は、最初はだれもが納得せざるをえないような穏便な形で始まり、しだいにそういう形が現れてくるように導いていくのが望ましい。そして、そうなったときわたしの国と公爵のランダールがともに生き残っていく道を、今のうちにつけておかなければならないのです……」

 若者は言いながら、意味ありげな視線を居間の入口のほうへと動かした。


 公爵は、白いドレスをまとった若い女性がそこに立っていることに初めて気づいた。


 一人娘のユングリットだった。

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